円城塔『Self-Reference ENGINE』が絶賛されていますね。たしかにいいけど、樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』と併読すべきだと思う。この二冊がほぼ同時に出てきたことがすごいし、テーマもどこか相補し合っているところがある。カチっとしたのとズルっとしたの。読みたがっている人もいるので、まえに後者について書いたメモをこちらにも転載しておきます。批評でもなんでもないけどね。
*
The Jesus & Mary Chainがどうして信じられるバンドだったかっていうと、それは彼らがけっして「狂っちまった」とか「魂を売っちまった」とは歌わなかったからだ。じゃあなんて歌ったかっていうと、「僕は半分狂ってる」とか「魂を売る気はないけど、半分ならいいよ」という感じなんだ。
じつのところ、「狂気」でいるか「正気」でいるかなんて、あっさりしたものだ。すっかりどちらかでいられるのなら、何が問題だというんだ?本当の問題は、「狂気」でありつつ「正気」であることだ。「僕は半分狂ってる」とは、軽度に狂ってるという意味ではなく、時折狂うという意味でもなく、いまここで同時に「狂気」であり「正気」であるということだ。いまここで同時に、魂が満ち/魂が無い、それこそが問題なのだ。
だから、彼らの名前はああでなくちゃならない。84年当時はイエスとマリアの近親相姦を暗示すると非難され、レコードのプレスを拒否されたこともあった。でも、そうじゃない。たとえば、60年代のポップスが持つ甘いメロディー。たとえば、70年代パンク/インダストリアルが持つ苦いノイズ。80年代、もうすべての文体は書き尽くされてしまったと誰もがうなだれるテレビ色の空の下、彼らはあっけらかんとその二つを同時に鳴らしてみせた。どちらか一方であることが問題なのではない。だから、彼らはイエスとマリアをむすぶ「絆(chain)」を名乗る。かけがえのない何かと、かけがえのない何かを、いまここに同時にあらしめるために。
*
第8回日本SF新人賞を受賞した、樺山三英の『ジャン=ジャックの自意識の場合』は、ちっともSFっぽくない変な小説だ。登場人物たちも、その内面と世界も、奇妙な相補関係を、二重化をこうむっている。だから、その文体は、その形式は、必然的にとても「変」なものとなる。
物語は、孤児たちを集めた孤島の実験施設からはじまる。語り手「ぼく」はその孤児の一人。施設の長である「パパ」の娘、美しい少女「アンジェ」は、ある日「ぼく」をトイレにつれこみ、スカートをめくりながら、言う。
「女の子のおちんちんは、お腹のなかについてるの」
**
「書くためにすべてを経験しているのではないか、というような感じさえ起って苦しめられるにしても、書くことが生まれながらのTrieb(本能)なら、それが自分の生きていく形式の一つなら、正々堂々と書こうではないか。「小説をこしらえる」のではない。「文学する」のではない。単に呼吸するに過ぎないのだ。」
-神谷美恵子『日記』より-
生きることがそのまま書くことに重なってしまうような、そんな事態。ところで、ここでは、どちらかが人生でどちらかはそうでないと、はたして言いえるのか?その分断において、「呼吸」することなどできるのか?
***
ジャン=ジャック・ルソーは、のちのフランス革命にも影響を与えた18世紀を代表する社会思想家だが、同時に、ほとんど異常とも思える自己言及を生涯にわたってくりかえしている。『告白』は、人生を文字にしようという途方もない試みであるが、そこでルソーは書くほどに自分が分からなくなる感覚に幾度となくとらわれ、躓き、なお書いていく。「自分」があらかじめあって、意気揚々と「自伝」を書くという生やさしいものではない。書くことそのものにおいてかろうじて自分の輪郭が立ち上がっては、また崩れていく、むしろその危機が描かれる。
ところが、それを書ききったところで自分が完成されるわけもない。むしろ、その自己言及への強迫反復は加速し、死の直前まで続く。晩年の『孤独な散歩者の夢想』は『告白』の相補、その嘘の真実化という強迫であり、『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』ではついに自らを分裂させて自分自身の生涯が嘘か真実か裁きはじめる。こうなると、むしろ彼を有名にしている社会思想のほうが、その自己言及の相補として生み出されているような錯覚すらうける。さらには、ある孤児の成長を想像し、教育論を展開する『エミール』すら、遡及的に可能態としての自分自身を描いているのではないか・・・
****
少女アンジェの言う、「女の子のおちんちんは、お腹のなかについてるの」は、同時にこう言いかえることができる。「男の子の膣は、お腹のまわりについているの」。これが、小説『ジャン=ジャックの自意識の場合』の重要なメタファーとなっている。「ぼく」の「おちんちん」は、はたしてそれ自体としてあるのか、それとも「お腹のまわりについた膣」(=つまり、世界すべて)の相補としてあるのか。
「ぼく」の語りに、ときおり「パパ」が書く手紙がはさみこまれる。手紙の宛先は、「J・D」。どうやら「パパ」の古い知り合いみたいだ。
しだいにあきらかになるのは、「パパ」が、「ジャン=ジャック・ルソー」その人であるということだ。それが、妄想であるのか、幽霊による憑依であるのかはわからない。むしろ、それはどちらでもいい。問題は、いまここで自分とルソーが同時にあるということそのものだ。
手紙の宛先も、「パパ」の妄想なのか、住所すら書かれることはない。しかし、「J・D」は、いる。「ジャック・デリダ(J・D)」として、「ジェローム・D・サリンジャー(J・D)」として。くりかえす。どちらか一方であることが問題なのではない。かけがえのない何かと、かけがえのない何かを、いまここに同時にあらしめること。
*****
ルソーの偏執的な自己言及に注目したのが、20世紀の哲学者ジャック・デリダ(J・D)である。その『グラマトロジーについて』は、ほとんどルソーの読解にあてられている。ここでデリダが主張していることを、「パパ」は手紙で的確に要約している。
「ジャック・デリダは『告白』という書物が、ジャン=ジャックの生身の人生の、その代理物であったことを指摘している。と同時に、まず実人生があって、そこから書物という代理物が派生する、という考えの順序を批判している。これは高度に複雑な作業だ。自伝は人生の代理である、と、同時にまさにその代理作用から、実人生という起源が作り出されている。直接的な人生と、それについて書かれた言葉は、いわば同時発生しているんだ。他でもない、書くという行為を媒介にしてね。直接性とは派生したもののことだ。いわばすべては中間から始まるのだと、デリダは指摘している。」
******
J・D・サリンジャーは奇妙な作家だ。1951年、『ライ麦畑でつかまえて』で脚光を浴び、世界中でベストセラーとなるも、自分自身は隠遁し、けっして表に出ようとしなかった。
『ライ麦畑でつかまえて』は、ホールデン・コールフィールド少年が語る。ところが、冒頭から、彼は病院に入院させられていることが示されている。つまり、すべては、ホールデンの、嘘か、妄想かもしれないのだ。ここには、小説というフィクションのうちに、すでに「自分で自分を語る」という構造が容れ子となって存在している。「自伝は人生の代理である、と、同時にまさにその代理作用から、実人生という起源が作り出されている。」
さあ、僕自身、立ち上がり、本棚を探してみよう。サリンジャーが一冊見つかった。1965年の、『ハプワース16 一九二四』。彼の小説のなかでも、もっとも読まれていないものだろう。「グラース・サーガ」と呼ばれる、とある天才家族をめぐるシリーズの後期の長編だ。
シーモア・グラースは、グラース家の長男であり、家族の中でもつきぬけた天才だった。誰にも理解されなかった彼の最期は、短編『バナナフィッシュにうってつけの日』に描かれている。ある夏の日、シーモアは一人、海水浴場へと出かける。彼は少女と、海で遊ぶ。そして彼女に、バナナフィッシュという奇妙な魚のことを教える。やがて、一人ホテルへ帰り、死ぬ。
病院のベッドで、一人、語り続けるホールデン。
そして、一人、語ることのなかったシーモア。
一人、その間で書き続けるサリンジャー。
*******
「ぼく」と「アンジェ」は、やがて孤児院から、「パパ」のもとから逃げ出す。物語は、閉ざされた学校の物語と並行し、やがて「ぼく」と世界との関係があきらかにされる。ここで語りはほとんど崩壊していく。ここで世界はほとんど崩壊していく。一人、海を放浪する、「ぼく」。
ここで重ねられているのは、おそらくはミシェル・トゥルニエの小説『フライデーあるいは太平洋の冥界』、およびそれについてのジル・ドゥルーズの評論である。後半の崩壊の過程は、フライデーの登場による崩壊の過程と重なっている。この小説は、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を逆の立場から書き直したものだ。相補スルコト。無人島に残されたロビンソンは、「他者」を無くす。他者無き世界で、彼は一人秩序を作り直し、やがて無人島そのものと一体化する。意識と対象の一体化(=「パパ」のやろうとしたこと)。そこに、フライデーが現れる。無邪気に、ロビンソンの世界を破壊するフライデー。
「ロビンソンは何度もこの問いを自問する。初めて、ロビンソンは、彼を苛立たせる粗野で愚鈍な混血児の下に、他のフライデーの可能的実在をはっきりと垣間見る。洞窟と渓谷の発見のずっと前から、管理された島の下には、他の島が隠されているのではないかと、かつて思っていたように。」(トゥルニエ)
「世界が他者の不在によって混乱させられるのではなく、反対に、他者現前によって世界の栄光の分身が隠されていることが見出されるのである。これがロビンソンの発見である。表面の発見、元素的な彼方の発見、<他者の他なるもの>の発見である。」(ドゥルーズ)
「女の子のおちんちんは、お腹のなかについてるの」(アンジェ=天使)
ああ、そうだ。念のため言っておこう。「ぼく」によりそうこの天使は、まちがいなくベンヤミンの、「新しい天使」をイメージして召還されている。
********
トゥルニエ自身がフランスとドイツに引き裂かれた作家であることも述べておこう。ナチスの下、少年少女を誘拐する長編『魔王』はその意味でトゥルニエの自伝である。そして、彼の書く小説はすべて、そうした自分の過去、先行する小説へ、二重化を差し向けている。
『ロビンソン・クルーソー』のダブとして書かれた『フライデーあるいは太平洋の冥界』、それをさらにダブとして引き入れるということ。
*********
『ハプワース16 一九二四』の一頁目を開いてみて驚いた。シーモア・グラースが死んだのが、僕自身のいまの年齢と同じだという。
僕はシーモアが死んだ年齢になった。 奇妙な感じだ。彼はもっと若くも思えたし、もっと年寄りにも思えた。はたして、いまの僕は、海水浴場に出かけ、少女と戯れて、バナナフィッシュを見て、終わりにするだろうか? うん、それはまったくありうる選択ではある。僕はまったくシーモアだ。しかし同時にシーモアでない。つまり、最初から、彼は僕のありうべき可能性だった。そして、僕は別の可能性を生きる。僕は彼のありうべき可能性だからだ。そうして、互いを互いに送り返し、人生を折り返すのだ。まもなく僕にもバナナフィッシュにうってつけの日はやってくるだろう。
**********
「『あなたは誰?』そいつは答えた。『・・・・・フライデイ』」
ハロー、フライデイ。
わたしは明晰に狂気であり、同時に、明晰に正気である。
かけがえのない何かと、かけがえのない何かを、いまここに同時にあらしめるために。

0