16歳8か月の愛猫ミーチェ(愛称みいみ)を2020年秋に亡くしました。
でもタイトルはこのままにして、その後の日々を綴っていこうと思います。
2008/8/29
季節の移り変わりのせいなのか
このところすっきりしないお天気が続きます。
こうして名残の暑さを残しながらも
夏は一歩一歩去っていくのでしょう。
わずかな晴れ間を縫うように
うちのお隣にある神社にお参りに行ってきました。
静かな境内には、ハトが一羽。
動き始めたさまざまなことに
わたしが乗り切れますようにと。

職場の人事異動、第九に続き、仏検受験も。
こちらの試験は11月なのだけど
今回は今までで、一番自信がなくて。
英語の時は、中学2年で3級を受けて、
次は2級をすっとばして、
いきなり1級を受け、
国連英検にしても、TOEICにしても
最高レベルを難なくクリアしたものだから
今から思うと恥ずかしいのですが、
語学というものをなめていたところがありました。
それはまさに、若気の至り。
怖いもの知らずの、自信過剰。
自分がどれだけ恵まれていたかも気付かず
自分の能力を過信していた日々。
今では年齢的にも環境的にも、
あの時とは違うのだから
習得の速度は格段に落ちたけれど、
その分、得たものは遥かに大きなものでした。
今の私なら、あの頃よりもっと謙虚になれる。
苦労しながらも、続けられる環境を与えられていることに
それがどれほど恵まれていることか、感謝も出来る。
自分の大きさを、過大にも過小にも評価することなく
あるがままに受け入れることも、少しはうまくなれた。
大変な中で続けていくことの、忍耐や我慢、
地道な努力、というものの価値も学んだ。
また、共に励ましあえる人たちがいてくれることの
ありがたさにも気付きもした。
失敗は成功より多くのものを教える、
と言ったのは誰だったでしょうか。
苦労もまた、同じ。
とすれば、簡単には習得できない苦労や苛立ちも
これまた、大切な恵みなのかもしれません。

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2008/8/26
処暑が過ぎたと思ったら
朝晩が本当に涼しくなってきました。
季節はいつの間にか動き始めているみたい。
ひと雨ごとに秋の空気が漂い始めているような。

そしてわたしの身の回りでも、
プライベートで第九が動き出したのに続き、
職場でも、上司のニューヨーク転勤が本決まりとなり
いよいよ本格的に新しいフェーズへと動き始めます。
上司はおそらく9月中には転勤し、
後任が決まるのは早くて11月末。
ただでさえイベントが多く、
決算も控えた慌しい時期に
果たして、どこまで事務所を守っていけるか
不安の種も重圧も、尽きることはないけれど。
でも決して忘れちゃいけないのは
わたしは、一人じゃないっていうこと。
契約形態は様々ながら
職場にはわたしを支えてくれている
かけがえのない同僚たちがいて
上司もニューヨークから
出来る限りの支援をして下さるのだとか。
ピンチであるのは間違いないけれど、
ピンチは同時にチャンスでもあるはず。
ここで頑張らなくて、いつ頑張る、と覚悟を決めて、
みんなの協力を最大限仰ぎながら
とにかく出来ることを出来る限りやってみよう。
そして、ここからまた
わたしの、わたしたちみんなの
新しい楽園作りの一歩が、
きっと、始まるに違いないから。

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2008/8/24
今日初めて12月7日の「一万人の第九」に向けた
最初のレッスンがありました。
大阪、神戸以外でも、東京や和歌山、京都、岐阜など
24以上ものグループに分かれてのレッスンだけど
何せ、総勢1万人という大部隊。
わたしの参加するグループも
びっくりするほどの大人数でした。
そしてレッスンのスピードの早いこと。
最初に各パートの第一音だけピアノで出された後は、
いきなり全パートが楽譜を見ながら
ドイツ語でコーラスを開始する等というご無体も。

子供の頃エレクトーンをやっていて
楽譜はある程度読める上に、
第二外国語がドイツ語だったし
姉が以前第九の合唱をやっていたことがあって
サビ部分はわたしもドイツ語で大体歌えるから
結構なんとかなるつもりでいたのに、
これがどうやら、大間違い。
姉がやっていたのはソプラノで
メロディーラインがアルトとは全然違う上、
楽譜は読めても、すぐには音が取れない。
今回アルトを選んだわたしは、
ソプラノに引きずられないようにするのが精一杯。
なのに半数以上の人が初参加とか言いながら、
大多数の人は、いきなり普通に歌っていて、
あれれ、どうしましょ、と焦っている間に早2時間。
みなさん、一万人の第九は初心者でも
第九自体は歌ったことがある方が多いのかしら。
わたしはコーラスをするのは、中学校の合唱部以来。
以前とは違ってブレスが持たないし、
声も思うように伸びないのを、実感。
これは腹式呼吸と腹筋、背筋を鍛えないと。
でも思う存分大きな声で歌うのは
なんて気持ちいいことかしら。
ああ、やっぱりわたしは歌うのがすき。
美しいハーモニーは聞くのも好きだけど
そこに参加できるなんて、もっともっとすき。
これから4ヶ月間、どこまで成長できるか、
ワクワクしながら、重ねる一歩一歩。
年末に佐渡さんの指揮で
第九の陶酔にひたれる日を楽しみに。

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2008/8/22
昨夜は友人に誘われて
仕事帰りに心斎橋まで出向き、
メンタルヘルスを中心とした
心理学の講習会を受けてきました。
2時間半も続く長丁場ながら
あっという間に過ぎてしまった感じ。
心理学ってこんなに面白いものだったとは。
前回私が書いていたようなことは、
ユングの心理学では
synchronicity(シンクロニシティ)というらしく、
先生はそれを「意味ある偶然」と訳されてました。
そしてそれは、たまに起こる特別なものではなく
すべてが「意味ある偶然」なのだとか。
必ずしも意味はすぐには見えてこないけれど
でも必ず、すべてのことに意味はあるのだと。
それから、人は与えたもので生かされる、とも。
もし今の自分が十分に生かされてない気がするなら、
それは自分が十分に与えてこなかったからなのだと。
どちらも、ああやっぱり、と自然に腑に落ちました。

笑顔の大切さは良く言われることだけど
心理学の世界でも、行動療法として意味あることなのだとか。
人は楽しいから笑うだけではなく、
笑うから楽しくなるのだと。
元気だから声を出すだけではなく、
声を出すから元気になるのだと。
だからまず、今からでもすぐ出来ることは、
笑顔を、ふりまくことですね。
与えたもので生かされるのなら、
笑顔を誰にでも与えることで、
きっと生かされることがあるはず。
無理やりの笑顔ででも、楽しくなることもあるはず。
もっと幸せになれることも、きっとあるはず。
今は父とフランス語と第九で手一杯で
本格的なコースは受けられないけれど
一段落したらぜひ勉強してみたいなと思いました。
ああ、またやりたいことが増えてしまったみたい。
そしていつの間にか、明日は処暑。
街角のいたるところに落ちているセミの死骸は
夏の抜け殻のようにも思えて。

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2008/8/20
職場の上司が突然、
来月からニューヨークへ転勤することに。
二人しか正職員のいない職場で、一人が転勤、
しかも後任が来るのは1−2ヵ月後というのは
残されるわたしにとっては、大打撃間違いなし。
しかもその上司は、わたしの「小さな楽園」の
大きな柱を成していた方でした。
少なくとも、「今の」楽園は失われる、
それは間違いのないこと。
先日「小さな楽園」と題したブログで
「そしてこのはかない楽園も、いつ壊れるか分からないけど、
何度壊れても、どれだけの別れを繰り返しても、
小さくても温かな灯を自分が灯し続ければ
きっとまた、そこに楽園は生まれる、
そう、信じよう。」と書いたのは、
この今のわたしに言い聞かせるためだったに違いない、
そんな気がしてならなくて。
変な話だけど、今あの言葉がなかったら
わたしは立ち直れなかったかもしれない。
でもあの言葉があるから、今は思える。
きっとまた、楽園は生まれる、と。
きっとわたしの中の何かが、
このことが起こるのを知っていて、
わたしに前もってそう書かせたような、
そんな気がして。

そんな感覚は、実は父が倒れた時にもありました。
もともとこのブログは、家族に自分の近況を知らせ、
普段言えないことを伝えるために始めたようなもの。
だから立ち上げたその日に
「あさっては結婚記念日」と題して
両親に感謝の思いを書き、
4月には「父の誕生日」と題して父への言葉を書きました。
父がそれを読んで涙ぐんでいたと母から後日聞き、
ブログを始めて本当に良かったと、思っていたのでした。
そして5月に父が倒れた時、
不思議だけど、なぜ自分がこのブログを
急に立ち上げる気になったのか、
分かった気がしたのです。
あの時伝えておかなければ
間に合わないことを、
わたしの中の何かが知っていて
わたしを突き動かしてくれたのかもしれない、と。
あの時伝えておかなければ
今の父には、もう伝えらなかっただろうから。
こういうのって、何ていうのかしら。
予知とか、そんな大げさなものではなく。
でもそういうことが、人生には
どういうわけか、結構たくさんあって
偶然という形を取りながら、
様々に助けられてるような気がして
何に対してというわけでもなく
とにかく感謝したい気持ちになるのでした。

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2008/8/17
この週末はお盆ということで
お墓参りと、父のお見舞いに
Uターンラッシュにもまれつつ、ふるさとへ。
少し曇りがちだったものの、
ふるさとの空は青く優しく、
少し秋を気配を感じさせる雲が
ゆったりと流れて。

初夏の頃には背の低かった稲も
今ではこんなに大きく伸び、
とんぼがたくさん飛び交っていました。

お墓参りの間中、
近くの木立からはひぐらしの声。
カナカナカナカナと鳴く
どこかもの淋しげな鳴き声は
夏が少しずつ後姿になりつつあることを感じさせて。
この夏は、本当にいろいろな方から
直に、またメールやお葉書等でも
励ましのお言葉を頂きました。
お一人、お一人の温かなお心に触れ、
あまりに嬉しく、ありがたくて、
何度も何度も読みかえしたり、
思い返したりしています。
心に何度も何十回も、ありがとうの言葉を念じつつ。
またそれ以外でも
このブログを見て下さっている方がいるということに
わたしは、たくさんの励ましと喜びを頂いています。
本当に、本当に、ありがとう。

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2008/8/15
連日オリンピックでは
人間の美しい戦いを存分に堪能する一方で
仕事では、人間の闇にも向かい合わざるを得ない日々。
中でも、遠くグルジアで始まった、悲しい戦闘。
本当は日々の中の「美しいもの」「柔らかなもの」を
拾い集めるブログにしたいと思っているのに
この幼い少女の瞳が訴えかけてくるものから
どうしても心をそらすことが出来なくて。

(photo: AFP/Kazbek Basayev)
この女の子は戦火の南オセチアから
ロシア領へ逃れてきた、小さな小さな難民。
おもちゃも、遊び場も、友達も奪われ
この幼い子の心に無理矢理刻みこまれた恐怖を
正当化できる大義って、なに?

(photo: Reuters/Gleb Garanich)
これは首都トビリシから程近いガリという街の
激しい戦闘で子供を失った母親。
この母親から子供を奪い、その命を奪うことを
正当化できる正義って、なに?
グルジアは事実上独立を宣言した南オセチアを
武力で押さえ込もうとし、
南オセチアを支援するロシアは、
そのグルジアを武力で制圧しようとした、
その裏にあるのは、石油の利権や米露の覇権争い。
わたしにはそのどこにも、正義のかけらすら見えない。
そんなに戦いたければ
オリンピックででも、存分に戦えばいいのに。
オリンピックも、そもそもが代理戦争。
大統領同士が、好きなだけ取っ組み合いでもしたらいい。
自分たちは安全な舞台裏に身を隠し、
罪もないたくさんの母親や子供たちの上に
爆弾を落とす、そんな正義なんて。
救いはグルジアとロシアの選手が
オリンピックの競技の後に肩を抱き合ったと云うニュース。
国よりも、民族よりも、正義よりも、大義よりも
大切なものを分かち合える希望を
示してくれた気がして。
地球上でのすべての戦いが
過去の負の遺物となる日が一日も早く来ますようにと
今日のこの終戦の日に、ささやかに祈ります。

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2008/8/13
オリンピックの開会式も圧倒的で
本当に美しかったけれど
競技が始まると、つくづく感じます。
勝っても、負けても
人間ってどうしてこんなに美しいのだろう、と。
この夕陽に輝く夏の雲にも負けないくらいの
空の高みにも通じる、尊さ。
お盆休みがないわたしは
もっぱら夜のニュースで
ハイライトを少し見るだけだけど。
それでも十分に伝わってくるものがあって。

とても言葉では表現できないけど
鍛え上げられた肉体もさることながら
その肉体に宿る、磨き抜かれた魂の美しさ。
挫折も辛苦も、なめつくした精神力の
透明なまでの強さと、その裏にある脆さ。
普段ニュースや新聞を埋めているのは
人間の醜さ、残酷さ、強欲さばかりだけど
オリンピンクのおかげで
人間の素晴らしさでいっぱい。
オリンピックのおかげで
人間がもっともっと好きになりそうな
そんな気がする毎日なのでした。

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2008/8/11
6月28日に紹介した近くの小川のカモの親子だけど
無事に成長しているのを発見
もうすっかり大きくなって
どれが親なのかも、分からないくらい。

夕方だったのと、じっとしてくれなかったのとで
あまりうまく写せなかったけど
わたしが見たところでは、全部で6羽。
確かあの時はヒナ鳥が7羽いたから、
全部ではないものの、殆ど無事だったみたい。
こんな住宅地の中でも
自然の生命が育まれているっていうのは
何だかとても、うれしいな。
木や、草や、花や、鳥や、虫や、
たくさんの生命に囲まれて生きている、
ただそのことが、うれしいな。
元気に育ってくれて、ありがとうね。
旅立ってしまう前に、また会えますように。

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2008/8/10
昨日は淀川の花火大会。
うちのベランダからも、小さく見えるので
のんびり涼みながら、名残の夏を楽しみました。
そして一夜明けて、今日もこの残暑。
こうなったら、ということで
年に1回の、みみにゃん受難の日に決定。
毎年夏には必ず1度はシャンプーしてるおかげで
年毎に馴れてはきたというものの
当然ねこは、濡れるのは嫌い。
シャンプーなんて、大嫌い。
みみにゃんにとっては、
災難以外の何者でもないのは分かっているのだけど。
でもシャンプーするとふわふわになって
いい匂いになるのがたまらなくて
わたしは毎年、やってしまう。
許してね、みみにゃん。

シャンプーが終わってタオルドライした後
ドライヤーは簡単に済ませて、やっと解放。
濡れてスリムになったみみにゃんは
あっちをなめ、こっちをなめ、
半日がかりで、大忙し。

ようやくふわふわになった頃には
疲れ果てて、午後中熟睡。
それでも咬みもせず、爪も立てず
わたしのすることを、信じてくれていた。
はー、、参った、参った、と
心の中で思ったには違いないだろうけど。

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