『トゥモロー・ワールド』について追記。
思い出したのは、赤ん坊のこと。通常ならば赤ん坊は「救い主」なのだけど、処女懐胎はまさにジョークとして切り捨てられて、おおぜいとセックスした彼女は誰の子かすらわからない。「誰の子か不明」「妊娠した理由が不明」は、実は表面上、処女懐胎と区別がつかない。それらは表裏一体の現象なんだ。この唯一性から偶有性への跳躍はとてもすばらしい。不妊の原因/妊娠の理由をあきらかにしてしまえば、そこには超越性が生まれ、同時にそれが内部化されてしまう。この偶有性こそがまさに「明日」への「鍵」(母親の名は「キー」)という訳だ。
この映画はアップを忌避するがゆえに同一画面上の奥行きのなかでいろんな情報処理をしているから(例えば細かいところだと政府管理区のドライブショットで画面背景の公園にプードル犬を一瞬映すことでブルジョワのエリアだと示したり、従兄弟の仇として主人公を付け狙う男は画面奥であっさりと撃たれていたり→復讐劇というドラマツルギー特権の排除)、見逃したことや忘れたこともたくさんあるだろうな。DVDで見返してみよう。
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ところで、僕はこれを観ながら、ある映画のパクリかなあと思っていた。
その映画とは、ロバート・アルトマンの『クィンテット』(1979)。SFで、未来の地球では人類が子を産めなくなり、前半でヒロインが死に、後半は市街戦、ということまで同じ・・・オマージュだったら本当にすてきなんだけど、そんな訳ないだろうな。アルトマンはこれを”『スターウォーズ』に対抗する”とうそぶいていたそうだ。低予算で、話は暗く意味不明、SF的なガジェットはほぼ皆無、寒々しい後味、日本未公開。僕にとっては人生観を変えられた一本でもある。
中学生の頃、十数軒のレンタルビデオ店の会員になって、棚単位で観ていた。場末の店のSFコーナーの片隅にあったのが『クィンテット』だった。のっぺりした画面、乾ききった演出、突きはなした説話−なんだこれは!?あきらかに他の映画と異質だった。消化しきれないなにかが内臓でするどい棘を伸ばしはじめた。アルトマンという名を忘れられなくなった。以降、手当たり次第に観たすべての作品が衝撃だった。
『クィンテット』もまた、よりハードコアに超越的なものを否定する映画だ。映画というフィクション、それもSFというフィクションの最たるものの中に、さらに殺人ゲームというフィクションを持ち込むことで、この世界そのものがゲームでありフィクションであることをあばいてしまうのだ。登場するゲームの「審判」は、ゲームの、ルールの、その勝者の超越性を称える。それに対し、ポール・ニューマン演じる主人公は峻厳に拒否する。このラストシーンはいまも僕の感性の触覚を震わせている。
マイナーすぎてカルト映画にすらなっていないし、残念ながら今度のぴあフィルムフェスティバルでのアルトマン特集でも選にもれている。どこかで見かけたら、ぜひ。
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で、くだんのアルトマン特集上映で周りも盛り上がっているが(なんせ『バード★シット』『ナッシュビル』『ジミー・ディーン』『三人の女』だから)、遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場にて』をみんな理解しているのかなあという懸念をずっと持っていたので、ここでメモ。ネタバレあり。
まずアルトマンの冠詞となっている”群像劇の巨匠”だが、いったいなぜ群像という様式が要請されるのかがきちんと問われたことがあるのだろうか。それこそ『クィンテット』なんかを観ていないと解けない問いだと思う。アルトマンの根底には、けっして逃れることができない「枠」としての世界への抵抗がある。僕らはゲームのコマ、プレイヤーとしてそれぞれの「枠」の内でもがくだけだ。群像とは、ゆえに、ゲーム盤上のコマたちなのだ。そして、アルトマンはいつだって、そのコマの誰かが、ゲームそのものを突破することに賭けている。「枠」の内の何かを特権化し超越性を与えるのは、自分がその内部にいることを知らないあやつり人形のすることだ。だから、カメラワークと音声ミキシングは共に、超越性/同一性への力能を峻厳に回避するものとなる。特権的なアップは忌避され、クレーンカメラがそれぞれのコマたちをたゆたい、「決意」(サイを投げる・マスを進む)の瞬間にゲーム盤からコマへのズームインが起きる。それは肯定的な力学にも転化しうる。超越的なものを排除した空間では、コマたちの対話はあらかじめある共通理解(同一性)を前提とせず、むしろ対話によって共通のものを互いの内に産出していく。その共振はさざなみのような小さな亀裂をゲーム盤(世界)に与えていくだろう。
そして、『今宵、フィッツジェラルド劇場にて』。
豊穣だの祝祭だのなまぬるい賞賛の声ばかりが聞こえてくるが、同時にそこにある恐ろしさに目をつむってしまうのは、重要な存在である「死の天使」への理解の足らなさにもつながる。漫画家・木城ゆきと(『銃夢』)ですらハンス・ヘニー・ヤーンを引用しているのに、シネフィルは教養が無いのだ。天使には神聖と不吉の両面がある。天使は超越的なものとつながってはいるが、この世界では無力だ。その姿は傍観者にしか可視的でない。どれだけ美しい瞬間があろうとも、どれだけの想いがあろうとも、天使が助けようとも、運命を止めることはできない。皆の愛するフィッツジェラルド劇場は終わる。すべてはとりかえしがつかない。ゲームの流れを止めることはできない。
そして年月がたつ。かつての仲間たちが集まるが、かけがえのない時間は過去となっている。あの娘も変わってしまった。そこに、死の天使がおとずれる。そして、彼女がスクリーンをおおった瞬間、とてつもないことが起きてしまう。映画にしか、アルトマンの映画にしかなしえない、奇跡が起きるのだ。ここで流れる映像は、エンディングのベストシーンセレクションなどでは断じてない。死の天使の訪れによって、仲間たちに、ゲーム盤に、カットという名の亀裂が入り、時空は飛び、劇場は甦り、歌声が世界をつつむのだ。この現象を<新生(VITA NOVA)>と呼ぶ。過去は死んでいない。あなたは新生する。世界は突破できる。このシーンは、跳躍を認めるか否かを観る者に突き付ける、猛烈におそるべきものであり、同時に、圧倒的に限界を超えた愛によって撮影され編集されたものなのだ。アルトマンを観るという行為は、このような世界に空いた亀裂を前にさせられるということだ。
「新しい天使は、一度存在し一瞬歌ったとしか、それは取り消せないとしか語ることができない。この瞬間はあらゆる継続が崩壊する特異点である。この瞬間が開かれを産み、開かれは閉ざすことも満たすことも繰り返すこともできず、再生の輪から自由である。何も所有すべきものがないこの哀れな瞬間の自由がわれわれに与えられた。あらゆる天使のなかでもっとも年を経たもっとも若い最後の天使、新しい天使は、その地点にわれわれを導くのである。」
−マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』−

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