2021/4/10 7:51
♪♪♪ 小説
「シェール。どうした」
「え?」
父の問い掛けに、シェールはハッとして目を上げた。目の前には、こちらを窺う父の姿があった。
「えーと、僕も昔のこと思い出してた。昔のとうさんはさ、すごいやさしかったよね」
父という人間が、本質的にやさしい人であることは今でも疑いようがない。気心が知れたが故に遠慮がなくなったともとれるが、それでもシェールが幼かった頃の父は、やはり格別にやさしかった。
「それは昔のお前が素直でかわいかったからだ」
「今はひねくれててかわいくないってこと?」
「少なくともそんなことは言わなかっただろう」
確かに。そう思うと返す言葉が見付からない。シェールが沈黙していると、クスリと父が笑った。自分に向けられた穏やかな眼差しは、昔と少しも変わらない。
「さっきの話だけど、別に欲がないわけじゃないよ。ただ、欲しいものは大概買ってもらってるし、やりたいことだってさせてもらってる」
シェールがそのことに気が付いたのは、比較的最近の話だ。父が駄目だというのにはなにがしかの理由がある。むやみやたらに却下することはないのだ。
「たまたま今やりたいことが、働くことってだけで」
「大人になったら、否応なしに働くことになるんだ。何も今することとも思わないが、言い出したら聞かないからな、お前は」
それはお互い様と言うより、こっちのセリフだと思った。
「とうさんに似たんだよ、たぶん」
「どういう意味だ」
「別にそのままのい………わ!ちょっと?やめっ…!」
突如としてたくましい腕に自由を奪われ、あっという間に羽交い締めにされた。
「降参するか」
「し、しない!!」
シェールは咄嗟に万歳をした後、すかさずその場に屈んだ。どうにか父を振りほどくことには成功したが、突然のことに心臓がバクバクと音を立てた。
「ほう」
その半ば感心したような、意外そうな声に、シェールはこれで終わりではないと確信する。そして、改めて思うのだった。目前に立ちはだかる壁は存外に高い。
おしまい
長いこと一緒に暮らしていると、考え方や行動が似通っていきますよねっていう話。
12
「え?」
父の問い掛けに、シェールはハッとして目を上げた。目の前には、こちらを窺う父の姿があった。
「えーと、僕も昔のこと思い出してた。昔のとうさんはさ、すごいやさしかったよね」
父という人間が、本質的にやさしい人であることは今でも疑いようがない。気心が知れたが故に遠慮がなくなったともとれるが、それでもシェールが幼かった頃の父は、やはり格別にやさしかった。
「それは昔のお前が素直でかわいかったからだ」
「今はひねくれててかわいくないってこと?」
「少なくともそんなことは言わなかっただろう」
確かに。そう思うと返す言葉が見付からない。シェールが沈黙していると、クスリと父が笑った。自分に向けられた穏やかな眼差しは、昔と少しも変わらない。
「さっきの話だけど、別に欲がないわけじゃないよ。ただ、欲しいものは大概買ってもらってるし、やりたいことだってさせてもらってる」
シェールがそのことに気が付いたのは、比較的最近の話だ。父が駄目だというのにはなにがしかの理由がある。むやみやたらに却下することはないのだ。
「たまたま今やりたいことが、働くことってだけで」
「大人になったら、否応なしに働くことになるんだ。何も今することとも思わないが、言い出したら聞かないからな、お前は」
それはお互い様と言うより、こっちのセリフだと思った。
「とうさんに似たんだよ、たぶん」
「どういう意味だ」
「別にそのままのい………わ!ちょっと?やめっ…!」
突如としてたくましい腕に自由を奪われ、あっという間に羽交い締めにされた。
「降参するか」
「し、しない!!」
シェールは咄嗟に万歳をした後、すかさずその場に屈んだ。どうにか父を振りほどくことには成功したが、突然のことに心臓がバクバクと音を立てた。
「ほう」
その半ば感心したような、意外そうな声に、シェールはこれで終わりではないと確信する。そして、改めて思うのだった。目前に立ちはだかる壁は存外に高い。
おしまい
長いこと一緒に暮らしていると、考え方や行動が似通っていきますよねっていう話。

2021/4/5 7:04
♪♪ 小説
「ただいま」
数年前のある日のことだ。帰宅を告げる兄の声で、シェールは目を覚ました。つい先程まで、ベッドに転がって絵本を読んでいた筈だが、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「お兄ちゃん!おかえりなさい」
待ち人の帰宅に、シェールはベッドから飛び降りた。
「元気にしていたか?」
「うん」
「それは何よりだ」
まだまだ話したいことはたくさんある。何せ今日一日、ずっとこの時を待っていたのだ。
ところが、タリウスはそんな自分の胸中を知るよしもなく、こちらに背を向け黙々と着替えに取り掛かかった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ?」
弟の呼び掛けに、タリウスは背中で応じるだけだ。
「あのね…」
「うん?」
「あの、えっと…」
次第に小さくなる声に、タリウスは何事かと振り返り、それから弟の前に膝を折った。
「どうした?」
思わずうつむくと、真顔で覗き込まれた。もとよりそう大した話ではない。そう思ったら、うまく言葉が出てこなかった。
「…れる?」
「ん?何だ?」
やっとのことで声を絞り出すが、兄には届かない。
「シェール、何が欲しい?」
「えっと、お菓子」
「お菓子?」
咄嗟に口から出任せを言うと、兄が眉を潜めた。
「ついこの間、買ってやったばかりだろう。もうないのか」
シェールは答えない。何故なら、本当は引き出しの中にたんまりあるからだ。
「そんなに頻繁には買えない。ダメだ」
「でも」
「今日のところは我慢しろ」
兄はピシャリと言い放った。本当にお菓子が欲しいわけではないが、ここで引き下がったら会話が終了してしまう。シェールは必死だった。
「なんで?」
「何でって、わからないのか。お前に意地悪するためか。それとも、お前が嫌いだからか」
「そんなの、そんなのどっちもだよ!」
「本気で言っているのか」
タリウスに鋭い視線を向けられ、シェールは泣き出しそうになるのをどうにか堪える。二人はしばらくの間、睨み合った。
「だって」
だが、それもいくらも続かない。先に目をそらしたのは、もちろんシェールだ。
「だって?」
「だって、そんなことないって思うけど、でももしそうだったらって思ったら…」
「違う。お前のことは大事に思っているし、出来る限り望みは叶えてやりたいと思っている」
「お兄ちゃん…」
想像していなかった言葉に、シェールは今度こそ泣きそうになる。
「でもね、シェール。お前には我慢することも覚えて欲しい。きちんとした大人になって欲しいからだ。俺の言っていることがわかるか?」
コクリとシェールは頷いた。
「この次は買ってやる。だから、今日のところは聞き分けろ。良いか?」
「うん」
「良し、良い子だ」
タリウスは微笑み、それから頭をぽんとなでてくれた。今なら本当のことが言えるかも知れない。
「…ってして」
「うん?何だ、もう一度言ってごらん」
「あのね、ぎゅってして」
タリウスは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐさま顔をほころばせた。
「これも我慢?」
「いや」
それから、膝を折ったままやさしくシェールを抱き締めた。広くあたたかな背中に触れ、言いようもないくらい心が満たされた。
「これは我慢しなくて良い。いつでも言って良いよ」
「ホントに?」
「ああ。淋しいおもいをさせて、悪かったな」
タリウスはそのままシェールを抱き上げ、ベッドに着地させた。
「今日は何をしていた?」
「えーっと」
そうして並んで腰を下ろし、他愛のない話をする。シェールだけの時間である。
もうちょい続く

2021/4/4 8:32
♪ 小説
ときは夕暮れ、タリウスはひとり自室でまどろんでいた。
目蓋の裏に映し出されているのは、在りし日の息子である。息子は、今よりも格段に小さく頼りない身体で、奔放に動きまわっては、よく迷子になった。
そうして発見したときに、泣きながら自分を追い求めていることもあれば、我関せずであそびに熱中していることもまたあった。いずれにせよ、見付かるまで気が気ではなかったと記憶している。
「ただいま!」
「ああ、おかえり」
成長した息子の声に、意識が現実へと返る。タリウスはベッドから身体を起こすと、シェールの姿をまじまじと見詰めた。
「何?」
「いや、大きくなったなと思って」
「どうしちゃったの?急に」
「昔のことを思い出していた。ここへ来た頃は、ほんの子供で、暇さえあれば迷子になっていたというのに」
「今だって子供なんだけどな。 迷子には、なんないけど…」
言いながら、シェールは頭をかいた。
「あ、そうだ。とうさん、これ」
シェールは思い出したとばかりに、自分の引き出しから小さな袋を取り出し、こちらに寄越そうとした。
「今月分と、あと先月の分もちょっと入ってるって」
「それはお前が働いて、稼いだお金だろう?」
「そうだけど」
「いくらか欲しいとは言わないのか」
無造作に差し出された袋に、タリウスは手を伸ばさない。この袋の重みを理解しているからだ。
「別に。今欲しいものないし」
「欲のない奴だな」
「そんなこともないけど、たまたまだよ」
これ以上、孝行息子の好意を無下にするわけにもいかず、タリウスは袋を受け取った。
それは、少し前の自分には考えられないことだった。無論、息子を働きに出し、稼ぎを得ることには、今でも抵抗がある。自らの不甲斐なさの象徴だとすら思う。だが、それが本人の望むところであるのなら、尊重するより他ないと思った。
「シェール。ありがとう」
自分の言葉に、はにかむ顔が昔と寸分たがわず愛おしかった。
続くかも?
日々ご来場&パチパチ
ありがとうございます!
怒涛の年度替わりです。身体がおかしいのとヤル気スイッチがどっかいってしまった関係で、作業効率が落ちまくりですが、時々癒されに来ます…
14
目蓋の裏に映し出されているのは、在りし日の息子である。息子は、今よりも格段に小さく頼りない身体で、奔放に動きまわっては、よく迷子になった。
そうして発見したときに、泣きながら自分を追い求めていることもあれば、我関せずであそびに熱中していることもまたあった。いずれにせよ、見付かるまで気が気ではなかったと記憶している。
「ただいま!」
「ああ、おかえり」
成長した息子の声に、意識が現実へと返る。タリウスはベッドから身体を起こすと、シェールの姿をまじまじと見詰めた。
「何?」
「いや、大きくなったなと思って」
「どうしちゃったの?急に」
「昔のことを思い出していた。ここへ来た頃は、ほんの子供で、暇さえあれば迷子になっていたというのに」
「今だって子供なんだけどな。 迷子には、なんないけど…」
言いながら、シェールは頭をかいた。
「あ、そうだ。とうさん、これ」
シェールは思い出したとばかりに、自分の引き出しから小さな袋を取り出し、こちらに寄越そうとした。
「今月分と、あと先月の分もちょっと入ってるって」
「それはお前が働いて、稼いだお金だろう?」
「そうだけど」
「いくらか欲しいとは言わないのか」
無造作に差し出された袋に、タリウスは手を伸ばさない。この袋の重みを理解しているからだ。
「別に。今欲しいものないし」
「欲のない奴だな」
「そんなこともないけど、たまたまだよ」
これ以上、孝行息子の好意を無下にするわけにもいかず、タリウスは袋を受け取った。
それは、少し前の自分には考えられないことだった。無論、息子を働きに出し、稼ぎを得ることには、今でも抵抗がある。自らの不甲斐なさの象徴だとすら思う。だが、それが本人の望むところであるのなら、尊重するより他ないと思った。
「シェール。ありがとう」
自分の言葉に、はにかむ顔が昔と寸分たがわず愛おしかった。
続くかも?
日々ご来場&パチパチ

怒涛の年度替わりです。身体がおかしいのとヤル気スイッチがどっかいってしまった関係で、作業効率が落ちまくりですが、時々癒されに来ます…

2021/3/15 11:41
カーラさん 小説
春ですね。私は春が、特に別れの季節である三月が、六月に次いであまり得意ではありません。何だろう、ふわふわと暖かくなって嬉しい反面、無性に不安を掻き立てられるとでも言いましょうか。昔から心が騒がしくなるのです。
まあ、それだけ淋しいと思えるくらい、毎年良い出逢いをいただいている、そう思うことにします。
さてさて、新作は二作続けて新婚さん話でした。
ここ最近、記憶力が低下しているのか、パフォーマンス力が落ちていて、思い付いた先から活字にしていかないと忘れてしまい、ちまちましか書けなくなるようです。
今回は(「覚醒」は特に)途中でいろいろ余裕がなくなってしまい、アウトプットを後に回したら、いざ書く段になって言葉が逃げて行った後でした。
たぶん、当初はあんな話ではなかったと思うのですが、タリウスがしあわせならもうそれで良し。カワイイ妻子に癒されて、また頑張っていただきたい。
いや、もうね、職場が本当ヤバイ。特にここ二年は、自分の立ち位置や過去のしがらみもあって、もろもろ殺して随分尽くしてきたけれど。それにしたって、限界超えてます…
ヘロヘロになった私を見て、「そらさん荷物多過ぎ。余計なもん下ろしたら?」って、一際デカイ荷物丸投げしてきた本人に言われた日には………働き方変えようかなと本気で思案中。うん、変えるわ。
閑話休題。以下、短編(掌編?)です。本当は拍手SSにしようと思って昨夜書いていたんですが、さすがに長過ぎたのでここに。
アポ無しオバサン再び。
15
まあ、それだけ淋しいと思えるくらい、毎年良い出逢いをいただいている、そう思うことにします。
さてさて、新作は二作続けて新婚さん話でした。
ここ最近、記憶力が低下しているのか、パフォーマンス力が落ちていて、思い付いた先から活字にしていかないと忘れてしまい、ちまちましか書けなくなるようです。
今回は(「覚醒」は特に)途中でいろいろ余裕がなくなってしまい、アウトプットを後に回したら、いざ書く段になって言葉が逃げて行った後でした。
たぶん、当初はあんな話ではなかったと思うのですが、タリウスがしあわせならもうそれで良し。カワイイ妻子に癒されて、また頑張っていただきたい。
いや、もうね、職場が本当ヤバイ。特にここ二年は、自分の立ち位置や過去のしがらみもあって、もろもろ殺して随分尽くしてきたけれど。それにしたって、限界超えてます…
ヘロヘロになった私を見て、「そらさん荷物多過ぎ。余計なもん下ろしたら?」って、一際デカイ荷物丸投げしてきた本人に言われた日には………働き方変えようかなと本気で思案中。うん、変えるわ。
閑話休題。以下、短編(掌編?)です。本当は拍手SSにしようと思って昨夜書いていたんですが、さすがに長過ぎたのでここに。
アポ無しオバサン再び。

2021/3/14 14:28
【覚醒】3 小説
その日の夕刻、階段を上がる軽い足音にタリウスは隣人の帰宅を知った。ノックの音に、すぐさま戸を開けると、突然正面から抱きつかれた。
「ユ…!?こら!」
咄嗟にたしなめるも、ユリアは一向に意に返さず、自分に取り付いたままこちらを見上げてきた。
「ただいま戻りました」
「もし、シェールがいたら…」
「確か今日はお稽古の日ですよね」
「そうですが」
「それに、シェールくんがいたら、きっと率先してドアを開けてくれている筈です」
だてに何年も隣に住んでいません、そう言って笑うユリアに、応酬する言葉が出て来ない。タリウスは吐息し、ひとまず彼女を部屋へ招き入れた。
「それはそうと、今朝はありがとうございました。確かに鞄に入れたと思ったのですが、見当たらなくて、焦りました。まさか届けてくださるなんて」
「お役に立てたのなら何よりです。今朝は考え事でも?」
「いえいえ、今朝はそんな余裕とてもありませんでした」
「何故です?」
「それは、ですね…」
ユリアがそっと身を引こうとするのをタリウスが阻んだ。
「まさか、また?」
「でも、間に合いましたよ?」
無邪気に言い放つユリアを前に、今朝のことがまるで嘘のように思えた。
「間に合ったは良いが、それで忘れ物をしていては世話ないでしょう。あなたの生徒たちがどう思うか」
「え?」
「そうでなくとも、二度目の失態には随分厳しいようにお見受けしましたが?」
「嫌だわ。嘘でしょう」
途端にユリアが血相を変えた。
「授業を見ていらしたの?」
「院長に些か強引に誘われて」
「院長と?一体どこから見ていらしたんですか」
「見ていたと言うと語弊がありますが、花壇のところから聞いていました」
「ああ、そういうことでしたか」
そこで、ユリアは大いに合点がいったようで、しきりに頷いていた。
「他の先生たちがおっしゃっていたんです。院長は滅多に授業を見にいらっしゃらないのに、ようでもないことをよくご存知だって。まさか外にいらしたとは。驚きました」
「それはこちらの台詞です」
「はい?」
彼女はさも不思議そうにタリウスを見上げた。
「ミス・シンフォリスティでなくなった途端、ああも豹変するとは…」
「豹変、ですか」
ユリアは困ったような表情を見せ、それからとうとうと語り始めた。
「あの子達と彼らとでは立場が違います。私は、予科生も含め士官候補生を尊敬していました」
「尊敬?」
「ええ。彼らはあの若さで、自らの意志で個を捨て、陛下に忠誠を。彼らは学生ではありませんし、当然、すべては自己責任です。ですから、授業中に居眠りをしようが、課題を怠けようが、彼らの勝手です。手を抜いた代償はどこかで彼ら自身が支払うしかありませんから」
「しかし、それでは」
タリウスが反論し掛けるが、ユリアはかまわず先を続けた。
「もっとも、初めの頃はもう少しシビアでしたけれど、主任先生は教養で不可を付けることを許してくださいませんでした。つまり、是が非でも可以上を取らせるような授業をしろということだと、理解しました」
「はあ」
初めて耳にする話だった。毎年ひとりの落第者も出さないのは、てっきり彼女のやさしさ故だと思っていた。
「そう考えたら、彼らのために授業することが楽しくなりました。ただ知識を詰め込むより、あの時間を目一杯楽しんで欲しいと思いました。そして、いつか何かのときに役立ててくれたらいいなって。教養は人生を豊かにするものですから」
そうして、とびきりの笑みを見せられ、最終的に黙らざるを得なくなる。彼とて思うところはあったにしてもだ。
「方や、今の生徒たちは、自分の意志とはほぼ無関係にあの場にいます。彼女たちの殆どが、ご両親の愛、この場合はお金と言うことになりますが、そのお陰で教室に。こちらとしては、学費をいただいている以上、ある程度は無理にでも成果をあげさせる必要があります。良いやり方ではないかもしれませんが、そうでもしないと、あの子達勉強しないんですもの」
子供の頃から好奇心旺盛で、学ぶことに貪欲であった彼女には、理解しがたいことなのだろう。ユリアは深いため息を吐いた。
「私が子供なら、是非とも遠慮願いたい、胃の痛くなるような授業でしたが」
そう言ってからかうと、ユリアは負けじと挑発的な笑みを浮かべた。
「心臓に悪い授業よりマシでは?」
「私のは訓練だ」
「その二つの違いは何ですか」
「わかりませんか」
「ええ、ぼんやりとしか」
あどけない瞳が間近に迫る。
「正解を身体に教え込むのが訓練です。叩き込むと言っても良い。丁度こんな具合です」
「タ、タリウス?!」
反射的に後ずさるユリアを捕まえ、すぐさま膝の上へ引き倒す。
「嫌っ!!」
こうなったら最後、次に何をされるか、考えるまでもない。ユリアはイヤイヤと身体をくねらせた。
「大人しくしなさい」
そんなことをしても無駄だとわかっていても、自然とお尻が逃げた。しかし、屈強な平手は、左右に揺れるお尻を的確にとらえた。
「いやあ!」
「教師が、言うに事欠いて寝過ごすとは何事ですか。その上忘れ物では、全く示しがつきませんね」
「ごめんなさい!もうしないわ」
「あなたのもうしないはいい加減聞き厭きました。一体これで何度目ですか」
痛くて辛いお仕置きを受けながら、ユリアの意識がふいに記憶の彼方へと飛んでいく。
『一体これで何度目なの』
幼い自分のお尻を叩くのは、若い頃の継母だ。
『いい加減、あなたのごめんなさいは聞きあきたわ』
泣きながら謝罪を繰り返す自分を、継母はなおも執拗に打ち据えた。ほんの一瞬でもこの苦しみから逃れたくて、懸命に手足をバタつかせては、はしたないと更なる叱責を受けた。
『ユリア!』
そうして強く名前を呼ばれる度、胸がきゅっと苦しくなった。
「…か?」
ふいに、何事かを問う声が耳を掠めた。
「聞いていますか?ユリア!」
「は、はい?」
あの頃と同じようにきつく名を呼ばれ、ユリアははっとして我に返る。
「ごめんなさい、少々考え事をしていたものですから…」
「私のお仕置きの最中に上の空とは、良い度胸をしていますね」
彼女の背中を冷たいものが伝った。
「いえ、そんなつもりは…」
「立ちなさい」
鋭く命じられ、ユリアは恐る恐る立ち上がった。タリウスはそんな彼女には目もくれず、反対側のベッドへ向かった。部屋の中央から向こうは、この部屋のもうひとりの住人のものだ。
彼はおもむろに引き出しに手を掛け、目当てのものを探り当てると、こちらへ取って返した。
「どうやら、あなたを甘やかし過ぎたようだ」
タリウスは息子のところから拝借してきた折檻道具で、自分の手の平をピシャリと打った。
「い、嫌です…」
「平手では効かないのでしょう?ならば致し方ない」
恐怖から棒立ちになっているユリアの腕を取り、再び膝へ押さえ込もうとする。彼女はどうにかして逃れようと、床を蹴って暴れた。
「そんなもので叩かれたら、どうかなってしまうわ!無理です!」
「あいにくあなたに選ぶ権利はありません。痛い目にあって反省しなさい」
冷酷無比な囁き声に、一瞬で身動きが取れなくなる。
「痛っ!!」
パシンという大きな音が鳴り、すぐさまお尻が熱くなった。ユリアは思わず身体を仰け反らせるが、構うことなくお仕置きは続行される。
「嫌っ!ごめんなさい!!」
先程とは違い、タリウスは終始無言だった。そのせいか、今度は継母の幻像に惑わされることもなかった。
「いやあ!ああ、ごめんなさい!」
それどころか、厳しい仕打ちに、むしろ現実から逃れようがない。堅いパドルでひとつ打たれる度に、お尻がビリビリと焼けるように痛んだ。
「ごめんなさい!!」
回を追う毎に重く積もっていく痛みに、これ以上は到底耐えられない。
「もう許してください。もう、もう、本当に!良い子にしますから!!」
ユリアは絶叫した。その後は言葉にならず、声をつまらせて泣きじゃくった。
「大丈夫ですか」
お仕置きする手を止めた後も、子供のように泣きべそをかくユリアを前に、やりすぎたかとタリウスは苦笑した。ともあれ、やさしく抱き起こし、背中を擦ると、涙に濡れた瞳が恨みがましくこちらを見た。
「子供の頃のことを思い出していました。母の膝の上で、同じようにお仕置きを。痛くて、恥ずかしくて、怖くて。嫌で嫌でたまりませんでした。大人になって、ようやく解放されたと思ったのに…」
「ならば、これが最後にしますか?」
「そんなことっ!そんなことは、今考えられません」
ユリアが興奮気味に喚いた。そうして大粒の涙をこぼしながらこちらに身を預けてくる。タリウスは、まるで壊れ物を扱うかのように彼女を抱き止めた。
しばらくそのままなだめていると、ふいにユリアが顔を上げた。ばつの悪そうな表情を見せる彼女に、もう大丈夫だと思った。
「本当に嫌なときはすぐに言ってください」
「嫌だったわけでは、ありません。ただ…」
「ただ?」
「確かに寝坊しましたけど、でも間に合いました。教科書だって、届けていただいたお陰で事なきを得ました。結果的に大惨事にはならなかったのに、あんなに叩かなくたって」
「大惨事にならなかったからです。失敗して、この世の終わりのように落ち込むあなたを見たくはない」
ユリアがはっと息を呑んだ。身に覚えがあるのだろう。それも幾度となく。
「でも!」
「パドルを使ったのは、全然反省が見られなかったからです。お仕置きの途中で物思いにふけるなんて、怒られて然りです」
「それにしても、物凄く痛かったわ」
「それは良かった。しっかり反省出来たでしょう」
ユリアは口を尖らせるが、ふわりと髪を撫でてやると、心なしか機嫌を直したようだった。
「これで生徒の忘れ物に対しても、遠慮なく叱れますね」
「ええ、お陰さまで!」
だが、すぐに憤懣やる方ないといった様子で、キッとこちらを見やった。それでこそユリアである。
了
上の空でスパられるって、スパンキーあるあるかなと思うのです。「え?なに?」みたいなw
13
「ユ…!?こら!」
咄嗟にたしなめるも、ユリアは一向に意に返さず、自分に取り付いたままこちらを見上げてきた。
「ただいま戻りました」
「もし、シェールがいたら…」
「確か今日はお稽古の日ですよね」
「そうですが」
「それに、シェールくんがいたら、きっと率先してドアを開けてくれている筈です」
だてに何年も隣に住んでいません、そう言って笑うユリアに、応酬する言葉が出て来ない。タリウスは吐息し、ひとまず彼女を部屋へ招き入れた。
「それはそうと、今朝はありがとうございました。確かに鞄に入れたと思ったのですが、見当たらなくて、焦りました。まさか届けてくださるなんて」
「お役に立てたのなら何よりです。今朝は考え事でも?」
「いえいえ、今朝はそんな余裕とてもありませんでした」
「何故です?」
「それは、ですね…」
ユリアがそっと身を引こうとするのをタリウスが阻んだ。
「まさか、また?」
「でも、間に合いましたよ?」
無邪気に言い放つユリアを前に、今朝のことがまるで嘘のように思えた。
「間に合ったは良いが、それで忘れ物をしていては世話ないでしょう。あなたの生徒たちがどう思うか」
「え?」
「そうでなくとも、二度目の失態には随分厳しいようにお見受けしましたが?」
「嫌だわ。嘘でしょう」
途端にユリアが血相を変えた。
「授業を見ていらしたの?」
「院長に些か強引に誘われて」
「院長と?一体どこから見ていらしたんですか」
「見ていたと言うと語弊がありますが、花壇のところから聞いていました」
「ああ、そういうことでしたか」
そこで、ユリアは大いに合点がいったようで、しきりに頷いていた。
「他の先生たちがおっしゃっていたんです。院長は滅多に授業を見にいらっしゃらないのに、ようでもないことをよくご存知だって。まさか外にいらしたとは。驚きました」
「それはこちらの台詞です」
「はい?」
彼女はさも不思議そうにタリウスを見上げた。
「ミス・シンフォリスティでなくなった途端、ああも豹変するとは…」
「豹変、ですか」
ユリアは困ったような表情を見せ、それからとうとうと語り始めた。
「あの子達と彼らとでは立場が違います。私は、予科生も含め士官候補生を尊敬していました」
「尊敬?」
「ええ。彼らはあの若さで、自らの意志で個を捨て、陛下に忠誠を。彼らは学生ではありませんし、当然、すべては自己責任です。ですから、授業中に居眠りをしようが、課題を怠けようが、彼らの勝手です。手を抜いた代償はどこかで彼ら自身が支払うしかありませんから」
「しかし、それでは」
タリウスが反論し掛けるが、ユリアはかまわず先を続けた。
「もっとも、初めの頃はもう少しシビアでしたけれど、主任先生は教養で不可を付けることを許してくださいませんでした。つまり、是が非でも可以上を取らせるような授業をしろということだと、理解しました」
「はあ」
初めて耳にする話だった。毎年ひとりの落第者も出さないのは、てっきり彼女のやさしさ故だと思っていた。
「そう考えたら、彼らのために授業することが楽しくなりました。ただ知識を詰め込むより、あの時間を目一杯楽しんで欲しいと思いました。そして、いつか何かのときに役立ててくれたらいいなって。教養は人生を豊かにするものですから」
そうして、とびきりの笑みを見せられ、最終的に黙らざるを得なくなる。彼とて思うところはあったにしてもだ。
「方や、今の生徒たちは、自分の意志とはほぼ無関係にあの場にいます。彼女たちの殆どが、ご両親の愛、この場合はお金と言うことになりますが、そのお陰で教室に。こちらとしては、学費をいただいている以上、ある程度は無理にでも成果をあげさせる必要があります。良いやり方ではないかもしれませんが、そうでもしないと、あの子達勉強しないんですもの」
子供の頃から好奇心旺盛で、学ぶことに貪欲であった彼女には、理解しがたいことなのだろう。ユリアは深いため息を吐いた。
「私が子供なら、是非とも遠慮願いたい、胃の痛くなるような授業でしたが」
そう言ってからかうと、ユリアは負けじと挑発的な笑みを浮かべた。
「心臓に悪い授業よりマシでは?」
「私のは訓練だ」
「その二つの違いは何ですか」
「わかりませんか」
「ええ、ぼんやりとしか」
あどけない瞳が間近に迫る。
「正解を身体に教え込むのが訓練です。叩き込むと言っても良い。丁度こんな具合です」
「タ、タリウス?!」
反射的に後ずさるユリアを捕まえ、すぐさま膝の上へ引き倒す。
「嫌っ!!」
こうなったら最後、次に何をされるか、考えるまでもない。ユリアはイヤイヤと身体をくねらせた。
「大人しくしなさい」
そんなことをしても無駄だとわかっていても、自然とお尻が逃げた。しかし、屈強な平手は、左右に揺れるお尻を的確にとらえた。
「いやあ!」
「教師が、言うに事欠いて寝過ごすとは何事ですか。その上忘れ物では、全く示しがつきませんね」
「ごめんなさい!もうしないわ」
「あなたのもうしないはいい加減聞き厭きました。一体これで何度目ですか」
痛くて辛いお仕置きを受けながら、ユリアの意識がふいに記憶の彼方へと飛んでいく。
『一体これで何度目なの』
幼い自分のお尻を叩くのは、若い頃の継母だ。
『いい加減、あなたのごめんなさいは聞きあきたわ』
泣きながら謝罪を繰り返す自分を、継母はなおも執拗に打ち据えた。ほんの一瞬でもこの苦しみから逃れたくて、懸命に手足をバタつかせては、はしたないと更なる叱責を受けた。
『ユリア!』
そうして強く名前を呼ばれる度、胸がきゅっと苦しくなった。
「…か?」
ふいに、何事かを問う声が耳を掠めた。
「聞いていますか?ユリア!」
「は、はい?」
あの頃と同じようにきつく名を呼ばれ、ユリアははっとして我に返る。
「ごめんなさい、少々考え事をしていたものですから…」
「私のお仕置きの最中に上の空とは、良い度胸をしていますね」
彼女の背中を冷たいものが伝った。
「いえ、そんなつもりは…」
「立ちなさい」
鋭く命じられ、ユリアは恐る恐る立ち上がった。タリウスはそんな彼女には目もくれず、反対側のベッドへ向かった。部屋の中央から向こうは、この部屋のもうひとりの住人のものだ。
彼はおもむろに引き出しに手を掛け、目当てのものを探り当てると、こちらへ取って返した。
「どうやら、あなたを甘やかし過ぎたようだ」
タリウスは息子のところから拝借してきた折檻道具で、自分の手の平をピシャリと打った。
「い、嫌です…」
「平手では効かないのでしょう?ならば致し方ない」
恐怖から棒立ちになっているユリアの腕を取り、再び膝へ押さえ込もうとする。彼女はどうにかして逃れようと、床を蹴って暴れた。
「そんなもので叩かれたら、どうかなってしまうわ!無理です!」
「あいにくあなたに選ぶ権利はありません。痛い目にあって反省しなさい」
冷酷無比な囁き声に、一瞬で身動きが取れなくなる。
「痛っ!!」
パシンという大きな音が鳴り、すぐさまお尻が熱くなった。ユリアは思わず身体を仰け反らせるが、構うことなくお仕置きは続行される。
「嫌っ!ごめんなさい!!」
先程とは違い、タリウスは終始無言だった。そのせいか、今度は継母の幻像に惑わされることもなかった。
「いやあ!ああ、ごめんなさい!」
それどころか、厳しい仕打ちに、むしろ現実から逃れようがない。堅いパドルでひとつ打たれる度に、お尻がビリビリと焼けるように痛んだ。
「ごめんなさい!!」
回を追う毎に重く積もっていく痛みに、これ以上は到底耐えられない。
「もう許してください。もう、もう、本当に!良い子にしますから!!」
ユリアは絶叫した。その後は言葉にならず、声をつまらせて泣きじゃくった。
「大丈夫ですか」
お仕置きする手を止めた後も、子供のように泣きべそをかくユリアを前に、やりすぎたかとタリウスは苦笑した。ともあれ、やさしく抱き起こし、背中を擦ると、涙に濡れた瞳が恨みがましくこちらを見た。
「子供の頃のことを思い出していました。母の膝の上で、同じようにお仕置きを。痛くて、恥ずかしくて、怖くて。嫌で嫌でたまりませんでした。大人になって、ようやく解放されたと思ったのに…」
「ならば、これが最後にしますか?」
「そんなことっ!そんなことは、今考えられません」
ユリアが興奮気味に喚いた。そうして大粒の涙をこぼしながらこちらに身を預けてくる。タリウスは、まるで壊れ物を扱うかのように彼女を抱き止めた。
しばらくそのままなだめていると、ふいにユリアが顔を上げた。ばつの悪そうな表情を見せる彼女に、もう大丈夫だと思った。
「本当に嫌なときはすぐに言ってください」
「嫌だったわけでは、ありません。ただ…」
「ただ?」
「確かに寝坊しましたけど、でも間に合いました。教科書だって、届けていただいたお陰で事なきを得ました。結果的に大惨事にはならなかったのに、あんなに叩かなくたって」
「大惨事にならなかったからです。失敗して、この世の終わりのように落ち込むあなたを見たくはない」
ユリアがはっと息を呑んだ。身に覚えがあるのだろう。それも幾度となく。
「でも!」
「パドルを使ったのは、全然反省が見られなかったからです。お仕置きの途中で物思いにふけるなんて、怒られて然りです」
「それにしても、物凄く痛かったわ」
「それは良かった。しっかり反省出来たでしょう」
ユリアは口を尖らせるが、ふわりと髪を撫でてやると、心なしか機嫌を直したようだった。
「これで生徒の忘れ物に対しても、遠慮なく叱れますね」
「ええ、お陰さまで!」
だが、すぐに憤懣やる方ないといった様子で、キッとこちらを見やった。それでこそユリアである。
了
上の空でスパられるって、スパンキーあるあるかなと思うのです。「え?なに?」みたいなw
