マルレーネ・デュマス展を見てきた。まとめてこの画家を見たのは初めてだったが、いい加減な作品がひとつもないのに感心した。彼女の絵は、まぎれもなく”複製技術時代の芸術”だ。上映されていたドキュメンタリーも観なかったし、発言を読んだわけではないので、制作手法の詳しいことは分からないが、そこにはくっきりと二重化のプロセスが顕れている。作品の多くはポートレート(これから述べることはその実ポートレートだけに限らない)なのだが、そこにおける顔、なかんずく<まなざし>は、通常の絵画のそれときわだって異なる。これは想像だが、彼女は意図的に、作品を、写真や広告や漫画やテレビや映画、すでにして複製されたものを元にしているのではないか。
ポートレート写真は、撮影の瞬間こそ撮影者とモデルとは一対一のまなざしの関係にあるが、それが「見られる」ものとなった途端、無限の複製・不特定多数による鑑賞へと開かれる。では、そのとき、モデルの顔は、モデルのまなざしは、誰を見ているのか?何に向けられているのか?
僕は職場に向かうとき、渋谷のスクランブル交差点を通る。その頭上には三つの巨大スクリーンが設置され、ときには同じ広告の、同じ女優の顔が映し出される。何百人の歩行者たちは同時にそれを見つめ、顔は彼らひとりひとりを見つめ返す。むろん、女優は自分を見つめるカメラが、カメラマン個人のものだとは思っていまい。そこにファンたちを、世間を、またお金と欲望の渦を見ていたのかもしれない。あるいはただ自分の顔を完璧な仕事として断ち−あげただけなのかもしれない。それを見る僕たちは、奇妙なことに、その顔を、自分自身に向けられたものであると同時に向けられてはいないものとしてまなざす。映画のスターたちの顔のアップも同じだ。見られているのに見られていないもの。僕たちは平然とそれらの顔にまなざしを向ける。奇妙なまなざしの交換に寄与する。
デュマスは、そのような既に無限複製されたまなざしを、ある意味で再び複製する。彼女は見事なデッサン力でその複製−顔の芯(特徴)をとらえる。その意味で、その絵は既成の複製のさらなる複製なのだが、”複製を本物のように描く”のではなく”複製を本物としてとらえ描く”。つまり、複製にはたしかに虚しいまなざしがさまよっているのだが、どこかにオリジナルや本物の人間らしいまなざしがあるのではなく、その虚しいまなざしこそが、いまこの世界における人間のまなざしなのだ。彼女の絵はそうなっている。これこそまさにアイロニーである。アイロニーの真理とは、皮肉や否定などではない。二つのモノが互いを否定もせずかといって止揚もせず、からみあって併存することだ。見られているのに見られていないもの。これらの絵は、アイロニーの真理において美しい。だから、彼女の絵は複製の肯定の実践である。これは単純なことではない。複製された顔をまさに複製されたものとして(複製されたという事実において)救出する試み。その途端、顔はキャンバスにあたってはじける。にじむ。溶けだす。風景は書き割りとなり、記号や落書きが画面を飛び散る。展覧会は「ブロークン・ホワイト」と名づけられ、それは荒木経惟の写真を元にした作品からなのだが、人間の本物らしさ・センチメントを写真に刻みつけようとやっきになる荒木に対し、デュマスの「複製」はそれを峻厳に・微塵の容赦もなく<砕け散った純白(=つまり、人間)>として置き直す。
デュマスは形の秘密をつかんでいる。これから先は後期ムンクの、狂気の境地だ。対象からはみだした余剰こそが主人公となる。形を自ら創るのだ。

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