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2019/12/15  23:14

鬼の本領10  小説

翌朝の目覚めは、思ったほど悪くはなかった。ただお尻が痛いのと、脳裏に焼き付いた昨夜の強烈な記憶とがアグネスを苦しめた。

「ねえ、アグネス。これがドアのところに挟まっていたんだけど」

朝食を摂りに部屋を出ようとしたときだった。イサベルがドアの下の隙間から、小さな包みを拾い上げた。

「一体何なの?薬?」

見たところ膏薬のようで、鼻を近付けると野草のような匂いがした。

「わかった!傷薬だ」

「傷薬?!何で?誰が置いたの?」

「誰が置いたかはわからないけど、昨日はほら、遅くまで鞭の音が聞こえたから、誰かが気を効かせてもってきてくれたんじゃない」

「何よそれ」

どうせなら昨日の晩に欲しかった。場違いな不平が一瞬脳裏をよぎり、続いて恥ずかしさに顔が赤らんだ。


食堂で待機していると、しばらくして当直の教官が入室してきた。訓練生が一斉に立ち上がった。

「アグネス=ラサーク、イサベル=オーデン」

突然名前を呼ばれ、反射的に返事を返しつつ、ふたりは互いに顔を見合わせた。教官の手には、手のひら大のカードが二枚ある。

「返してやる。取りに来い」

嬉々として教官の元に向かうイサベルに対し、アグネスの足取りは重い。恐らくお尻が痛いからだけではない筈だ。

「ありがとうございます」

教官はまずイサベルに身分証を返し、それからアグネスに向かって身分証を差し出した。しかし、手が震えて思うように受け取れない。動揺していると、教官の大きな手で利き手を握られ、更に反対側の手が身分証を置いてくれた。

「落ち着け。取って食いはしない」

教官の言葉に小さく笑いが起きる。アグネスの心臓が大きく波打つ。恥ずかしくてまともに教官の顔を見ることが出来なかった。

「これまで何度も身分証を取り上げてきたが、取り返しに来たのはお前たちが初めてだ」

続く台詞に今度はどよめきが起こった。

「熱意は認めるが、決して褒められたことではない。他の者も絶対に真似をするな」


「すいません!」

その日の午後、二人一組で剣技の打ち合いをしていたときだった。相手の攻撃を大きく避けた拍子に、イサベルは後ろにいた別の訓練生に勢い良く当たった。彼女は慌てて後方に駆け寄った。

「ごめんでいい」

「え?」

少年の言っていることがすぐには理解できなくて、イサベルは一瞬とまどいを見せた。だが、ややあって状況を把握すると、彼女はごめんねと言って少年に笑いかけた。予想外のことに今度は少年の動きが止まる。身体が上気してくるのがわかった。


「男って馬鹿よね」

「そう言わないでくださいよ」

ミゼット=ミルズとキール=ダルトンのコンビである。昨日の一件以来、関係者以外の野次馬は演習場に入ることは禁じられ、教官室のバルコニーから訓練を参観することになった。タリウスの発案だが上官も特に反対しなかった。

「やっぱり女が混ざっているとやりにくい?」

「どうでしょう。初めから一緒なら、そういうものだと思うんじゃないですかね。自分はむしろ大歓迎ですね」

「あっそ」

いい加減に返事をしながらミゼットは額に手をやった。


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2019/12/14  22:18

鬼の本領9  小説

「お前も下がれ。それとも、まだ何か用が?」

教官はイサベルを追い出し、今度はアグネスに向き直った。言うなら今しかない。

「身分証を返してください。お願いします」

教官が両目を瞬く。

「自分が何を言っているかわかっているのか」

「あれがないと困るです」

「身分証を取られて困らない奴がいたら会ってみたいものだ」

「明日一日だけで良いんです。どうしても訓練に出たいんです」

「お前の事情など知ったことか。だいたいお前は何故身分証を取り上げられたと思っている」

「それは、訓練中に騒ぎを起こしたからです」

「ただの騒ぎではない。訓練の最中に喧嘩をするなどあり得ないだろう。規律を乱すなと最初に言ったはずだ」

「お言葉ですが」

アグネスが遠慮がちに、だが明確な意思をもって教官を見た。

「規律を乱さなければ何をしても良いんですか」

「そんなことは言っていない」

「だったら…!」

これ以上は黙っていられなかった。だが、アグネスの言葉は教官によって遮られてしまう。

「うちの奴等が先に挑発するようなことをしたんだろう。何度も、執拗に」

「見て、いらっしゃったんですか?」

「直接見てはいないが、どう考えたっておかしいと思うだろう。何故言わなかった?」

言ったところで取り合ってもらえないと思った。主任教官は少々事情が違うようだが、他の教官は皆身内贔屓だと思い込んでいた。

「あいつらを締め上げてあらかたの事情は聞いた。聞いて、呆れた」

タリウスが深いため息を吐いた。彼女たちは、既に明確な目的意識をもち、志もまた高い。自分の訓練生との差は歴然である。

「うちの阿呆共が迷惑を掛けたことは認める。それに、こうなる前に気付いてやれなくて申し訳ないとも思っている」

信じられないといった面持ちで、アグネスは教官が謝るのを聞いていた。

「だが、だからと言ってお前のしたことが帳消しになるわけではない。どんな理由があろうが先に手を出したほうが負けだ。こんなことはこの先、それこそここを出た後だってごまんとある。その度に騒ぎを起こすような奴はいらない。お前もオーデンも、交換訓練生に推されるくらいだ。ここに来るまでに、一方ならない努力を重ねてきたんじゃないのか」

教官の言葉にアグネスがはっとして目を上げた。

「今回のことを報告書に書くなら、命令違反と暴力行為、それだけだ。何故そうなったかは関係ない。こんなことで経歴に泥を塗って、勿体ないと思わないのか」

返す言葉が見付からず、アグネスは小さく謝罪を口にした。その目はすっかり毒気を抜かれていた。

「アグネス=ラサーク」

タリウスの声音が一変する。はいと返事を返しながら、背中が寒くなるのを感じた。

「ここからただで帰れると思っているなら大間違えだ。お前はここに何をしに来た?謝りに来たとでも言うつもりか!」

「それは…」

「身分証をどうするか決めるのは俺だ。お前に指図される筋合いはない!」

「す、すみませ…」

恐ろしくて声がかすれた。最初にこの部屋に来たときの威勢はもうどこにもなかった。

「すみませんで済ますつもりはない。何が謝罪だ。聞いて呆れる。お前は微塵も反省などしていない。大方、身分証を取り返すことしか頭にないのだろう」

「ちが…」

つい数分前までは確かにそうだったが、今は違う。怒れる教官を前に、とてもではないがそんなことは言えなかった。

「我慢するということを学ぶ良い機会だ。机に手を付け」

無情な命令にアグネスは目の前が暗くなるのを感じた。最初からこうなることは折り込み済みだが、今となっては頭の中が後悔でいっぱいである。

「一ダースだ。数えろ」

しかし、そんな感情とは裏腹に身体は命令に従ってしまう。背後からひゅんと空を切る音がした。

「ひとつ!ありがとうございます」

予想以上の痛さに、思わず飛び上がりそうになるのをなんとか理性で押さえ込んだ。だが、それも長くは続かないと思った。

「むっつ!ありがとうございます」

そうしてどうにか半分までは罰を受けたが、ここへ来て我慢が効かなくなった。

「ななつ…っ!ありがとうございます」

肌を切るような鋭い痛みに、彼女は堪えきれず地団駄を踏んだ。

「動くな!次に姿勢を崩したらやり直させるぞ」

「はい!」

どうにか自分を奮い立たせ、次の一打を待った。

「やっ…!ったい!」

「だめだ。やり直せ」

だが、今度は無意識に手が浮いた。彼女は机にかじりつき、今度こそ動くまいと心に決めるが、鞭打たれた瞬間思考がばらばらになる。

「った!すいません」

一旦途切れた忍耐力はそう簡単には戻ってこない。

「やり直しだ」

教官の冷酷な声だけが妙にはっきり聞こえた。

「朝まで付き合ったところでかまわないんだぞ」

「い、いいえ」

言いながら、アグネスは泣きそうになった。どう頑張ったところでもう耐えられそうもない。許しを乞おう、そう思い背後の教官を上目遣いで見た。

「甘えるな。いつもの威勢の良さはどうした」

「すみません」

教官はいとも簡単に甘えた自分を振り払う。涙が頬を伝った。困り果てて動けないでいると、教官が鞭を手にし、こちらに近付いて来る。何事かと構えるアグネスの横を彼は通りすぎ、机の後ろから椅子を持って戻ってきた。

「座板を掴んでいろ。良いと言うまで絶対に手を離すな。もし、許可なく手を離したら、以降すべての訓練に出ることを禁じる」

「そんな!それだけは許してください」

「手を離さなければ良いだけの話だろう。早くしろ」

教官がピシリと机を打つ。アグネスは慌てて椅子に手を付く。その手が小刻みに震えていた。

「やっつ、ありがとうございます」

すぐさま最初の一打がやってくる。

「ここのつ、ありがとうございます」

無我夢中だった。言われたとおり手は椅子を掴んでいたが、足は盛大に動かしたような気がする。もはや痛さで何がなんだかわからなかった。

「十二!ありがとうございます!」

宣告された鞭を受け終わったときには、アグネスは汗だくですべてを消耗し、肩で息をするほどになっていた。

「いいか、これが我慢するということだ。わかったか」

「はい!」

「よし、もう良い」
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2019/12/13  22:39

鬼の本領8  小説

「どうするのよ。二人とも身分証を取られちゃって。なんだってイサベルまで教官に逆らったりしたのよ」

「ごめん。でも、あの一回でいきなり身分証を取るなんておかしくない?だったらあいつらはなんなのよ」

あの後、彼女たちはろくに事情を聞かれることもなく、退出を命じられた。まもなく消灯時間であるが、あれから今まで何の音沙汰もない。

「あいつらは表向き何もしてないもの。ああ、なのに、なんだってあんな挑発に乗っちゃったんだろう」

「しょうがないよ。むしろよく耐えたって。いつものアグネスならもう五回くらいキレてる」

「それを言うなら、いつものあんただったら、ああいうとき、だんまりじゃないの」

「だって」

「とにかくなんとかしなきゃ」

このまま二人で言い合っていても埒があかない。

「なんとかって言ったって」

「忘れたの?明日の午後には先生が来る。ひょっとしたら統括だって来るかもしれない。絶対失敗出来ない日なのに、そもそも二人とも訓練にも出られないなんて」

「怒られるなんてもんじゃすまないよね」

最も恐れていたシナリオである。これでは統括も教官も、遠路遙々わざわざ恥をかきに来るようなものだ。

「二度と北部の地を踏めないかも。ううん、むしろ、逆にこのまま連れ戻されたりして」

「そんなの絶対嫌!」

最後の台詞は二人して絶叫した。確かに現状はお世辞にも良いとは言いがたいが、それでもこんな中途半端なところで故郷に帰るわけにはいかなかった。

「ねえ、イサベル。身分証を取り返しに行こう」

「は?そんなことできるわけ…」

「何も盗みだそうって話じゃない。事情を話して、返してもらえるよう頼んでみよう」

「無理だって。相手はあの教官だよ?話なんて通じるわけないって。返り討ちに遇って終わりだよ」

「でも、このままほっといたら、明日になっちゃう。どのみち怒られるんだったら、後悔しないほうが良くない?」

「そうかもしれないけど」

「もういい。一人で行く」

刻一刻とタイムリミットが近付いてきている。煮え切らないイサベルを待っている余裕はもはやない。

「待ってよ!わかった、私も一緒に行く。でも、とりあえずは謝りに行くってていにしない?」

先程の一件以来、イサベルはタリウスが恐ろしくてたまらないのだ。

教官室の扉を叩きながら、二人とも心臓が飛び出しそうだった。この中には今夜の当直であるタリウス=ジョージアがいる。


「何の用だ」

教官は書類の作成をしているらしく、一瞬二人のほうに目をやったが、すぐにまた書きかけの書類に視線を落とした。

「昼間のことをあやまりにきました」

「ほう」

アグネスが言うと、教官はコトリとペンを置いた。

「申し訳ありませんでした」

揃って頭を下げるも、教官は顔色ひとつ変えなかった。

「もう良い。下がれ」

「先生っ!」

イサベルが食い下がる。相変わらず、負傷した指をもう片方の手で覆っている。

「おい、お前。手をどうした」

「え?あ、これは何でもないです」

「俺にはそう見えないが」

教官が立ち上がって、こちらに近付いて来る。

「あ!や、痛っ!」

無理矢理腕を取られ、イサベルが悲鳴をあげた。

「どういうことだ」

親指の付け根が腫れ上がり熱をもっている。一見して昼間より悪化している。

「昼間、基礎訓練のときに…」

「何故放っておいた」

「み、水で冷やしました」

「お前は馬鹿か!すぐに手当てを受けろ」

普段なら別段大騒ぎするような怪我ではないが、いかんせん彼女は余所からの預かりものだ。万に一つのことがあれば責任問題になる。

「先生、あの…」

「何だ」

戸口まで行き掛けたイサベルがこちらを振り返った。

「身分証を持っていなくても、医務室は使えますか」

「当たり前だ。早く行け!」
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2019/12/11  0:15

鬼の本領7  小説

タリウスの予感は的中した。

ここ数日、交換訓練生の噂を聞き付け、訓練の視察と称してやってくる野次馬が後をたたず、ただでさえ騒がしい兵舎の中が益々落ち着かなかった。卒校間近な本科生ならいざ知らず、普段見られることに慣れていない予科生は、常に衆人環視の元、緊張状態を強いられ、もはや限界寸前である。

彼らはこの状況の遠因を招かざる客のせいにしようとしていた。

それは室内で行われる基礎訓練の時間だった。特に珍しいことをするわけでもないその時間は、野次馬の姿もなく、そしてそのことが逆に禍した。

「痛っ!」

アグネスの背中に、何者かがぶつかる。今日だけで既に複数回同じことが繰り返されている。訓練生の人数に対して決して広くはない演習場である。その事自体は致し方ないと思えるが、問題はその後だ。

「邪魔なんだよ」

まわりにはそれとわからないように、だがアグネスにだけははっきり聞き取れる音量で、少年のひとりが毒づく。相手にしたら負けだ。彼女は唇を噛んでやり過ごす。

そんなことが何度か繰り返された後、ついに我慢の限界が訪れる。

「痛ったい!」

「イサベル?!」

振り返った先には、床に転がったイサベルの姿がある。

「大丈夫?」

「平気。でも、手を踏まれた」

見れば、イサベルの親指の付け根がぷっくりと赤くなっていた。

「うそでしょう?一体誰の仕業?」

「よくわからない」

辺りを見回すが、皆我関せずとばかりに平然と模擬剣を振るっている。

「そこ!何をしている」

タリウスである。教官はこちらに向かってざかざかと近付いて来る。

「どうした」

二人は顔を見合わせる。

「何でもありません」

イサベルは咄嗟に負傷した指をもう片方の手で押さえた。

「何でもないなら私語をするな」

「すみません」

「続けろ」

教官がこちらに背を向けた直後、背後から一際強く当たられた。もう限界だった。

「いい加減にして」

アグネスは踵を返し、目前の少年を睨み付ける。少年は口の端で小さく笑うと、今度は困惑したような表情を浮かべた。これ以上は抑えがきかない。気付いたときには、アグネスの利き手は少年の胸ぐらを掴み、更に次の瞬間強い力で引き離された。

「何の真似だ」

しまった、そう思ったときには、教官に背後から肩を捕まれていた。

「お前、何をした」

教官はひとまず自分と少年とを引き離し、少年に向かって訊いた。

「自分は何も」

「そんなわけがないだろう」

「後ろに下がったときに、肩がぶつかったかもしれません。ですが、胸ぐらを掴まれるようなことだとは思いません」

教官は一旦思考した後、今度はアグネスを見た。

「こいつの言ったことに間違えはないか。言いたいことがあるなら言え」

嵌められた。言いたいことはたくさんあるが、うまく言葉にならない。これでは到底教官を納得させられない。どのみち、この場にいるイサベル以外の人間がぐるならもはや何を言っても無駄だろう。

「いいえ、ありません」

「身分証を出せ」

まさか一発で身分証を取り上げられるとは思わなかった。アグネスは顔面蒼白で固まった。

「待ってください」

イサベルである。彼女は向こう見ずな自分と違い、普段自分から教官に意見したりすることはまずない。それだけに、彼女にもまた我慢の限界が来たのだ。

「先生、それだけは…」

「黙れ!」

教官に怒鳴られ、イサベルが息を飲む。恐怖から既に涙目である。

「貴様何様のつもりだ。俺に意見しようなんぞ十年早い」

教官は今にもイサベルに掴みかかりそうな勢いである。

「ラサーク、身分証を出せ。オーデン、お前もだ」
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2019/12/8  22:05

鬼の本領6  小説

翌朝、昨日より更に重い気持ちで、タリウスは出仕した。昨日の午後の出来事が、何度考えても腑に落ちないのだ。そして、それはまた訓練生も同じらしく、あれ以降、教室の空気が一変した。一言で言うと、ギスギスしているのだ。そんなことを考えている最中、夜勤明けの上官から呼び止められた。

「昨日の交換訓練生の扱いについて、話しておきたいことがある」

「その件でしたら、私もお話ししたいことがあります」

「何だね」

話の腰を折られ、ゼインは明らかに苛立っていた。しかし、タリウスの頭の中は上官への不満で一杯だった。それ故、つい冷静さに欠いた行動に出てしまった。

「先生は昨日の演習で、すべての障害を越える必要はないと仰っていましたが、苦手なことを避けてばかりでは進歩しません。何故…」

「君は何か勘違いしていないか」

ゼインの声色に、まずいと思ったがもう遅かった。

「苦手を克服させたいのなら、それとわかる指示を出せば良いだけの話だ。自分の指示出しが不十分なのを棚にあげて、私を批判するとは何事だ。だいたい前から疑問に思っていた。何故君の訓練生は、あんな丸い指示で馬鹿真面目に障害を越えて行く?私が訓練生なら、真っ先に泥に飛び込んだだろう。君の頭が固いのは知っているが、そのことが訓練生に悪影響を及ぼすのなら考えものだな」

「申し訳ございません」

「謝るくらいなら、最初から口を慎め」

「はっ!」

久々に聞いた上官の怒号にタリウスは直立不動で返事を返した。これでは訓練生時代と同じである。

「私が言いたかったのはそんなことではなくてだ。今年の予科生は随分と風呂好きなようだね」

「風呂ですか」

唐突な問いにすぐには付いていけない。しかし、これ以上上官を怒らせることだけは避けたくて、タリウスは懸命に思考を巡らせる。

「確かに昨日は泥だらけになった者も多かったので、いつもより長風呂になったかもしれません」

昨日、あの後ゼインが同じ条件で再度演習を行うことを指示し、結果として障害物を避け、泥の中を進むことを選んだ者が数多くいた。

「それにしたって、訓練がひけてから消灯時間まで、入れ替わり立ち替わり誰かしら風呂に入っているなんて異常だ」

「そうですね」

「そうですねじゃない。お陰で、北部の訓練生たちはとうとう風呂が使えず終いだ。可哀想に、明日は風呂に入れますかと、消灯点呼のときに泣きつかれた。これがどういう事かわかるか」

「まさか」

「嫌がらせと考えるのが自然だろうね。そうでないにしろ、彼らにほんの少しのやさしさか、譲合いの心があれば防げた事態だ。まったくお粗末な話だ」

「あいつら…」

今年の予科生が精神的に些か幼いところがあることはわかっていた。それに加え、昨日の演習で滅多に姿を見せない主任教官が、余所者である北部の訓練生を賞賛したことも面白くないのだろう。それにしてもやることが姑息だ。

「こんなことは言いたくはないが、今の中央の幹部には北出身の女性士官も多い。自分の後輩が風呂にも入れてもらえないなどと知ったら、どんな面倒なことになるかわかるだろう。彼女たちを特別扱いする必要はないが、最低限の配慮はしてやれ」

「はい」

「そういうわけだから、昨夜は消灯後の入浴を許可したが、今日からは君が調整するなりなんなりして時間内に終えるようにしろ」

「了解しました」

朝からこれでは、もはや溜め息しか出てこない。幼稚な予科生にも勿論腹が立ったが、北の少女たちばかり優遇しようとする上官もまたいかがなものだろうか。これでは益々両者の間の溝が深まるばかりだ。
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