賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の新作『長江哀歌』(ちょうこうエレジー)を見て奇妙な違和感を感じたので、メモ。
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天安門事件直後から始動した世界最大のダム建造計画「三峡ダム」は、2009年に完成するまでに、流域は水位が175メートル上昇し、13の都市が水没し、130万人が移動を強制される。三国志の舞台となり、李白が詠った三峡は、決定的に変貌する。
映画はまもなく水没する古都を舞台とし、16年前に逃げた妻をさがしにやってきた男と、2年間自分を放置しつづけてきた夫をさがしにやってきた女の、ふたつの軸で描かれる。
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そのファーストカットからラストカットまで感じた奇妙な感触。それは、新鮮な肉と野菜を素材に調理され・華やかにもりつけられた料理を口にいれたとき、素材も味も高水準にもかかわらず(つまり、美味い)、舌の端にどこかスクエアな人工調味料・人工着色料の存在を感じとってしまったときのような“違和感”だった。
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いうまでもなく『長江哀歌』はフィクションである。演じているのは俳優である。現地で雇われたエキストラすなわち“素人”も多数出演しているものの、彼らもまた助監の徹底的な指示により演技していることは変わりない。それは現実ではない。
にもかかわらず、それはあたかも現実のようでもある。人も風景も現実のようだ。すべての偶然が現実のようだ。しかし同時にその現実には微細なブレがおりこまれており、上記のような奇妙な違和感をおぼえてしまうのだ。これはどういうことなのか。
ひとつには、映像の色彩と質感である。『長江哀歌』はフィルムでなくデジタルで撮影され、ポストプロダクションで加工されている。たとえば、長江の風景は雄大で重厚に撮影されるのが普通だ。それはこの映画でも踏襲されているものの、妙な言い方になるが、それはブレた踏襲なのだ。質感はフィルム的であり、色彩は煤けた陰影を強調する。一転して室内でも同様である。ふるめかしい壁や机やコップといった静物も、計算された照明のもと、まさにそのふるめかしさを奇妙に強調する擬似自然的色彩で表現される。くりかえす。それは現実のようであるが、現実ではない。あくまでも人工調味料と人工着色料によって作られた・美しく美味しい料理なのだ。
撮影に使用されているのは、HDVである。ロケ写真を見るとSONYのFX1と同サイズの小型機種。これは異常である。デジタルの映像が要請されているならば、HDカムテープを使用する業務用ハイビジョンカメラを選択すべきだ。HDVとはDVテープを使用するいわば”擬似ハイビジョン”であり、デジタルの映像として劣る。また、小型のHDVは機動力があり人を威圧しないのでドキュメンタリーの手持ち撮影には向いているが、『長江哀歌』はフィックスやレールやクレーンを多用する計算された重厚な撮影をしているので、むしろまったく不向きなのだ(ゆえにこの機材で撮りあげたカメラマンの技量の高さは驚異的だ)。
(これは実は前作『世界』から続いている試みなのだが)本来ならフィルムで撮影すべき雄大な自然や古色染みついた生活を、あえてデジタルで、それも小型 HDVという制限された/本来ならドキュメンタリーに向いたハードを選択するということ。さらに、おそらくは徹底的に照明をコントロールし自然さを強調して撮影された素材を・さらに過剰に自然さを強調して映像加工するということ。さらにそれを35ミリのフィルムに焼きなおすということ。映像に、撮影過程そのものに、奇妙なねじれがもちこまれている。
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賈樟柯がこの映画を演出する基本的態度はリアリズムである。俳優たちは「あたかも現実のよう」に演技する。どのシーンでもいい。たとえば主人公の男が訪ねた義理の叔父が麺をたべるシーン。主人公の女が工場をたずねるシーン。労働者たちが乾杯をするシーン。どれも、あたかもドキュメンタリーのようだ。近年最高のドキュメンタリーはやはり中国で撮影された王兵『鉄西区』だが、これら二つの作品は、「いっけん」任意のシーンを交換してもわからないのではないかとすら思えるほど、とてもよく似ている。
『長江哀歌』のそれぞれのシーンは「いっけん」リアルなのだが、実は、とても作為的でもある。そのいくつかは嫌悪をおぼえるほどフレームのなかで自閉した演出であり、撮り方をしている。みてきたように、その映像は準備され・照明を当てられ・加工されたニセモノなのである。対して『鉄西区』は、王監督がたったひとりでデジタルカメラで3年間かけて数百時間撮影した素材から、およそ9時間に編集したドキュメンタリーだ。
したがって、両者がいっけんどれだけ類似していようと、けっして同質のものではありえない。そこには見えづらいがたしかな差異が存在する。
『鉄西区』は閉鎖される工場街で、『長江哀歌』は沈みゆく古都で撮影されている。『鉄西区』はまさに小型デジタルカメラでこそ撮影されえた映画だ。彼はそこで撮影対象のひとびとのあいだにとけこみ、何年もかけて何百時間もカメラをまわしつづけた。そうしてこそ撮影できた決定的な偶然を編集している。『長江哀歌』もまた小型デジタルカメラで撮影されているが、何十人というスタッフがコントロールし演技して準備してこそ撮影できた必然を編集している。ここにおいて僕ら「見る者」が直面しているのは、どちらがより真実なのか、という昔ながらの素朴な問いではもはやない。
『鉄西区』はおよそ歴史上もっとも誠実に撮影されたドキュメンタリーだ。しかし/だから、ドキュメンタリーの臨界をしめしてもいる。どれだけ誠実に撮ろうとも・あるいは誠実に撮れば撮るほど、そこには撮影者の視線が透明になりつつも同時に決定的に宿り、「9時間」という映画というメディアの”表象の限界”(ランズマン『ショアー』と同じ上映時間!)におよぶまで偏執的に誠実な編集をしようとも・それが同時につきあたらざるをえない現実と非現実との壁の存在をしめしてしまう。ドキュメンタリーは現実ではない。そして同時に、フィクションは完璧な非現実などではない。それは製作者という「現実」を不可避的に含んでしまう。何百時間まわしたなかで選ばれた9時間分の現実と、あらかじめ選ばれていた2時間分の非現実。このふたつの同時代的な作品が、両者とも消えゆく街、いわば”失われゆく世界”を舞台としているのは、単なる偶然だろうか。ああそうだ、偶然と必然はとてもよく似ている。両者は、決定的ニ違イ同時ニ類似シテイル。
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『長江哀歌』にはインターネットや携帯電話の描写が頻出する。それらはありがちな古き世界に侵入する現代性の象徴的ガジェットなどではなく、現実性と非現実性が、歴史性と非歴史性が、そこでおしあいへしあい拮抗し浸透しあう、三峡という時空ならではアイテムなのだ。だからこそ、インターネットはすぐにはつながらず(その共時性にヒビが入る)、男の携帯電話の着信音はむかしなつかしい歌謡曲なのである(その共時性にブレが入る)。
三峡とはどこか。
どこでもいい、旅行会社のサイトで「三峡下り」を見てみると、観光船のあたらしいコースが掲載されている。ダム工事でかつての景観は失われましたが、よりダイナミックにうまれかわった三峡をお楽しみいただけます。その不変/普遍とおもわれた景観は、似てはいるが、変わっている。
ダムの水は、自然の水と、「いっけん」よく似ているが、同じではない。それまでの長江の流れは天地の間の巨大な流れ=歴史だった。それはコンクリートでせきとめられた。リアルとフィクション。歴史と現在。自然と人工。それらはこの谷間で拮抗し、そのどちらでもない巨大ななにものかになって溜まっている。三峡とは、そのような時空なのである。映画が「烟(タバコ)」「酒」「茶」「糖(アメ)」の四つの題をもったパートで区切られるのは、ひとびとの生活において、それらがかろうじて現実と非現実のブレを縫いつけていることをしめしている。
この映画では、映像だけではなく、音にも周到なリアル/フェイクのブレを導入されている。現実音は増幅されあるいは減少され非現実音と重ねられ位相を調節されている。まじりあうリアルとフェイク。かつて李白が謡った猿たちの鳴き声は、労働者たちがツルハシでコンクリートを叩き壊す音とすりかわっている。にもかかわらず僕らはそのリアルでフェイクな三峡の景観を見て、古代に思いをはせてみせる。歴史と非歴史がここでブレながらかさなっている。特異点?いやおそらくはちがう。僕らはどこにいても、おそらくはそのようなねじれにすでにしてまきこまれているはずなのだ。それが賈樟柯の世界にたいする視線だ。そのような世界で、僕らはどのように生きていくのだろう?
(つづく)

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