2020/8/10 0:53
三竦み 小説
その日、タリウスが息子を迎えに上官の私邸を訪ねたのは、日もだいぶ高くなってからだった。当直業務が終わった後も兵舎に残り、雑多なことを片付けていたところ、思いの外帰りが遅くなってしまった。
いくら上官がシェールを可愛がっているとは言え、こうも好意に甘えて良い筈がない。流石に今日は小言のひとつももらうかもしれない。そんなことを考えながら玄関の呼び鈴を鳴らすも、応答がなかった。
そのとき、風上から金属同士がぶつかるような音が聞こえてきた。タリウスは訝しく思い、そのまま音のするほうへと向かった。
「すみません。遅くなりました」
音を頼りに裏庭へまわると、上官と遭遇した。
「昨夜は何か問題でも?」
「いいえ、特段ありません」
「ならば結構。それより、事後報告で申し訳ないが、シェールを借りているよ」
「それは構いませんが」
「うちのが昇段試験があるとかで、私を頼ってきてね。シェールに勝ったら相手をしてやるという条件を出したところだ」
「シェールに、ですか」
昨今息子は随分と剣の腕をあげたようだが、それにしても所詮は子供だ。王族の警護まで務める彼女の相手になる筈がなかった。
「敗けるわけがないと思うだろう?それがこの体(てい)たらくだ」
ゼインの指差す方向には、我が子と打ち合いをするミゼットの姿があった。両者の力は互角というわけではないが、それでもシェール相手に彼女が苦心しているのが窺い知れる。
「ただ勝てば良いというわけではない。秩序と礼節、どちらも彼女にないとは言わないが、さりとて充分ではない」
何故ならば、彼女の頭上には水桶が乗っており、更には模擬剣を握る手は利き手とは逆だった。差し詰め、水桶が秩序で左手が礼節だろうか。
「そこまで」
正面から繰り出された攻撃を大きく避けた拍子に、頭上の水桶が傾いた。ミゼットは咄嗟に水桶に手をやり事なきを得たが、そんな愚行を上官が許す筈がなかった。
「お話にならないね、ミゼット。昇段云々以前の問題だ」
「とうさん!」
ゼインが苦言を呈するが、そこにシェールが割って入った。ミゼットとの打ち合いを終えたところで、ゼインの隣にいる自分に気付いたのだろう。
「おかえりなさい。今の見てた?」
シェールは模擬剣を手に、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「ああ」
「嫌だ。見てたの?」
彼女もまたつい今し方まで、自分の存在に気付いていなかったのだろう。片手で顔を覆い、最悪と呟いた。
「全くお恥ずかしいものを見せたね」
「確かに面目ないけど、でも。シェールが相手だと調子が狂うのよ」
百戦錬磨とはいかないまでも、ミゼットにはこれまでいくつもの修羅場を越えてきたという自負がある。左手とて決して使えないわけではない。ただ、うまいこと制御出来ず、もしも妙なところに当ててしまったら、そう考えると相手が相手なだけに不用意に攻められなかった。
そんな彼女を見て、タリウスは思わず苦笑いを漏らした。
「だったら、やってみてよ」
同情から出たものだが、彼女はそう受け取らなかったようである。
「いえ、自分は…」
「良いでしょ、ゼイン」
「勿論」
こうなるともはや自分に拒否権はない。タリウスはミゼットから模擬剣を受けとると、息子に後ろへ下がるよう命じた。
「忘れ物よ」
左手で剣を握り、腰を落としたところで、ミゼットが目の前に水桶を差し出した。桶には半分ほど水が入っている。タリウスは無言でそれを受けとり、事も無げに頭上に置いた。
「え?うっそ!本当に?」
シェールは突如巡ってきた千載一遇のチャンスに心踊らせた。些かおかしな状況ではあるが、この際細かいことはどうでも良かった。父と手合わせが出来るなんて何年振りだろう。
心の準備は全く出来ていなかったが、それがかえって幸いした。これが何日も前からわかっていたことならば、恐らくあれこれ考えを巡らせた結果、少しも動けなかったに違いない。
丁度ミゼットとの一戦で身体が温まっていたこともあり、シェールは最初から勢いよく斬り込んだ。
タリウスはふたつのハンデをものともせず、極めて冷静に息子の剣を受けた。その後も、シェールがどれほど大きく斬りかかろうとも、少しも乱れることなく淡々と打ち返した。
鋭く重い剣が幾度となくシェールを襲った。シェールは辛うじてそれらを受けるが、押し返すには力が足らず、そのままジリジリと押され、数歩後退したところで横になぎ払われた。
シェールは堪えきれず、その場に尻餅をついた。
「そこまで」
ゼインの声に、タリウスは剣を納め、それから息子に向かって手を差しのべた。シェールは反射的にその手を握った。
「随分と腕を上げたな」
そうして息子が起き上がったところで、タリウスはようやく頭上の水桶を下ろした。
「私の部下を甘く見てもらっては困る。まあ、シェールには丁度良いご褒美になったようだが」
シェールはと言えば、未だ荒い息のまま頬を上気させていた。
「大変失礼したわね」
「普段から予科生相手に似たようなことをしているので、それは良いのですが。それよりも、シェールに勝ったら、先生に手合わせしていただけるんですよね」
「一体何を言い出すんだ。君とはそんな約束をしたおぼえは…」
「ええ、そうね。あいにく私は勝てなかったけれど、あなたにはその権利がある」
「ミゼット、君まで」
「シェール、先生の模擬剣を取りに行くわよ。あんたも見たいでしょう」
「絶対見たい!」
ミゼットに外堀を埋められ、駄目押しでシェールの無邪気な笑みまで見せられたとあっては、首を縦に振らざるを得ない。
「仕方ない。君にもご褒美をあげるとしよう」
加えて、部下が従順なのを良いことに、日頃無茶振りばかりしている自覚はゼインにも一応あった。たまにはちょっとした望みを叶えたとて、罰は当たらないだろう。
ゼインが珍しく仏心を出すも、この直後、まさかの台詞に度肝を抜かれることになる。
「左手でやっていただけるんですか」
全員が固唾を飲んで見守る中、ゼインの溜め息が一際大きく聞こえた。
「ジョージア、君は私を殺す気か」
〜Fin〜
さんすくみ
シェール<タリウス<ゼイン<シェールな関係
10
いくら上官がシェールを可愛がっているとは言え、こうも好意に甘えて良い筈がない。流石に今日は小言のひとつももらうかもしれない。そんなことを考えながら玄関の呼び鈴を鳴らすも、応答がなかった。
そのとき、風上から金属同士がぶつかるような音が聞こえてきた。タリウスは訝しく思い、そのまま音のするほうへと向かった。
「すみません。遅くなりました」
音を頼りに裏庭へまわると、上官と遭遇した。
「昨夜は何か問題でも?」
「いいえ、特段ありません」
「ならば結構。それより、事後報告で申し訳ないが、シェールを借りているよ」
「それは構いませんが」
「うちのが昇段試験があるとかで、私を頼ってきてね。シェールに勝ったら相手をしてやるという条件を出したところだ」
「シェールに、ですか」
昨今息子は随分と剣の腕をあげたようだが、それにしても所詮は子供だ。王族の警護まで務める彼女の相手になる筈がなかった。
「敗けるわけがないと思うだろう?それがこの体(てい)たらくだ」
ゼインの指差す方向には、我が子と打ち合いをするミゼットの姿があった。両者の力は互角というわけではないが、それでもシェール相手に彼女が苦心しているのが窺い知れる。
「ただ勝てば良いというわけではない。秩序と礼節、どちらも彼女にないとは言わないが、さりとて充分ではない」
何故ならば、彼女の頭上には水桶が乗っており、更には模擬剣を握る手は利き手とは逆だった。差し詰め、水桶が秩序で左手が礼節だろうか。
「そこまで」
正面から繰り出された攻撃を大きく避けた拍子に、頭上の水桶が傾いた。ミゼットは咄嗟に水桶に手をやり事なきを得たが、そんな愚行を上官が許す筈がなかった。
「お話にならないね、ミゼット。昇段云々以前の問題だ」
「とうさん!」
ゼインが苦言を呈するが、そこにシェールが割って入った。ミゼットとの打ち合いを終えたところで、ゼインの隣にいる自分に気付いたのだろう。
「おかえりなさい。今の見てた?」
シェールは模擬剣を手に、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「ああ」
「嫌だ。見てたの?」
彼女もまたつい今し方まで、自分の存在に気付いていなかったのだろう。片手で顔を覆い、最悪と呟いた。
「全くお恥ずかしいものを見せたね」
「確かに面目ないけど、でも。シェールが相手だと調子が狂うのよ」
百戦錬磨とはいかないまでも、ミゼットにはこれまでいくつもの修羅場を越えてきたという自負がある。左手とて決して使えないわけではない。ただ、うまいこと制御出来ず、もしも妙なところに当ててしまったら、そう考えると相手が相手なだけに不用意に攻められなかった。
そんな彼女を見て、タリウスは思わず苦笑いを漏らした。
「だったら、やってみてよ」
同情から出たものだが、彼女はそう受け取らなかったようである。
「いえ、自分は…」
「良いでしょ、ゼイン」
「勿論」
こうなるともはや自分に拒否権はない。タリウスはミゼットから模擬剣を受けとると、息子に後ろへ下がるよう命じた。
「忘れ物よ」
左手で剣を握り、腰を落としたところで、ミゼットが目の前に水桶を差し出した。桶には半分ほど水が入っている。タリウスは無言でそれを受けとり、事も無げに頭上に置いた。
「え?うっそ!本当に?」
シェールは突如巡ってきた千載一遇のチャンスに心踊らせた。些かおかしな状況ではあるが、この際細かいことはどうでも良かった。父と手合わせが出来るなんて何年振りだろう。
心の準備は全く出来ていなかったが、それがかえって幸いした。これが何日も前からわかっていたことならば、恐らくあれこれ考えを巡らせた結果、少しも動けなかったに違いない。
丁度ミゼットとの一戦で身体が温まっていたこともあり、シェールは最初から勢いよく斬り込んだ。
タリウスはふたつのハンデをものともせず、極めて冷静に息子の剣を受けた。その後も、シェールがどれほど大きく斬りかかろうとも、少しも乱れることなく淡々と打ち返した。
鋭く重い剣が幾度となくシェールを襲った。シェールは辛うじてそれらを受けるが、押し返すには力が足らず、そのままジリジリと押され、数歩後退したところで横になぎ払われた。
シェールは堪えきれず、その場に尻餅をついた。
「そこまで」
ゼインの声に、タリウスは剣を納め、それから息子に向かって手を差しのべた。シェールは反射的にその手を握った。
「随分と腕を上げたな」
そうして息子が起き上がったところで、タリウスはようやく頭上の水桶を下ろした。
「私の部下を甘く見てもらっては困る。まあ、シェールには丁度良いご褒美になったようだが」
シェールはと言えば、未だ荒い息のまま頬を上気させていた。
「大変失礼したわね」
「普段から予科生相手に似たようなことをしているので、それは良いのですが。それよりも、シェールに勝ったら、先生に手合わせしていただけるんですよね」
「一体何を言い出すんだ。君とはそんな約束をしたおぼえは…」
「ええ、そうね。あいにく私は勝てなかったけれど、あなたにはその権利がある」
「ミゼット、君まで」
「シェール、先生の模擬剣を取りに行くわよ。あんたも見たいでしょう」
「絶対見たい!」
ミゼットに外堀を埋められ、駄目押しでシェールの無邪気な笑みまで見せられたとあっては、首を縦に振らざるを得ない。
「仕方ない。君にもご褒美をあげるとしよう」
加えて、部下が従順なのを良いことに、日頃無茶振りばかりしている自覚はゼインにも一応あった。たまにはちょっとした望みを叶えたとて、罰は当たらないだろう。
ゼインが珍しく仏心を出すも、この直後、まさかの台詞に度肝を抜かれることになる。
「左手でやっていただけるんですか」
全員が固唾を飲んで見守る中、ゼインの溜め息が一際大きく聞こえた。
「ジョージア、君は私を殺す気か」
〜Fin〜
さんすくみ
シェール<タリウス<ゼイン<シェールな関係
