16歳8か月の愛猫ミーチェ(愛称みいみ)を2020年秋に亡くしました。
でもタイトルはこのままにして、その後の日々を綴っていこうと思います。
2008/9/28
金曜日は職場の送別会。
いっぱい食べて、
いっぱいしゃべって、
いっぱい笑って、
楽しい時間を過ごしました。
楽しい時間の後に残るのは
ぽっかりと空いた穴のような
埋めようのないさみしさ。
いつもいつも、
もう何度となく
繰り返されてきたこととは云え。

でも、わたしはきっとだいじょうぶ。
一人ぼっちになるわけじゃないから。
だからみんな、元気で行ってらっしゃい!
みんなのそれぞれの行く末に
たくさんの幸せと喜びが待っていますように。
そしていつかまた、必ず会えますように!

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2008/9/27
昨日の朝は、家を出た時は傘もいらないほどだったのに
駅に着いたとたんから少し先も見えないくらいの
ものすごいどしゃぶりの暴風雨。
バケツどころか、琵琶湖をひっくり返したくらい。
そんな時、駅のホームで、目の不自由な男性が
何か途方にくれていらっしゃるご様子。
声を掛けてみたら、案の定京都から初めて来て、
階段も改札も場所が分からず、お困りとのことだったので、
下手なナビでしたが改札までお連れし、
ICOCAのチャージもお手伝い。
行き先を伺ったら駅のすぐ近くにあるところだったため
どうせなら、ということで、そこまでお供しました。
二人ともびしょぬれにはなったものの
無事に目的地の玄関にたどり着き、ほっとひと安心。
ささやかながら人のためになれたということで
わたしも小さいけれど十分な幸福感を頂きました。
それなのにその方は、背負っていたリュックから
手探りで一冊の本を取り出し、
「助けていただいたせめてものお礼とこのご縁に、
僕が書いた本ですが、良かったら読んでください。」と
わたしに手渡してくださったのでした。

「風になってください」というタイトルの、
きれいなコスモスの写真の表紙の本は
見える人たちには見えないもの、気付かないものが
幸福感と人間愛に満ちたまなざしで綴られていました。
見えているつもりで、見えてなかったこと
こんなにもいっぱいあったんだなと、
たくさん、気付かせていただきました。
あの時はお名前さえ知らなかったけれど、
松永信也さん、あの朝わたしは
あなたから2つも贈りものを頂きました。
ささやかでもお力になれたという、幸福感と、
そしてこの本から届けられたたくさんの温かなメッセージと。
本の帯には、こう記されていました。
「今、この本を手にとってくださっている、あなた。
ありがとう。
この種を運ぶ風になってください。
理解は共感につながります。共感は力となります。
そして、力は、未来を創造すると、僕は信じています。」
仕事には遅刻しちゃったけれど、
わたしも小さな風になれるでしょうか。

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2008/9/25
お彼岸になったなあと思っていたら
こんな街中の、駅前のマンションの植え込みにも
燃え立つような彼岸花が咲いていました。
管理人のおじさんが刈り取ろうとしていたところを
わざわざ待ってもらって、携帯でパチリ。

職場では、いよいよ上司と
ジャマイカからのインターンさんが
今週いっぱいで去っていくことになりました。
今回は、6年半も共に過ごしてきた上司を始め
心から打ち解けあった人たちを
短い間に一気に3人も見送らなければならないから、
今までになく、耐え難い淋しさがあるけれど、
新しい未来に向かって漕ぎ出す仲間を
せいいっぱいの笑顔で見送って
残された者たちで、この小さな事務所を守っていくのが
今のわたしに課せられたお役目なのでしょう。
また少しずつ、新たな小さな楽園を築いていこう。
わたしは小さな灯台になろうと決めたのだから。
旅立つ人たちを元気に送り出し、
そしていつか帰って来る日に笑顔で迎え入れられるように
ここで、小さな灯をともし続けようと決めたのだから。

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2008/9/23
と言っても、このコンピュータの話。
バックアップがすんなり出来ないのは
あれこれ調べてみると
どうも本体に故障があるせいらしいと判明。
コンピュータのない生活は不便だけど
ある日突然昇天されても困るので
入院させることにしました。

そのためしばらくこのブログのアップの頻度も
極端に落ちるか、載せてもとても短くなるけれど
待っていてくださいね。
本当に、困ったものです。
でも、バックアップは何とか出来たみたいだし
(あくまで、た・ぶ・ん、というのが不安なところ)
原因が分かっただけでも、良しとしましょう。

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2008/9/22
長い間アップ出来なくてごめんなさい。
忙しいのもあったのですが、
コンピュータの調子がずっと不安定で
遠からず必要なリカバリーに備え、
外付HDDを購入してバックアップを試みていたのだけど
これまたうまくいかなくて
バックアップに何十時間とかかる上、
作業中は動作速度がめちゃくちゃ遅くなるので
殆ど使えずにいたものだから・・・
コンピュータほど便利なものもないけれど
ストレスの原因になっているのも間違いなさそう。
この問題は、残念ながらいまだ継続中。
ストレス満載の心をなごませるために
ちょっと野の花の画像なんて載せてみよう。

ああ、やっぱり草花はいいな。
ただそこに在るだけで、気持ちがほぐれる気がして。
ちょっぴりなごんだところで、元同僚兼友人が
面白いサイトをやっているので、ご紹介しましょう。
"micro-blogging"(マイクロ・ブロギング)の一種で
RAKAWA.netというサイト。
サイトのテーマは"What have you achieved today?"(今日何をやれた?)
誰でもいつからでも参加できて、
どんなにささやかなことでもいいから一日にひとつ、
達成できたこと、出来たこと、得たことを
150文字以内(2センテンスくらい)に綴っていくというもの。
あれば写真やグラフィックも一緒にアップできるみたい。
60年代の日本人アーティストの作品から発想を得たらしいけど
その試みには、わたしも共感するものがあって。
ネット上には不特定多数の匿名の人たちが
うわさや悪口、批評などを書き込むサイトは多いけれど
これはそのアンチテーゼみたいなものかな。
不特定多数の匿名の人たちが
ささやかな自分の一日に起きた良いことを
ただ批評もコメントもランキングもすることなく、
寄せ書きのように書き綴っていく、ただそれだけ。
でも、様々な人のミクロの幸せを寄せ集めていくうちに
なにかマクロな喜びが生まれそうで。
ひと言ブログなだけに、片言英語でもだいじょうぶだから
もし興味があったら、参加してみてね。
わたしもこの分からず屋のコンピュータを何とかしたら
参加してみようと思っています。

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2008/9/16
みみにゃんの寝姿は
相変わらずとても面白い。
ちょっと静かになったなあ、と思うと
どこかでころんところがってお昼寝。
暑い日は床にころん。
少し肌寒ければ、ソファーにごろん。
家中どこでも
みみにゃんにとっては楽園らしい。

"Bloom where you are planted."
(与えられた境遇で花を咲かせなさい)
とは確か聖書の教えだけど
みみにゃんを見てると
それを自然にやっているみたい。
仔猫の時に無理やり連れてこられて
以来ずっと家に閉じ込められているようなものなのに。
それでも、みみにゃんはその境遇で
じゅうぶんに幸せそう。

でも考えたら、木も草も野の花も
岩場であろうと溝であろうと
自分が置かれた場所で精一杯葉を広げ、
虫も動物も、みんなそうしてる。
置かれた場所に文句を言ったり
うらんだり、ねたんだりするのは
つまり、人間だけってことか。
みみにゃんのボンレスチックな寝姿も
いろいろなことを教えてくれるものなのでした。

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2008/9/13
近所の大きなお屋敷の塀から
あふれんばかりに枝を伸ばす、緑豊かな夏萩。
わたしの背よりも高い大きな萩だけど、
日に日に枝先を伸ばしていって、
地面に触れる日も間もなくと言ったところ。
ああ、花の咲く日が待ち遠しいな。
わたしはこぼれるように小花をつけて
風に揺れる、萩の花が大すき。

そういえば、明日はもう中秋の名月ですね。
静かに虫の音を聴きながら
月をながめたりする生活に憧れる気持ちとは裏腹に
今のわたしの生活は、物理的にも精神的にも
どうしてこんなに余裕がないのかしら。
自ら好き好んで、忙しくしてしまった分が半分、
避けられるものなら避けたいけれど
避けられずに、降りかかって来たものが半分。
不安も心配もてんこ盛りの状況だけに
とにかく心配の先取りだけはやめよう、と
心に何度も、繰り返し言い聞かせる毎日。
わたし実は、必要以上に心配性で
それが多分、わたしの心を弱くしている最大の弱点。
起こってもいないことを先に心配して
体調を崩したり、眠れなくなったりするのは
馬鹿げてると分かってはいても。
だから、これはその弱点を克服するための
いいチャンスなのかもしれない。
必要なだけ心配したら、あとは天にお任せ。
自分に出来ることを精一杯やったら、
あとはこれまた、天にお任せ。
人生には、その人に必要なことしか起こらない、
と、何かの本で読みました。
その真偽はどうあれ、
何があっても自分に必要なこと、と信じれば
心配も不安も、なくなることでしょう。
だからわたしはもっと、自分の人生を信じよう。
自分に起こることすべてを、信じよう。

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2008/9/9
先日「第九」の3回目のレッスンに行ってきました。
宿題はあるし、進度は早いし、音程も発音も難しいし
ついていくのは、相変わらずとっても大変。
その大変さに余りあるよろこびが
第九にはあるから、不思議。
わたしはそもそも、シラーのこの詩が好き。
「いつまでも変わることのない友情を勝ち得た者、
誠実な妻を勝ち得た者は
ともにこの歓喜の歌に加わるがいい。
そうだ、たとえ一つの魂でも
自分のものと呼べる者は、誰でも。
そしてそれが出来ぬ者は
涙してこの集いから、そっと立ち去るがいい。」
最初は、なんて厳しい言葉かと思ったけれど、
自分のものと呼べる魂を一つも持たない者というのは、
誰からも愛されず、誰をも愛さない者のことなのでは。
だとしたら、そんな人などこの世にはいなくて、
ただ、それに気付かない人がいるだけ。
まわりにある愛がちゃんと見え、
感じることのできる者は幸福に至り、
それが出来ぬ者は、幸福にはなれない、
そういうことなのではないかと。
だから自分のまわりを包んでいる小さな愛や幸せに
ちゃんと心を開き、それに愛で応えることで
歓喜の輪に加わろう、ということなのでは。
素人の勝手な解釈だから
プロの人が聞いたら、あきれるかもしれないけれど。

今回、応募者の数が多かったらしく、
随分多くの方が、出たくても出られなかったことを知りました。
友達のお母さんやおばさんを始め、
毎年のように出てらした常連さんたちも当選できなかったと。
週末、会いに行った父に、
「年末はお父さんのために第九を歌うね」と言ったけれど
と同時に、出たくても出られなかった、
たくさんの人たちのためにも、精一杯歌わなくては。
父や、今回出られなかった方々や、
その他いつも励ましてくれる人たちに
わたしが第九を通じて出来る、ただひとつのこと。
それを、愛、と感じてもらえるように
下手くそでも、心だけは精一杯こめて歌ってみるから。

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2008/9/8
二十四節気で「白露」というのは、
朝の野草に宿る露に秋を感じ、
虫の音が夜毎に盛んになる頃ですって。
日中はまだ30度を越して暑い日が多いけれど
確かに夜になると淋しげな虫の音が
しのび寄る秋を思わせる。
そういえば職場近くの街路樹も
ほんの少し、色づき始めたみたい。

朝晩の温度差も次第に大きくなり始め
そのせいか、少し風邪気味だけど、
この秋は、わたしには公私共に
本当にいろんなことがあるから、
寝込んだりしないように、気をつけなくちゃ。
そしてそれらも、苦しいことだけじゃないから、
喜び、楽しみも、胸にちゃんと抱きとめて
わたしの大きさのままで
わたしなりの秋にしよう、と思うのでした。

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2008/9/4
父が倒れて、間もなく4ヶ月。
今日は父は、全身麻酔で手術を受けました。
やっと流動食が自分で食べれるようになったのに
体力を維持できるほどは食べられないため
結局、胃に直接チューブを入れることになって。
自分の口から、たとえ流動食と言えども
少しでも食べられたのにと、残念な気もするけれど
会いに行くたびに、小さくなっていく父を見ると
やはりこの方が良かったのだと、信じつつ。
わたしは仕事で、付き添えなかったけれど
母はずっと付き添っていたそうです。
すっかり痩せてしまった父の手術が終わるの待つ間
母はどんな思いでいたことか。
こんな時に、傍についていてあげられないような
役に立たない娘で、本当にごめんなさい。

理性ではその方がいいと分かっていても
心情的に受け入れるのが辛いということは
世の中には、幾らでもある。
ましてや70を過ぎた母には
受け入れられないことの連続だったに違いない。
50年もの年月を共に過ごしてきた伴侶が
ある日を境に、自分の傍からいなくなったのだから。
そして、期待よりも厳しい現実を
次々に突きつけられ続けたのだから。
どんなに簡単な手術と言われても
すでに弱っている父に痛い思いをさせるというだけで、
眠れなくなるような、そんな母にとって。
様々な手配は、姉が一手に引き受けてくれていて、
妹も身を削るようにして頻繁に行ってくれているとはいえ、
実家に一人残された母の心情までは
たとえ娘でも、十分に救ってあげられるはずもない。
ましてや、誰よりも遠く離れていて、
しょっちゅう会いにいけないわたしなどでは。
だから、いろんなことを受け入れられずに戸惑い、
どうしたいかも答えられずにいる母に対して、
苛立ったり、ましてや責めるような態度を取ってはならない、と
それだけは、心に固く固く、誓いました。
頭での覚悟と、胸の中のどうしようもない淋しさの狭間で
割り切れぬ思いでいる母の孤独と悲しみに、
せめて、寄り添っていてあげなければ。
ずっと傍にいてあげることは出来ないけれど
気持ちだけは、いつも傍にいます。
何も出来ないけれど
あさってにはまた、会いに行くから。

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