僕のこれまでの人生で決定的に欠如しているものが、師だ。およそ誰かに直に接続して体系を受け入れたためしがない。ふらふらとかけずりまわってそのつど曲がり角で目についたものを悪食するのみだった。知の孤児の空腹感というのは一生ついてまわるもので、これは覚悟して開き直っているが、先生とか先輩とかいう関係が醸成する明るい育ちのよさのようなものにはぬぐいがたい羨望がある。あいつらはいつもコ−ス料理喰ってやがる、みたいな。
四方田犬彦『先生とわたし』は春に『新潮』に載った時にロス行きの飛行機で読んだ。”師と弟子”という関係が真面目に取り沙汰されている体裁だったが、いまやそれが廃れる危機にあろうが僕にはまったく縁も実感もない話で、むしろこれは『ハイスクール1968』につづく著者自身の”自伝”だな、と感じた記憶がある。
単行本となって批評もたくさん出て小林秀雄賞かともささやかれている。僕はあれを暴露本だというほど悪意ある読み方はしなかったが、かつてすばらしい授業をしてくれた「先生」が酒と暴力に走り堕ちていくのに対し「わたし」はさっそうと世に出ていく、みたいな単純明快な対照はどうかと思った(この辺りについてはもうひとりの高弟・高山宏がウェブ批評の末尾でちくりとやっていた)。
さらに気になったのは、「先生」の墜落がアリバイのように付けられた大学における孤独などではなく、時代の必然的な流れ、つまりその思考と感性がもはや古く役立たずになったのだ、という印象を与えることだ。かつての大学にはいい「先生」がいて「弟子」たちと美しい関係を築いたものだったが時代の流れで彼は負けてしまった、と。ミリチャ・エリアーデから漫画、記号論からメタフィクションまで自在に論じる師の「知」そのものが、まさに四方田らが体現することになるニューアカブームの先駆けであり、多分野での圧倒的な知識量と、流行に敏感で交通整理がとにかく上手い、というくらいの「実力」しか伝わってこないんだ。そんなのって、たしかに時代が変われば消えざるをえない空疎な知でしかないよね。批評を読んでも由良を伝説の学者というポジションに簡単に押し込むのだけど完全に過去の偉人扱いで実体的にどうすごかったのかまったくこの人たちには伝わっていないんだな、ということを実感する。
なんでカチンと来るのかなあと我ながらかんがみるに、僕自身、「先生」などとはまったく言えないまでもごく間接的に由良に導いてもらったことがあるからだった。最初に由良の文章を読んだのは、”みみずく”シリーズか何かだったと思う。それで名前を憶えていて、自由國民社の『世界のオカルト文学・幻想文学総解説』を手にしたのは13歳の時だった。周りに教導してくれる誰をも持っていなかった僕は、図書館に行っては棚を決めると端から端まで読み尽くしていくというデタラメな読書をしていた。だから、あの本には驚いた。世界の未知の文学作品が300編ほどもきらめいており、そこでおそらくはじめて、なんらかの”筋”に沿って知識を得ていくことの快感を知ったのだと思う。この本の製作には四方田ら由良ゼミの俊英たちがかかわっていたそうだ。中学卒業までの2年間に、そこで紹介されていた本の8〜9割は読破した。すでに絶版の書も多かったから、タイトルをすべて暗記していろんな図書館や古本屋をわたり歩いて探した。それも楽しかった。由良の知識のほんのカケラ程度だろうが、それはある少年にしっかりと伝わった。
70〜80年代の博覧強記というと、澁澤・種村・由良がそれぞれ仏・独・英を代表していた感じがある。高校生になると文学少女なんかは作家は三島/学者は澁澤好きという子が多かった。澁澤はだいたい読んでいたけど雑学以上のものと思えず、しかたなくサドの話だけしたものだ。僕は種村、由良は継続的に読んでいた。『先生とわたし』ではじめて得心がいったのが、由良の父がハイデッガー哲学者であり神秘主義的なナショナリストであったということだ。
由良君美が単なる博覧強記の整理屋でない点を僕の感想として言おう。それは、英文学者であるにもかかわらず、フッサール〜ハイデッガーの根本的なところを押さえているということだ。それも、危機の文脈(ファシズムとの近親)において押さえている。ここに重要な岐路がある。彼は哲学者のように存在論にはいかない。むしろ見ること/読むことにおいて哲学を押さえる。フッサールにおいてはおそらく像主体/像客体の多層性、間主観性。そしてハイデッガーにおいては言葉において言葉を語ること。どういうことかというと、両方とも世界をいかに把握するかということなのだが、生の世界(フッサールなら生活世界、ラカンなら現実界)は人間には把握できない。人間が世界にタッチできるのはあらかじめブレた認識や言葉によってのみなのだ。ここで、フィクション(文学)は単なる教養やお遊びではなく、人間が世界に対するための命がけの行為となる。フィクションの批評をその虚しさに至るまで徹底的にやったのが後期ハイデッガーだ(ヘルダーリン、トラークル、リルケ)。由良は英文学者なのにその解読を相当丁寧にやっている。やらざるをえなかった。父は世界に対した時、存在論の深遠に飛び込み闇にとらわれてしまった。子は、その縁まで行き、深遠を覗き込み、その上を言葉で綱渡りしていくことを選んだ。おそらくは父の乗り越えなのかもしれない。したがって、その道行きが世界をフィクション化するメタフィクションにたどりつくのは当然である。そこからド・マンやデリダの脱構築にたどりつくのもまた当然である。また、だからこそ、18、19世紀(ロマン派)から20世紀前衛への流れと断絶をも根本的なレベルで把握できていたのだ。ここのところは彼以降の世代の、ポンと脱構築から入った連中には欠けている教養というか、内的な動機でもあるだろう。ええと、つまり由良って人は単なる博識な学者で終わってないんではないか、ってこと。あえてきちんとまとめないけど、ちょこっとだけ先生への恩返し。

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