ハイデッガーにおける「故郷」のダブ性は、そもそも存在論的差異に到達した時点で語られていたことを、トポロジー/クロノロジーとして語り直したものではないか。「存在者(存在するもの)」と「存在(存在すること)」は異なるのだが、形而上学はこれを混同してきた。ハイデッガーの(超)形而上学はこれを乗り越え、表象されたものとしての存在者(ピュシス)ではなく、存在そのものを直接問う。つまり、故郷=存在者であるが、故郷そのもの、存在者そのものをその同一性のうちに問うても不毛なのだ。存在への問いは「彼方(メタ)」を目指す。故郷=存在者から異郷=存在を目指す彼方(外部)への跳躍がその差異を開き、そこでまなざされた「無」によって逆説的に彼方の「存在」にまみえる。
ハイデッガーの「故郷」への問いは、あたかも「故郷」を単独で顕揚するがごとく語られていくが、それは二重の語りであり、まさしく「故郷」を脱構築する異郷=彼方への運動が見い出されていく。異郷が無くなったとき、同時に故郷も無くなる。異郷とは、たとえばユダヤのはずなのだ。
*
ハイデッガーの「無」とはフロイトの「無意識」ではないか。それはどこかの深奥に隠されているものではない。いつでもここにあり、人間を、皮膚をおおう見えない皮膜のような、断絶。
*
イメージは、「類似」を引き寄せる。人間の器官は感覚運動的な現動イメージの連鎖=文脈によってしか世界を把握することができない。類似が同一性のエコノミーを演繹しつづける。「故郷」をより懐かしく安らいだ大きなそして美しい同一性に循環させるべく類似を加算していく。そこでは切り返しショットは差異を抹消する類似の量産となる。無を見ないこと。外部を捨てること。これこそが「地獄の生成変化」である。
*
詩人は意味を語るのではない。言葉を語るのだ。なぜなら、言葉とは他者(彼方、異郷)だからである。詩人が異郷をかいまみる理由はここにある。同様に、シネアストは意味を映すのではない。直接的なイメージそのもの、光学的音声的なイメージを映すのだ。
*
ウェルズにおける「偽なるもの」は、クロソウスキー=ベンヤミンのシミュラークルである。それは同一性をつなぐ類似の鎖を、時間の箍を、内側から爆破する。
*
「彼方」とは、「異郷」とは、「外部」とは、別の世界のことではない。この世界のことである。この世界にブレを見いだすこと。ここ「と」よそ。
*

0