16歳8か月の愛猫ミーチェ(愛称みいみ)を2020年秋に亡くしました。
でもタイトルはこのままにして、その後の日々を綴っていこうと思います。
2008/8/9
昨夜は2年ほど前に
うちの職場にいてくれた元インターン君が
一緒に食事でも、と言ってくれたので
現在の職場の仲間も誘って
みんなで芦屋のベトナムレストランへ。
彼は思うように就職出来ず、
一時落ち込んだりしたのを知っているだけに
研修が大変だと言いながらも
元気そうな顔を見て、ひと安心。
その彼が「○○(うちの職場)に来るとほっとするんですよね」
と笑顔で言ってくれるのを聞いて、
何だか自分がこれまでこの職場でやってきたことを
それでよかったんだと言ってもらえたような気になって
本当にうれしくなりました。
奇しくもその日の午後には
もう社会人になった別の元インターンさんからも
元気そうな近況報告の電話も。
正職員が2人しかいない小さな職場は
いつも入れ替わり立ち代り
インターンさんやボランティアさんや
契約社員の人たちを迎え、送り出すのが常。
わたしはいつも送り出すばかりで
まさに「変わりゆくものを見守る、変わらない日々」。
灯台のように出て行く船を見送り
帰って来る船を迎える、それが役目と思いはしても
そこに淋しさがあるのは否めない。

でも昨日の彼の笑顔を見て、
電話をかけてくれた元インターンさんの声を聞いて、
そして間もなく巣立ってゆくインターンさんの
心のこもった"Thank you."を聞いて、
改めて、これで良かったんだと思えました。
当初は必ずしも居心地のいい職場ではなかったけれど
6年かかって、わたしはここに
わたしなりの小さな楽園を、
あるいはそれに近いものを、
築いてこられたのかもしれない気がして。
どこにいても自分の居場所を作れる人に、
そして自分以外の人の居場所も作ってあげられる人に
ずっとなりたいと願ってた。
それが、楽園を築く人、だと思ってたから。
これからもたくさんの出会いと
淋しい別れを何度となく繰り返すだろうけど、
そしてこのはかない楽園も、いつ壊れるか分からないけど、
何度壊れても、どれだけの別れを繰り返しても、
小さくても温かな灯を自分が灯し続ければ
きっとまた、そこに楽園は生まれる、
そう、信じよう。

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2008/8/8
事の始まりは4−5年前、
隣の財団にいる友達が
タイ出張のお土産にくれたドリアンキャンディー。
まだ本物のドリアンを食べたことのないわたしは
好奇心から無邪気にほおばったものの
口中に広がるあまりの臭いに全身が硬直。
なめることも出来ずにトイレに直行。
ドリアンを食べたことのある上司は
そんな大げさなと笑っておきながら、
自分も口に入れた途端
固まったまま、黙って廊下の方へ。
ほんのわずかな間、口に入れただけなのに
その日は一日中息をするたび、物を言うたびに
自分の体の中から、古い貯め池のような、
小学校で飼っていたタニシの水槽のような、
なんとも生臭い、腐敗臭が漂って
ドリアンの恐ろしさを思い知ったのが、その時。
そして昨年の秋、歴代のインターンさんや
ボランティアさんや、契約社員だった人たちと
梅田のベトナムレストランで食事をした時、
メニューにドリアンアイスクリームを見つけたわたしは
店員さんをそっと呼んで
長いテーブルの反対側に座っていた上司を指し、
「あちらの紳士にこれを」と、それを勝手に注文。
突然届いたアイスクリームを上司は不審げに食べ、
げげー、ドリアンだー、と騒ぎながら
結局全員できゃーきゃー言いながら、回し食べしたのでした。

ところでこれは職場の同僚が
実家で取れたゴーヤをみんなにお土産にくれたもの。
よく熟れて黄色くなったものは苦くないんですって。
これはさっそくチャンプルーにしなくちゃ。
こういうお土産なら大歓迎なのですが・・・
もうすっかりドリアンのことを忘れていたつい先日、
昨年秋の集まりにも来てくれていた元契約社員の子が
タイのお土産にと、お菓子を持ってきてくれたのです。
おいしそうなクリームサンドの絵の上には
読めないタイ語と共に、なぜか日本語で
「ドリアンワリームワッキーザンド」の文字が。
ドリアンクリームクッキーサンド、なのだろうけど、
すでにして、怪しい雰囲気。
嫌な予感に、誰も封を切ろうとしなかったのに、
わたしが留守にしていたある日、
ついに上司が、封を切ったのだとか。
それはこれまでの中で最悪だったらしく
開けた瞬間から、職場中に猛烈な腐敗臭が漂い、
ハンガリーやジャマイカ出身のインターンさんたちも
口にすることも、出来なかったらしい。
結局あまりの臭さに仕事どころの騒ぎでなくなって
ビニール袋に入れて、厳重に口を縛ったものの
終日その臭さは消えず、
来客が「何か腐らせたんですか?」と聞く始末。
もはやこれは、化学兵器並み。
なのに翌朝わたしが出勤してくると
厳重に包まれたそのドリアンワリームワッキーザンドが
わたしの机の上に何気なく置いてありました。
事情を知らないわたしは、
危うく無邪気に開けそうになり
周りの人から「外で、なんでもいいから外で」と言われ
ようやく事情を知りました。
いやあ、あぶないところだったぁ。
誰の仕業かと思いきや
昨年秋のアイスクリームを忘れていなかった上司。
報復攻撃とはいえ、これはテロでは?
というわけで、わたしの職場では数年にわたって
隙を狙ってのドリアン攻撃がずっと継続中。
わたしも忘れた頃くらいに
次なるゲリラ攻撃を狙っているところです。

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2008/8/7
暑中お見舞いのご挨拶をしたばかりなのに
今日は暦の上では、もう立秋。
そう思えば、朝夕が
ほんの少しだけ過ごしやすくなったような・・・
でもこの空の青さからすると
やっぱり気のせいかしら。
毎年夾竹桃が咲く頃になると思うのは
なぜか戦争や平和のこと。
長崎や広島の原爆記念日、
終戦記念日の頃に咲く花だからでしょうか。

今日NHKの特集で
原爆の誤りを告発し続けた
アメリカのカメラマンのドキュメンタリーを見ました。
終戦後に原爆の効果を記録するために
長崎や広島で写真を撮り続けた、元アメリカ兵。
あまりの惨状で受けたショックで
写真は40数年もの間、封印し
誰にも語らず、口を閉ざしてきたのに
晩年、自らの使命に目覚め
封印してきた写真を公開し、
自分の経験を語り始めたのだとか。
「確かに日本軍は中国や韓国でひどいことをした。
しかし1945年の原爆投下は間違っていた。
それは100年経っても間違いであり続ける。
未来永劫、それが正当化されることはあり得ない。」
いまだに原爆の正当性を疑わない見解が主流で
原爆の惨禍を語ることはタブーとされているアメリカで
この勇気ある主張がどれほどの、
非難や中傷を浴びたかは、想像に難くない。
奥さんにも理解されず離婚し、
周囲にも理解されず孤立し、
それでも生涯語ることを諦めなかった彼の良心。
「たとえ小さな石であっても
波紋は広がっていく。
それは少しずつ広がり
いつか海岸に届くはずだ。
アメリカの海岸にもいつか届く日がくる。」
「誰かが続いてくれれば波紋は更に広がっていく。
みんながそれぞれに小石を投げれば
いつかそれは大きなうねりとなって
みんなが本当の平和を目にし、
耳にする日が必ずくる。」
そして彼は奇しくも長崎に原爆が落とされた
8月6日に亡くなったそうです。
胸を打たれ、涙がこぼれたけど
彼に敬意を捧げるだけでは、
彼はきっとがっかりすることでしょう。
わたしもそれを信じる一人とならなければ。
そして、どんな小さな小石でも
投げる人にならなければ。

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2008/8/6
西日本では厳しい暑さが続いていますが
みなさんお元気でお過ごしですか。
夏バテされたりしてませんか。
今年はあまり多くの方に
書状でのご挨拶ができなかったので
この場を借りて暑中お見舞い申し上げます。
これはご近所の玄関で咲いていた
かわいらしい元気なひまわり。

わたしも若くて細かった頃には
毎年夏には必ずバテたものだけど
いつの頃からか、暑さには滅法強くなりました。
その分、寒さには弱くなって、
中でも効き過ぎた冷房は、わたしの天敵。
特に風通しのいい、今の部屋に越してきてからは
冷房を使うのは、ひと夏に数えるほど。
夜は冷房どころか、窓を開けて寝ると、
風が通り過ぎて、冷えてしまうので
窓は閉めて、冷房もなしで眠ります。
熱帯夜が続いても、
寝苦しさを感じずに眠れるのは
ちょっとした特技かも。
日中も冷やすと体調を崩しがちなので
終日アウトドアな時以外は
スカートやサンダルは諦め、
どこにいくにもカーディガンかジャケット持参。
世間が暑さと戦っている真夏に
冷えと戦う少数派だけど
逆に冷やしさえしなければ元気でいられるから
思えばありがたいことかしら。
きっとこの元気なひまわりも
冷蔵庫のような冷房の中に閉じ込められたら
色あせてしまうはず。
わたしも草や木のように
自然な風の中でひと夏を過ごしましょう。

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2008/8/4
昨日は友達と夏のバーゲンに行ったついでに
甲子園で高校野球を見てきました。
甲子園球場へは自転車で20分ほど。
さすがに、炎天下の外野だと
生還出来る自信がなかったので
屋根つきの涼しいネット裏の有料席で。
それでも近畿勢同士の対戦とあって
球場は、内野も外野も観客でいっぱい。

第三試合(智弁vs近江)と
第四試合(報徳vs新潟県央)を観たのだけど
どちらも本当にいい試合でした。
スポーツには疎いわたしだけれど
スポーツを愛する人の気持ちは良く分かる。
ルールも良く知らないわたしが観ても
思わずアドレナリンが出たり
胸を打たれるようなシーンが幾つもあって。
きっと普段は、その辺でごろついていて
眉をひそめさせるような普通の若者と
あまり変わらない子たちも少なくないのだろうけど
あの極度の緊張感と高揚感の中に立たされると
余計なものが全部そぎ落とされて
どの子も、純粋さとひたむきさだけになる。
そしてそれが、人の心を打つのでしょう。
社会人となり仕事と家事に追われる生活をしていると
あんな風に生命を燃え立たせられる瞬間ってないから
勝っても負けても、まぶしいきらめきが
ただただ、心地良くって。
父も高校野球が大好きでした。
今はあまり目に入らないみたいだけど
どうかわたしの目を通じて
父の胸に彼らの生命の輝きが届くといいな。
オリンピックも間もなく開幕。
4年に一度の生命の讃歌を楽しみにしています。

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2008/8/2
土曜日は日帰りで父のお見舞いに。
わたし自身救急車で運ばれてから1週間しかたってないけど
電車で往復6時間をしてしまうくらいだから
もうすっかり元気そのもの。
心配して下さったみなさん、
本当にありがとうございました。
老健に移ってから初めてのお見舞いで
施設を見るのも初めてだったけど
思ったより、明るくきれいで
会う人会う人がにこやかに挨拶してくれるような
温かみのある感じのところ。
父も落ち着いた様子で、
新しい環境にも馴染んだように見えました。

母をはじめ家族は、
これからもひとつひとつ新しい現実と
向かい合っていかなきゃいけないけれど。
何がベストか、誰もわからないまま
迷いながら手探りを続けなきゃいけないけれど。
でも精一杯、父のためを思って選んだことならば
きっと父は、それでいいと言ってくれるに違いない。
わたしはそう信じてる。
そんなことを思いながら
真っ赤なトマトを食べました。
まぶしい光の中ではじけるように輝く
夏の生命を分けていただきながら。

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2008/8/1
うちのマンションの西隣には神社があり
マンションの北側のゴミ置き場に立ち寄った後
その神社の脇を通って駅へと向かうのが
わたしのほとんど毎朝の習慣。
地域で親しまれている神社らしく
いつもどなたかがお参りされています。
その中に、この頃同じマンションの方を
良くお見かけするようになりました。
わたしが2年前にマンションの理事を勤めた際
理事長をされていた方。
落ち着いた、すらりとした物腰で
まだ30台後半くらいでしょうか。

その年、くじで選ばれた理事が初めて集まって
これまた、くじで役職の割りふりをした時、
書記の役職に当たった人が
「自分の家の事情(出張がちで奥さんが妊娠中)のため
もっと楽な役職に変えてもらえないか」と言い出し
一同が困惑したことがあったのだけど、
理事長に当たってしまったその人は、
「自分も長期入院している子供を抱えているけれど
事情があるのはどこも同じと思って
精一杯がんばるつもりでいますから
お互いの事情を持ち出すのはやめにしませんか」と
さわやかにして潔い発言で
その場を、見事に納めたのでした。
朝の出勤時間が同じ頃らしく
これまでも玄関などで何度か
出勤時にお目にかかることはあったけれど
その元理事長さんが、このところ毎朝
出勤前に、神社でお参りされている様子。
今朝も拝殿前に後姿がありました。
長期入院されているとおっしゃってた
お子さまのことなのでしょうか。
きっと、ありふれた出勤風景の中の
ありふれた一人一人が、
各々いろいろなものを背負いながら
ありふれた日常を、精一杯紡いでいる。
人間と、その営みの尊さを、改めて思う朝でした。
元理事長さんの祈りが通じることを願いつつ
今日から、8月を迎えました。

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