16歳8か月の愛猫ミーチェ(愛称みいみ)を2020年秋に亡くしました。
でもタイトルはこのままにして、その後の日々を綴っていこうと思います。
2021/10/16
コロナ禍になって1年半以上が経ち、
在宅勤務生活は、今も継続中。
でもジムや美容院、病院に通る頻度も同じ。
外食する頻度も微減した程度で
テラス席や座席間隔の広いお店を
選ぶようになったくらいで、
コロナ禍や緊急事態宣言下でも
あまり大きな変化はなかったかも。
一番大きかったのは考え方の変化かな。
行かないと出来ないと思っていたことが
行かなくても出来ることも意外に多くて。
以前なら参加出来なかったイベントにも
家からリモートで参加出来るし、
職場じゃないと出来ないと思ってた仕事も
やってみたら結構家でも出来たりして。
この変化は勿論わたしだけじゃなくて
社会全体で起きてることだけど
コロナ禍の後の社会はどう変わるのか
わたしにはまだまだ見えてはこない。
欧米はコロナ前に戻りつつあるようだけど
ただ元通りに戻るだけなのかなあ。
出来ればそうじゃないといいなと願ってる。
とても快適とは言えない通勤電車や、
ほとんど儀礼的な挨拶まわりや、
顔つなぎだけが目的の出張などは、
なくてもちゃんと社会は回ることが
コロナ禍で折角分かったのだから。
そこから、誰にとってももっと優しくて、
意味のある社会になるといいなと
社会の片隅でひっそりと祈っています。

12
2020/10/24
金木犀が街のあちこちで香る季節。
読書の秋にかこつけて読んだのは、
日本人漫画家と結婚した、
AFP通信社勤務の仏人女性が書いた
「
不便でも気にしないフランス人、
便利なのに不安な日本人」という本。
タイトルを見た瞬間、妙に納得して。

(近所の金木犀の生垣)
例えば日本では大学、専門学校を
その年に卒業したほぼ全員が
在学中に内定をもらっているのに
「自分の将来に明るい希望がある」と
アンケートに答えたのは6割ほど。
一方フランスでは殆どの学生が
在学中に内定をもらうことはなく、
卒業してから職探しが始まるのに
83%以上が希望があると回答。
失業率は日本の3倍もあるのに。

(私の朝のジョギングコース)
交通機関などの公共サービスも
日本は比類なき正確さを誇るけど
フランスの電車(SNCF)は
時間通りに来ないし、運休も頻繁。
ストライキもしょっちゅう。
パリのメトロに至っては
時刻表そのものがないのだとか。
それで成り立つ社会もすごいけど
それでハッピーなフランス人には
色々考えさせられてしまって。
「幸せになるのに、そんなことは
どうでもいいこと」なんだろうな。
随所でクスっと笑わせられながらも
幸せや生き方、社会のあり方を
結構考えさせてくれる本でした。

11
2020/5/8
緊急事態宣言の延長に伴って
私の在宅勤務も当面延期。
仕事前に引き続きせっせと
河川敷を歩いています。
日本もPCR検査を増やさなければ
大変なことになるかもと危惧したけど
どうやら杞憂に終わりそうな気配。
結局日本政府のやり方は
あれはあれでアリだったのかなあ。
でも、やっぱり釈然としない。
韓国並みに徹底してくれた方が
国民としては安心できるし
そういう政府の方が信じられる。
新規感染者がこれだけ減ったのは
やはり政府の手腕などではなく
日本人の国民性による気がする。
良くも悪くもきわめて均一的で
自己抑制の効いた社会だから。
今回は少し誇りに思っていいかも。
とはいえ、いまだ収束には遠く、
今後ぶり返すかもしれないから
のんびり誇りに思ってないで
気を引き締めていかなければね。

13
2019/9/21
幾つになっても難しいのが
人間関係というもの。
大半は距離の取り方の失敗。
必要以上に踏み込んだり、
期待したり、思い込んだり。
その結果、勝手に傷ついたり
がっかりしたり、疲れたり。
美輪明宏さんがよく言う、
「腹六分目の人付き合い」が
たぶん一番いいんだろうな。
踏み込みすぎず、期待しすぎず
近づきすぎず、離れすぎず。
必要な時に助けられる程度の
互いに心地よい距離を保って。
心地よい距離は相手によるから
あくまでケースバイケース。
人によっては会わないことが
ベストな距離感ということもある。
残念ながら、そういうこともある。
若いころは距離を縮めることに
エネルギーを使ってしんどかったけど
年を取るにつれて徐々に開放されて
互いの間にある距離の心地よさも
分かるようになってきたみたい。
「社交的」と言われがちな私にも
人付き合いを苦手に思う一面も。
そんな一面を否定するのをやめて
受け入れられるようになったことも
楽になった一因のような気がします。

11
2019/8/24
息苦しいほどの暑さの盛りも過ぎ、
朝晩が過ごしやすくなってきました。
夏の終わりはほっとする反面、
少し物悲しいような、寂しいような。
京アニの「聲の形」を観ました。
高校時代に毎日通っていた街が
あんなに美しい街だったことに
作品を通じて気づかせてもらえて。

(「聲の形」の最後にも花火が)
物語自体は思春期の生きづらさや
友情や恋などの人間関係の戸惑いが
繊細に、ていねいに描かれていて
あの頃の心の揺らぎが胸によみがえる。
自分を誰かにシンクロしながら見るには
もう年を取り過ぎてしまったけれど。

(これは淀川花火大会の花火)
あの痛ましい事件から1カ月が過ぎて
改めてこみ上げる怒りとやるせない思い。
こんな繊細な作品を作り出す人々が
なぜ標的にされなければならなかったのか。
事件の真相が明らかにされると同時に
少しでも早く被害者の方々が回復され、
また美しい作品を作られることを
ささやかながら願ってやみません。

11
2019/8/5
京都アニメーションの事件から
3週間近く経とうとしているけど
私の中では消化できないことが
まだいっぱい残ったまま。
あんな恐ろしい事件に対する
心の震えもまだ止まらなくて。
11名の犠牲者の実名報道も
果たして本当に必要だったのか。
遺族が望むのでない限りは
匿名のまま、そっとしてあげてと
心から心から祈っています。
報道を通して知ったのだけど
京アニ作品と私は縁があるらしい。
「涼宮ハルヒの憂鬱」のモデルの街は
わたしが住んでる西宮。
「聲の形」のモデルの街は
高校時代に通っていた街。
私はアニメ世代ではないし、
京アニのことも知らなかったけど、
せめて彼らの作品のいくつかを
今さらながらだけど見てみよう。
それが今、わずかな寄付のほかに
私が出来ることだと思うのです。

10
2019/7/30
この週末は近所の商店街の夏祭り。
駅前の商店街が歩行者天国になって
それぞれのお店が露店を出して。
学校は夏休みだし、お天気も良く、
親子連れもいっぱい来ていました。
風船釣りやくじびきなどのアトラクション、
ビールやお好み焼きなどの飲食店、
それにジャズバンドのライブ演奏も。
地元のバンドなのか、プロなのか、
素人にはじゅうぶん楽しめました。
お稲荷さんの小さな祠の前では
女学生さんたちのアンサンブル。
お稲荷さんも喜んだことでしょう。
いきなりの暑さで体は大変だけど
各地でこうしたローカルな催しもあって
「夏休み感」を味わえる季節。
小さな商店街もイキイキと活気に満ちて
そこにいる誰もが幸せそうで、
なんだか自分まで嬉しくなる。
夏の魔法なのかもしれません。

7
2019/4/10
新しい元号が「令和」に決まった時
「レイ」で始まる元号を予想していた、
わたしは職場で小さくガッツポーズ。
単なる直感に過ぎなかったんだけど。
この話をフランス人の知人としてたら、
海外での発音は色々厄介らしい。
フランスではRは息が抜けるから
「ヘイワ」のように発音されるし
ドイツでは「ライワ」になってしまう。
英語では"railway"と聞こえるとの声も。
元号を外国語にすることはあまりないから
まあそれも良しとしておきましょう。
レイワだろうと、ヘイワだろうと
ライワだろうと、レールウェイだろうと
戦争がなく、災害も少ない時代となれば
それ以上に望むことはないのだから。

11
2018/3/11
東日本大震災から、今日で7年。
このところ連日流される特集番組は
見るたびに、やっぱり心ふるえる。
人間の力がどれほどちっぽけで
いのちがどれほど儚いものかを
普段は忘れそうになっているから。
どれほど大切にしてきたものだって
一瞬にして奪われることもある。
当たり前だと思っていた明日が、
当たり前ではなくなることもある。
だからこそ、このありきたりの日々が
無力ではかない、このちっぽけな命が、
愛おしく、美しいものだってことを
思い出させてくれる、今日は祈りの日。
NHKドラマ「この声をきみに」でも
朗読されていた銀色夏生さんの詩。
この詩をわたし自身の祈りに代えて。
「祈るように願う」
祈るように願う
形から入っても
思いがそれに続きますように
祈るように願う
悲しみの海は深くはないと
あの人が気づきますように
祈るように願う
何度でもやり直せることを
あの人が気づきますように
祈るように願う
今見えるものにも別の面があることを
あの人が気づきますように
祈るように願う
今悩んでいるその場所から
心だけは飛び出すことができることを
あの人が気づきますように

7
2017/12/1
駅前の本屋さんがつぶれて
ちょっとショックだったけど
待ちあわせや時間つぶしするばかりで
気がつけば、長らくあのお店で
本を買ってなかったから当然かも。
私は結構な数の本を買ってるけど
どれももっぱらネットでばかり。
とりあえず読んでおきたい本は
ネットで買ってネットで処分。
売買の手間が多少面倒だけど
日常的にやってるから慣れたもの。
西北の巨大なジュンク堂に行くのは
何かを買うためというより、
面白そうな本を探しに行くとき。
通常のアンテナには引っかからない本が
目に止まったりするのが楽しいから。
街角から本屋さんが消えていくのは
本好きとしては寂しいけれど
つぶしたのは私のような消費者だから
寂しがる権利もないのに。
私たちの「便利」と「安さ」の陰で
失われていくものに対する心の痛み。
かつての本屋さんの前を通るたび
チクリ、チクリとうづいています。

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