2021/1/31 8:14
老馬の智 小説
予科生の入校から半月ばかり経った、ある夜のことである。その日、当直勤務に当たっていたタリウスは、消灯点呼をするためホールにいた。実際の消灯時間にはまだ間があるが、この消灯点呼以降、訓練生は翌朝まで居室から出ることが禁じられる。
ホールには訓練生が整然と整列してた。前列が本科生、後列が予科生である。ざっと見回すと、後列に一人分空きがあった。
「デリックはどうした」
「気分が悪いようで部屋で寝ています」
予科生のひとりが答えるのをタリウスは意外な思いで聞いていた。今夜は外出の許されている週末である。てっきり門限を破ったものとばかり思っていた。
「何故聞かれるまで報告に来ない」
「重病というほどでは、なさそうでしたので」
「それでは答えになっていない。そもそも重病かどうか判断するのはお前の役目ではない」
「すみません」
「いつもと違うことがあれば、こちらが聞く前にすぐに報告しろ。それが同室の者の義務だ」
それからいくつか連絡事項を伝え、間もなく散会した。タリウスはその足で予科生の居室に向かった。居室の一番奥で、少年がベッドに沈んでいた。タリウスが入室したことにも気が付いていないようだった。
「コナー=デリック。何故、消灯点呼に来ない」
「せ、先生?!」
教官の声に、慌ててコナーが飛び起きた。その顔は青白く生気がない。ただ、目だけが赤かった。
「質問に答えろ」
「すいません!ちょっと、めまいがして…」
「めまい?」
タリウスはコナーに歩み寄ると、おもむろに額に手を当てた。予想外のことに少年が目を見張るのがわかった。
「熱はないようだが。息苦しさを感じるか」
見るからに弱っている少年を前に、つい息子にするよう反射的に手が動いた。タリウスはうっかり父親モードになってしまったことを内心焦りつつ、それを気取られないよう、あくまで機械的に問うた。
「いいえ」
「寒気がするか」
「しません」
「他に身体症状は?」
「頭が少し痛みます」
答えながら、コナーが顔をしかめた。
「めまいと頭痛はいつからだ」
「二三日前、からだったと思います」
「何故放っておいた」
「訓練に出られないほどではなかったので、様子を見ていました」
少年の言葉にタリウスはここ数日のことを思い返す。確かにこれといって気になることはなかった。
「今夜は医務室で休め」
「平気です。大丈夫です、そこまでしなくても…」
「我慢が利くなら点呼に出ろ。そうでないなら言われたとおりにしろ」
「はい」
タリウスはコナーを伴い、長い廊下を進んだ。
その間、コナーの不調の原因について考えた。一見したところ、風邪の兆候は見受けられない。ならば、過酷な訓練と慣れない集団生活で疲れが出たか。
それは、この時期決して珍しいことではない。だが、それも週末にしこたま眠り、いくらか外で憂さ晴らしをすれば、大方難なく快復するのが常だ。
タリウスは自分のすぐ後ろを歩く少年を盗み見た。やや俯き気味だが、普段からうるさく言っているだけあり、姿勢自体は悪くない。また、歩みもしっかりしている。
先程、同室の少年が言っていた、重症ではないという見立ては、恐らく間違いではないだろう。気になるのは、その顔に明らかに泣いた跡があることだ。
「食事はしたか」
「一応しましたが、あまり食欲がありません」
「それも二三日前からか」
「はい」
そこで、タリウスはひとつの可能性に行き着く。だが、どうして良いかまではわからない。あれこれ頭を悩ませていると、ちょうど教官室から年老いた教官が出て行くのが見えた。
「ノーウッド先生」
考えるより前に思考が声となった。
「遅い時間に申し訳ないのですが、先生に折り入ってご相談が」
「お前がそんな顔をするとは珍しいな」
老教官は最古参で、かつてタリウス自身が訓練生だったときにも世話になった。
「デリック、医務室にいろ。横になっていて良い」
ひとまずコナーを医務室に入れ、それから老教官に向き直った。
「実は予科生のひとりが体調不良を訴えていまして」
「医者を呼んでくれば良いか」
「いえ。そういう感じではなく、何と言うか、その…」
タリウスが言葉に詰まる。
「ああ、こっちか?」
すると、老教官が自身の胸をどんと叩いた。
「恐らくは。私が話を聞いてやっても良いのですが…」
「お前さんの立場じゃそれも難しかろう。良い良い。こういうのは星の数より飯(めんこ)の数だ。儂に任せろ」
「すみません、時間外なのに」
「何、儂はここに棲み着いている身だ。時間内も時間外も関係ない。良いからお前さんは当直業務に戻れ」
「ありがとうございます」
あからさまにほっとしたのがわかったのだろう。老教官は笑いながらタリウスの肩を叩いた。
「おい、予科生。どうした?ホームシックか?」
ど直球である。扉の隙間からでも、コナーが取り乱すのがわかった。
「ジョージアに言えば、望みどおりすぐさま家へ叩き返されるぞ。さあ若いの、どうする?うん?」
もっと聞いていたい気もするが、言葉どおりここは大先輩に任せることにし、タリウスは教官室に入った。
しばらくすると、教官室の扉から老教官が現れた。近くにコナーらしき姿はない。
「一通り話を聞いた上で、儂の胃薬を万病に効く妙薬だと言って飲ませてやったら、良くなったと言って部屋に戻った。安心したんだろうな」
「そう、でしたか」
逆立ちしても自分には思い付かない解決法である。あわよくば参考にさせてもらおう、そう思ったのがそもそも間違いだと思い知らされた。
「大人しそうな奴だが、成績は悪くはないだろう」
「はい。成績も素行も問題ありません」
「ああいうタイプは拗らせると面倒だからな。良い判断だと儂は思うぞ。昔のお前なら、自分ひとりで解決しようと躍起になっただろうに。ジョージア」
老教官が慈しむような眼差しを向けた。
「成長したな」
想像だにしない台詞に、急激に体温が上昇した。瞬間的に、意識だけが訓練生時代に逆戻りしたよう錯覚した。
「お、恐れ入ります」
そして、悟った。今まで主任教官ばかりを意識していたが、自分の倍近くを生きるこの男にもまた、永遠に敵わないのだということを。
了
ホールには訓練生が整然と整列してた。前列が本科生、後列が予科生である。ざっと見回すと、後列に一人分空きがあった。
「デリックはどうした」
「気分が悪いようで部屋で寝ています」
予科生のひとりが答えるのをタリウスは意外な思いで聞いていた。今夜は外出の許されている週末である。てっきり門限を破ったものとばかり思っていた。
「何故聞かれるまで報告に来ない」
「重病というほどでは、なさそうでしたので」
「それでは答えになっていない。そもそも重病かどうか判断するのはお前の役目ではない」
「すみません」
「いつもと違うことがあれば、こちらが聞く前にすぐに報告しろ。それが同室の者の義務だ」
それからいくつか連絡事項を伝え、間もなく散会した。タリウスはその足で予科生の居室に向かった。居室の一番奥で、少年がベッドに沈んでいた。タリウスが入室したことにも気が付いていないようだった。
「コナー=デリック。何故、消灯点呼に来ない」
「せ、先生?!」
教官の声に、慌ててコナーが飛び起きた。その顔は青白く生気がない。ただ、目だけが赤かった。
「質問に答えろ」
「すいません!ちょっと、めまいがして…」
「めまい?」
タリウスはコナーに歩み寄ると、おもむろに額に手を当てた。予想外のことに少年が目を見張るのがわかった。
「熱はないようだが。息苦しさを感じるか」
見るからに弱っている少年を前に、つい息子にするよう反射的に手が動いた。タリウスはうっかり父親モードになってしまったことを内心焦りつつ、それを気取られないよう、あくまで機械的に問うた。
「いいえ」
「寒気がするか」
「しません」
「他に身体症状は?」
「頭が少し痛みます」
答えながら、コナーが顔をしかめた。
「めまいと頭痛はいつからだ」
「二三日前、からだったと思います」
「何故放っておいた」
「訓練に出られないほどではなかったので、様子を見ていました」
少年の言葉にタリウスはここ数日のことを思い返す。確かにこれといって気になることはなかった。
「今夜は医務室で休め」
「平気です。大丈夫です、そこまでしなくても…」
「我慢が利くなら点呼に出ろ。そうでないなら言われたとおりにしろ」
「はい」
タリウスはコナーを伴い、長い廊下を進んだ。
その間、コナーの不調の原因について考えた。一見したところ、風邪の兆候は見受けられない。ならば、過酷な訓練と慣れない集団生活で疲れが出たか。
それは、この時期決して珍しいことではない。だが、それも週末にしこたま眠り、いくらか外で憂さ晴らしをすれば、大方難なく快復するのが常だ。
タリウスは自分のすぐ後ろを歩く少年を盗み見た。やや俯き気味だが、普段からうるさく言っているだけあり、姿勢自体は悪くない。また、歩みもしっかりしている。
先程、同室の少年が言っていた、重症ではないという見立ては、恐らく間違いではないだろう。気になるのは、その顔に明らかに泣いた跡があることだ。
「食事はしたか」
「一応しましたが、あまり食欲がありません」
「それも二三日前からか」
「はい」
そこで、タリウスはひとつの可能性に行き着く。だが、どうして良いかまではわからない。あれこれ頭を悩ませていると、ちょうど教官室から年老いた教官が出て行くのが見えた。
「ノーウッド先生」
考えるより前に思考が声となった。
「遅い時間に申し訳ないのですが、先生に折り入ってご相談が」
「お前がそんな顔をするとは珍しいな」
老教官は最古参で、かつてタリウス自身が訓練生だったときにも世話になった。
「デリック、医務室にいろ。横になっていて良い」
ひとまずコナーを医務室に入れ、それから老教官に向き直った。
「実は予科生のひとりが体調不良を訴えていまして」
「医者を呼んでくれば良いか」
「いえ。そういう感じではなく、何と言うか、その…」
タリウスが言葉に詰まる。
「ああ、こっちか?」
すると、老教官が自身の胸をどんと叩いた。
「恐らくは。私が話を聞いてやっても良いのですが…」
「お前さんの立場じゃそれも難しかろう。良い良い。こういうのは星の数より飯(めんこ)の数だ。儂に任せろ」
「すみません、時間外なのに」
「何、儂はここに棲み着いている身だ。時間内も時間外も関係ない。良いからお前さんは当直業務に戻れ」
「ありがとうございます」
あからさまにほっとしたのがわかったのだろう。老教官は笑いながらタリウスの肩を叩いた。
「おい、予科生。どうした?ホームシックか?」
ど直球である。扉の隙間からでも、コナーが取り乱すのがわかった。
「ジョージアに言えば、望みどおりすぐさま家へ叩き返されるぞ。さあ若いの、どうする?うん?」
もっと聞いていたい気もするが、言葉どおりここは大先輩に任せることにし、タリウスは教官室に入った。
しばらくすると、教官室の扉から老教官が現れた。近くにコナーらしき姿はない。
「一通り話を聞いた上で、儂の胃薬を万病に効く妙薬だと言って飲ませてやったら、良くなったと言って部屋に戻った。安心したんだろうな」
「そう、でしたか」
逆立ちしても自分には思い付かない解決法である。あわよくば参考にさせてもらおう、そう思ったのがそもそも間違いだと思い知らされた。
「大人しそうな奴だが、成績は悪くはないだろう」
「はい。成績も素行も問題ありません」
「ああいうタイプは拗らせると面倒だからな。良い判断だと儂は思うぞ。昔のお前なら、自分ひとりで解決しようと躍起になっただろうに。ジョージア」
老教官が慈しむような眼差しを向けた。
「成長したな」
想像だにしない台詞に、急激に体温が上昇した。瞬間的に、意識だけが訓練生時代に逆戻りしたよう錯覚した。
「お、恐れ入ります」
そして、悟った。今まで主任教官ばかりを意識していたが、自分の倍近くを生きるこの男にもまた、永遠に敵わないのだということを。
了