『思想』7月号掲載の平倉圭『識別不可能性の<大地>』を読む。
ドゥルーズ『シネマ 2』への批評。たいへん野心的でクレバーな論だ。ごく乱暴にまとめると、ドゥルーズはイメージの領域に耐えきれず言葉の領域へと逃亡している、という批判となる。
一読したかぎりだが、僕は受け入れることができない。おそらくは根本的な「時間」の把握について。具体的には、たとえば、批判の軸としている、ドゥルーズのゴダールに対する「裏切り」なるものについて。後者のみざっと指摘すると、ドゥルーズがゴダールに対して「間隙」と指摘するところを平倉は「類似」と見てとる。しかし、ドゥルーズはそれをふまえた上で「間隙」ととるのではないか。「類似」を「地獄の生成変化」と呼び替えてゴダ−ル映画の全般に出現するものとし、それが現代映画における不可避的な現象だとしてしまうことは、なにか致命的なニヒリズムへの墜落を感じる。『アワーミュージック』をあなたはどう見たのだと詰問したくなってしまう。あそこで徹底して問われたのは、「類似」における「間隙」を見てとれ、その「差異」においてショットを切り返すのだ、という倫理ではなかったか。
時間ができ次第、もうちょっとくわしく書いてみます。

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