16歳8か月の愛猫ミーチェ(愛称みいみ)を2020年秋に亡くしました。
でもタイトルはこのままにして、その後の日々を綴っていこうと思います。
2008/2/29
でも私を悩ませているのは
花粉症ではなく、実は猫アレルギー。
そう、よりによって3年ほど前から猫アレルギーになってしまって。
夜時々鼻が詰まる程度で大したことはないのですが
「アレルゲンを処分するか、ずっと薬を飲み続けるか」
との耳鼻科の医師の非情な言葉に、
迷わず薬を飲み続けることを選択しました。
そして動物アレルギーにも効果があるという空気清浄機を、
意を決して、即座に2台購入。
これで完璧、と思ったのも束の間
みみにゃんはこんな仕打ちを繰り返すのでした。

実はこの空気清浄機は、側面から空気を吸い込んで
きれいになった空気を上部から放出する仕組み。
つまりみみにゃんのおかげで、
空気清浄機は、パワフルな「アレルゲン拡散機」に変身。
「勘弁しておくれよ〜」、と何度泣きを入れても
これまで全く耳を貸す気のないみみにゃん。
でも、毎朝アレルゲンが布団に潜りこんできて、
時には、私の頬にぴったりと貼り付いて寝てるのだから
どのみちあまり変わりはないのかも。

0
2008/2/27
ヴォルテールの言葉に
"Le mieux est l'ennemi du bien."
というものがあるそうです。
そのまま直訳すると、
「ベスト」は「ベター」の敵。
つまり、完璧を求めすぎると上手く出来るものも出来なくなる、
というような感じでしょうか。
当たり前のことのようでありながら、
心の糸を、ピンって弾くような言葉。
人はよく「ベストを尽くせ」と言うけれど
それが呪縛になってることって少なくないのかも。
ベストなんて、そう毎回尽くせるものではないから。
ベストを尽くすためには、
体にも心にも、思いっきり力を入れて
完全武装で立ち向かってしまったりするものだから。
でも、「素晴らしいもの」や「美しいもの」を
生み出すことが出来るのは
きっと、固くなった体や心じゃないはず。
「ベター」で充分、そう思うと、
体もこころも、柔らかくなる気がする。
前回より今回、今回より次回、
昨日より今日、今日より明日、
ほんのちょっぴりの「ベター」でもいいなら、
わたしにも出来そう。
毎日毎日、出来そう。
そしてそれを積み重ねていく日々は
なんだか「幸福」につながって行く感じがするから。

1
2008/2/26
わたしのハンドルネーム(ニックネーム)がみみにゃんで
愛猫もみみにゃんだったら
どっちがどっちか分からんだろう、という
あまりにももっともな指摘を受け、
それではと、わたしのハンドルネームを改めました。
何にしようか10秒ほど悩んだ挙句
花、うさぎ、という好きなものが2つ浮かんだので
花うさぎ、と合体させてみました。
これからは花うさぎでよろしくお願いします。
でもみみにゃんは、そんなことはどうでもいいようす。


0
2008/2/25
今日はトイレの話でごめんなさい。
使用後によく、トイレのトイレットペーパーを
三角に折ることってありますよね?
最近わたしも職場のトイレでそれを始めたの。
以前の会社の時は
「当然のマナー」のような感じだったので
もちろん私もそれにならってやってたのですが、
今の職場は雑居ビルとあってか
ビル全体としてする習慣がなかったのです。
それに、手を洗う前の手でペーパーを折られるのが嫌、
と人が言っているのを耳にしたこともあり、
それも一理ある、と思ったこともあって。
なのになぜ今更また始めたかというと、
毎朝トイレを掃除してくれるおばちゃんが、
いつもお掃除した後、折ってくれているのに気付いたから。
おばちゃんはどうも、手先が器用ではないみたいで、
三角というよりは、しわくちゃの台形に近いのだけど
それでも毎朝、毎朝、ぶきっちょな指で
全部のペーパーを折ってくれていたのでした。
きっと、使う人たちに少しでも便利なようにと思って
一生懸命折ってくれているのでしょう。
おばちゃんは足も少し不自由みたいで
そうでなくてもあのお年で
早朝からのお掃除は大変だろうと思うのに。
少しびっこをひきながら
寒い朝も、雨の朝も毎朝お掃除してくれている。
だから、これはわたしからのおばちゃんへの
せめてもの、ありがとうの気持ち。
伝わることはないかもしれないけれど。

0
2008/2/23
今日は陽射しがあるかと思えば、
急にうなるような突風が吹いて雨が降るような
春の嵐を思わせるお天気になりました。
こんなお天気の中、みみにゃんは今日4歳の誕生日を迎えました。
みみにゃんに初めて出会ったのは
生まれて1週間くらいの頃だったでしょうか。
片手の手のひらに乗るくらい、ちっちゃくて、
目も開かず、しっかり歩くことも出来ないのに、
ミーミーと小さな声で鳴きながら
私の方によちよちとやってきて
座っていた私の膝に這い上がってきたかと思うと
そのまま眠ってしまったのが、みみにゃんでした。
どの子をもらおうか選びに行ったつもりが、
逆に選ばれてしまったような、そんな出会い。
そうして2ヶ月が経った頃、わたしの家に来てくれました。
その頃はまだ、こんなでした。

みみにゃん、ずいぶん大きくなったね。
この世に生まれてきてくれて、ありがとう。
そしてわたしを選んでくれてありがとう。
今はまだ、私より若くて元気いっぱいのみみにゃんも
これからは、どんどんわたしを追い越してゆくのでしょう。
そして、どんなに愛しても、大切に思っても、
いつかわたしを置いて行ってしまうのでしょう。
みみにゃんは、神さまからの大切な預かりもの。
悲しいけど、いつか神さまにお返ししなきゃいけない。
どうだったかと、神さまに尋ねられた時に
みみにゃんは、幸せだった、と言ってくれるでしょうか。
そう言ってもらえるように努力するから
みみにゃん、出来るだけ長い間私のそばにいてね。

0
2008/2/22
今夜は兵庫県立芸術文化センターで
オランダ・バッハ協会による「ヨハネ受難曲」を聴いてきました。
初演時の編成を再現したユニークな試みで
字幕のおかげで初めての私でも理解しやすく、
オペラなどではないにもかかわらず
キリストの受難劇のドラマを見たような感動を味わいました。
兵庫県立芸術文化センターは
阪神大震災からの復興の象徴の一つとして建てられ、
大・中・小の3つのホールを備えたとても立派な文化施設。
私も自転車で行ける距離にあるとあって、
月に1回はコンサートを聴きに行ったりしています。
その阪神大震災という「受難」をこうむった地で
「受難曲」を響かせるということの意味に思いを馳せつつ
寒い夜道を帰ってきたのでした。
長い間クラッシックをBGM程度にしか楽しむことを知らなかった私が
本格的に楽しむことを覚えたのは、実はここ3−4年のこと。
なかでも一番は佐渡裕さんとの出会いがあってのことでした。
昨年夏のオペラ「魔笛」の目を見張るような演出の面白さと
圧倒的なアリアやアンサンブルの数々。
そしてきわめつけは年末の、
「炎の第九」として名高い「21世紀の第九」。
魂がほとばしり出るような力強さと情熱で圧倒するかと思えば、
天の調べを聴いているかのような
崇高で透明感あふれる、まるで祈りのような演奏。
序盤から涙は止まらないし、
あまりの感動にあばれまわる魂を
なんとか体の中に押さえ込むのに
苦労するようなひとときでした。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、
生きていて良かった、
音楽に出会えて良かったと、思えました。
本当の意味で「音楽」に出会えたと感じたのかもしれません。
There are two means of refuge
from the miseries of life:
music and cats.
シュバイツァー博士の言葉に
100%共感するわたしなのでした。

0
2008/2/20
冬寒くなると
みみにゃんは決まって
朝方に布団の中にもぐりこんできます。
早朝5時や、時には4時頃、
まず布団にぴょんと飛び乗ったかと思うと
ゴロゴロいいながら枕元に顔をすり寄せてきます。
わたしが目が醒めて、布団の襟元を持ち上げてやると
頭からするりと滑り込んできて
中でくるりと方向転換して
私の体にぴったりと寄り添いながら
私の脇のところにちっちゃな頭を乗せ、
あっというまにスースー寝てしまうのです。
そう、ちょうどこんな顔で。

目が醒めてしまったわたしは、
再び眠りに落ちるまでのひと時
その小さな頭をなでたり
柔らかな手をにぎったりして過ごします。
それにしても、
その小さなこと。
頼りなげなこと。
みみにゃんはもう間もなく4歳になる成猫で
おまけに洋猫のオスだから
決して小さい猫ではないのですけれど、
それでもその頭をなでる時、
柔らかな体を腕に抱く時、
ふわふわした肉球の手先に触れる時、
いつもいつも、
その頼りないほどの小ささに胸がきゅんとなる。
この柔らかで温かな、小さな生き物は
その気になれば簡単に命を奪う力を持ち、
10倍近くも大きな気まぐれな人間という生き物に
自分の小さな命をまるごと預けてくれる。
「愛しい」という言葉だけでは表現しきれない何か。
生命と生命が信じあって寄り添う、小さな魔法のような瞬間。
多少の寝不足はつらいものの、
わたしには冬の朝のささやかな幸福のひとときです。

0
2008/2/19
先日テレビを見ていたら、
人は亡くなった人のことを
声、顔、思い出、の順で忘れるものだと言っていました。
その芸能人は2年前に亡くなった母親の声も
もうはっきりとは覚えていないのだとか。
わたしは12年前に大学時代の仲良しの友達を
末期の胃がんで亡くしたけれど、
彼女の顔はもちろん、
頬の肌の感じや、
細くてすらりと長い指の手触りや、
ちょっとハスキーな声や、
少し息が抜けたような笑い方まで、
少しも褪せることなく全部覚えているのに。
そして今でも時々夢に出てくることさえあるというのに。
人それぞれということなのでしょうか。
それとも、無意識に記憶を消し去りたいほどの
大きな喪失感とショックが
その人にはあったのかもしれません。
そしてそんな風にして
失った悲しみから立ち直るしかなかったのかも。
わたしはずっと忘れないことで立ち直った気がします。
彼女が死んだ時、何があっても自殺はしまいと誓いました。
彼女がどんなにしても生きられなかった人生を
一緒に生きるつもりで、何があっても行きていこうって。
生きられなかった人生を味わいたくなったらいつでもおいで。
あなたならいつ帰ってきてくれても怖くなんかない。
わたしと一緒におばちゃんになって、
それから一緒におばあちゃんになって、
階段上がる時、一緒によっこらしょとか言ってみる?
大した人生は味わわせてあげられないけれど
当たり前のありふれた人生がどんなに幸せか
わたしはあなたに教えてもらったのだから。
そしてまた、時が来たら、向こうで会おうよ。
その時はお願いだから、
わたしもあなたに別れた時の姿に戻ってもいい?
しわくちゃのおばあちゃんと、
初々しい新妻のままじゃずるいから。

0
2008/2/18
どれだけみみにゃんの脱力パワーをもってしても
月曜日の朝はさすがにちょっと憂鬱。
あー、また忙しい一週間が始まるのかーって。
でも先日風邪引いて2−3日寝込んだ時に
オフっていうのは、オンがあるから楽しいんだって
しみじみ、心から思いました。
毎日がオフだったら、オフなんて楽しくない。
忙しい毎日だからこそ
その間にいろんなことをするのを楽しみに出来るんですね。
朝の凍てついた大気の中
白い息をはずませて駅に向かいながら
今日もオンのあることの幸せを思うのでした。

0
2008/2/17
"One small cat changes
coming home to an empty house
to coming home"−パム・ブラウン
小さなねこが1匹いるだけで
誰もいないがらんとした家への淋しい帰宅が
何となく、暖かな家庭への楽しい帰宅に変わる気分、
ねこを飼っている人ならきっと分かりますよね。
実家にいた時には犬を飼っていたけれど
犬とも違う感覚が確かにねこにはあるみたい。
それは犬はあくまで飼い主の帰宅を待っているけど
ねこは、それ自体が「家庭」になっちゃうみたいな
うまくいえないけれど、そんな感じ。
そうしたら詩人のジャン・コクトーが
さすが見事に表現してるのを見つけました
I love cats because
I enjoy my home;
and little by little,
they become its visible soul.
そうそう、まさにそう。
それぞれの家というもののがかもし出す独特の雰囲気を
その家の「精」とか「魂」とか呼ぶとすれば
ねこはまさに、それそのものになってしまう感じなの。

というわけでこれが我が家のvisible soul。
レースに隠れて、半分invisible soulになってますけれど。

0