ハイデッガーについて、いまだ汲み尽くされていないのではないかと思っていることがある。わかりやすく説明するのはむずかしいのだけど、一言でいうと、まさに「故郷」についてのことなのだ。この件に関してはハイデッガーはたいへん評判が悪く、およそ良識的な知識人はみな批判することになっている。なぜなら、それがナチス関与問題とかさなっているからだ。哲学による故郷の聖化、ゲルマンの大地の根源化、それはファシズムを基礎づける・・・だが、あまりにも単純に読まれていやしないか?
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この問題系についての、わかりやすく野心的な本が西谷修『不死のワンダーランド』だ。レヴィナス研究者である西谷は、人間の<死>が第二次大戦から現代にいたるなか、技術が人間を追いこしてしまうことでその固有性を欠いていく過程を、レヴィナスとハイデッガーの思想を対置させることで描く。僕は、西谷については、加藤典洋と高橋哲哉の論争において加藤におもねりレヴィナスを悪用した件を許さないので現在の彼はどうでもいいが、この本だけはおすすめ。
さて、ハイデッガーは技術が人間を追いこしてしまった結果、大地からもぎ取られ、根を無くし、存在の本源を忘却するという無気味な事態が起きていると憂慮する。この「無気味」ということがキーワードだ。1935年の『形而上学入門』からクローズアップされるその概念は、ソフォクレスの『アンティゴネー』において見いだされる。コロスによって歌われる「人間以上に<デイノン>なものはない」という<デイノン>に、unheimlich(無気味な)という訳語をあてるのだ。彼にとって、2400年ほど昔のギリシャの天才は、いまだ「存在の言葉」を聞き取ることができたはずで、さらにコロスの合唱とは地に根付いた共同体による存在の運命の告知であったということになる。西谷は、なぜ<デイノン>がunheimlichでなければならなかったかを考えていく。unheimlichとは、Heimat(故郷)から派生したheimlich(心地よい、安らいだ)の否定型だ。つまり、故郷とは僕らにとって見慣れた安心できるものであって、その反対である非−故郷は見慣れぬ・不安をかきたてる「無気味」なものであるということだ。
ドイツ語のHeimatについては以下のWikipediaも参照のこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/Heimat
やがてあきらかとなるのは、その訳語は恣意的なものであり、ハイデッガ−自身の意志が宿されているということだ。現代の人間が存在の本源から追放され根無しとなっていること、それをギリシャのテクストにおいて基礎づけてしまう。そして、
「そこには、根の生いる安らぎと充実の「故郷」があり、そこから離脱していってしまうのが人間の運命ではあるが、だからこそ人間はその故郷に連なっていなければならない、つねにその故郷を反復しなければならないという、かならずしも退行的ではないが基本的にノスタルジックな思考の性向が込められている。起源に回帰することが主張されるのではない。そうではなく現在に起源を回帰させること、現在を起源の反復たらしめそのようにして起源との結びつきを回復することが主張される。現在はつねに起源によって、「故郷」によって充実をえなければならない。」(西谷)
西谷は、unheimlichの「故郷にない」ことを「異郷にある」と言い換え、ポジティブな批判を展開する。「異郷」の見慣れなさを不思議さと読み換え、wunderという訳語を提案するのだ。これはもちろん英語のワンダー、不思議なもの、驚くべきもの、そしてワンダフル・・・つまり、異郷において未知と出会うことを故郷喪失の欠如としてでなくむしろ肯定しようということだ。
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なるほど、それはすごく魅力的な転換に思える。
しかし、僕はハイデッガーの「無気味」はより暗く深いと思う。
西谷は言及していないが、ナチズムとの関係ということでは、共感を寄せていた突撃隊の粛正そしてフライブルク大学総長退任の1934年に切断がある(もちろんシュピーゲル誌インタビューの本人の言い訳を鵜のみにするわけにはいかないが、ニーチェ論などを見てもその思想の変化はあきらかではないか)。『形而上学入門』はその翌年35年夏の講議である。さらにHeimatの思索はつづけられ、1942年春から夏にかけての講議『ヘルダーリンの讃歌「イスター」』ではソフォクレス読解がほぼ反復されているのである。つまり、Heimat=「故郷」の問題は単純なファシズムへの接近と重ねては語りきれず、それどころかファシズムとの決別および抵抗の過程で深化していっている。
重要なことは、『ヘルダーリンの讃歌「イスター」』のソフォクレス読解が、ドイツの詩人ヘルダーリンの詩およびそのソフォクレス翻訳を通じておこなわれるということだ。ハイデッガーは、古代の天才から後代の天才への「影響」という単線的な因果関係・史学を排除する。それは時空を超えた「対話」なのだ。ここに奇妙なゆらぎ、奇妙な二重化が生じる。単にドイツの権威づけのために古代を利用するという戦略以上の無気味さを感じる。そもそもソフォクレスの詩はいかに訳されていたか。それは「人間以上に無気味=heimlichなものはない」である。この無気味には、すでに見たように、故郷が無い・根が無い・安息が無い、という含意がある。人間の本質が、故郷なき根無しだというのだ。それを、西谷ら多くの哲学者たちのように、いまここに起源を回復させるためのファシズム装置なのだと主張することは本当に妥当なのか。むしろ逆に、ここで人間は、古代ギリシャにしてすでに故郷なき者として苛烈にその本質を発見されているのではないか。
「故郷のものは常に、故郷ならざるものに引き入れられている。故郷ならざるものが、故郷のもののなかに現前する形において、引き入れられているのである。」
「この、休けからぬものにおける滞留、休けき故郷に住もうてはいないこと、それはなにも、あてどないさまよいの単なる結果として初めて生ずるわけではなく、またただ冒険的なるものにおいてのみ成り立っているわけでもない。休けき故郷に有らざることとは、故郷のものからの単なる離脱ではなく、むしろ逆に時として自身知らずして故郷のものを探し求め、探し出そうとしていることなのである。この探索は如何なる危険をも冒険をも厭わない。至る所彼方へと、それはわたりゆき、至る所遠き彼方において途上にあるのである。」(「イスター」講議)
戦局が悪化するなかで、なにか異常なことが語られようとしている。ここでは、「故郷」はもはや安らかで居心地のいい根源ではない。僕らの来歴と価値を保証してくれる大地ではない。ソフォクレスがヘルダーリンとダブらされているがごとく、故郷と故郷のなさもダブっている。故郷においてすら故郷ならざるものが引き入れられてあり、さらにそれは故郷のものを彼方に探し出そうとする「途上」の動きなのだ。つまり、「故郷」はあらかじめある絶対的な深部などではなく、その内に動きを宿したズレとしてある。これのどこがゲルマンの聖なる大地だろうか?美しい日本だろうか?
もはや、故郷か異郷か、ではないことがわかる。故郷も異郷なのである。故郷ニシテ異郷なのである。無気味なのは僕らそのものなのである。無気味であること(故郷なきこと)を引き受けたときのみ、僕らは故郷を見つけられるのかもしれない。
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このあたりが、僕がファリアスはもちろん、ラクー=ラバルトのハイデッガー批判や、あるいはナンシーやリンギスらの共同体論にいまひとつのめりこめない理由でもある。加藤や高橋、西谷や内田樹などの一連の論争も、ハイデッガーのカウンターとしてのレヴィナスをもてあそぶだけでハイデッガーの「故郷」すなわち同一性の問題をあまりにも単純にスルーして成り立っている気がした。
史上もっとも危険な哲学者を擁護するのではない。
その可能性の深部をさぐるのだ。無気味の闇をはいずりまわるのだ。
あるいはより徹底的な批判のために。
おそらく読み返すべきなのはデリダ『精神について』だ。「精神」という語がハイデッガーの思考に出入りするとき、そこにロマンチシズム=ファシズムへの感染の危機を見てとろうとする試み。ここで重要な指摘は、ハイデッガーが精神は炎であると言明するなかで、その語源をギリシャに見、さらにその根源をドイツ語へと移植していくということだ。ここにもギリシャ−ドイツのダブがある。そのまなざしを上記のような「故郷」論の読み替えと平行させることで、ダブのゆらぎにおいてむしろ「精神」を解体することができないか?
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6、7年前の夏、新宮を訪れた。中上健次が「路地」を撮影したフィルムが見つかり、青山真治が『路地へ』というドキュメンタリー映画を上映するというので、中上を記念して開かれている熊野大学に見に行ったのだ。上映まで時間があったので、中上が撮影したという路地のあたりをぶらついて、アイスキャンデーをなめた。婆さんがいて、猫がいた。
僕は新宮から海沿いに北上する尾鷲という港町の生まれで、熊野のなかでも新宮に匹敵するくらい影が濃く磁場が強いところだ。曾祖父までは町有数の金持ちで、見渡すかぎりの山を持っていたとか。ルーツのひとつが伊勢神宮の巫女らしく、女たちは霊能の血を受け継いでいたという。かつては漁師たちが大漁祈願とシケに遇わないよう祈ってくれと土間に押し寄せたそうだ。いまは実家はなくなってしまった。
中上の小説だと、実は『日輪の翼』が好きだったりする。「路地」が開発され、立ち退きを迫られた老婆たちが、若者たちが運転する冷凍トレーラーの荷台に乗り込んで流浪の旅に出る。それで日本各地の聖地を周るんだ。「路地」の根源は、「故郷」はあるのか・・・映画?『路地「へ」』というのが好きじゃなかったな。
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京都好き、沖縄好きの女の子から嫌われるだけで、なんの整合性も生産性もないメモになってしまった!ただ、「京都」や「沖縄」を単に「ワンダフル」なものと見てしまうのは、自分がいる場所/いない場所を二択にして、そのどちらかを見ない態度につながると思う。そして片方しか見ないことで、その選んだ方も歪んだ見方でしか見えない。たとえば加藤典洋−西谷修の「外国に謝罪する前にまず主体を立ち上げよ」という主張は、見かけ上、自民党の『美しい国「へ」』と変わらない。もう外国は見えないし、自分たちが立っていると信じている地面もいつのまにか歪んでいる。故郷ニシテ異郷、あの性悪な哲学者のことを、僕はもうすこし考えてみるつもりだ。知らない場所はワンダーだ。でも、ワンダーランドもまた途上にある。
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