(前回の続き、過去のメモより転載)
ある本を紹介する。
2008年のはじめに刊行された、70歳の日本人研究者が紀元前4世紀ギリシャの伝説的な哲学者について書いたものだ。
山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』
(講談社現代文庫)
哲学者ディオゲネスとは誰か。
たとえば以下の伝説をどこかしらで聴いたことがあるのではいだろうか。
樽のなかにボロをまとって暮らしひとびとから犬と呼ばれたという。 アレクサンダー大王に欲しいものはあるかと問われ、 ひなたぼっこをしたいので日差しをさえぎるそこをどけと答えたという。 昼間にランプを灯して「人間はどこにいる?」と叫び歩いたという…。
山川は、そのような伝説にくるまれたディオゲネスの実像に迫ろうと、そのはじまりに眼を向けた。ディオゲネスは現在のトルコは黒海沿岸の町シノペ(当時はギリシャ系植民市)で貨幣鋳造局の長のような地位にあったらしい。伝わっている逸話によれば、彼はデルフォイの神託により貨幣の偽造を命じられ、それをおこない、露見し、町を追放されたという。
山川はみずからシノペまで出かけていき、現地の博物館にのこされた当時の貨幣を調査する。その結果、ディオゲネスの偽造という行為は、シノペを支配下に入れつつあったペルシャ勢力の経済撹乱のための”反抗”だったのではないかと推理をめぐらす。
ここで本書全体をつらぬく重要な概念、
「パラハラッテイン」が登場する。
この語はもともとは貨幣が混ぜ物などの偽造行為がなされていないかテストするために傷つけて中身をたしかめる行為をさすもので、転じて偽造することそのものをさすようになった。すなわちディオゲネスの罪は貨幣を「パラハラッテイン」したことだった。
さて、このシーンでは山川だけでなく、
僕の空想も入れさせてもらおう。
故郷を追われたディオゲネスは荒野をさまよっている。 つきそっていた奴隷も故郷放逐者となった彼から逃げ出した。ひもじかったろう。こごえたろう。幾多の危険に遭ったろう。
ペルシャに対抗しようとした行為によりギリシャ系住民から嫌われた。 いったい、国だとか民族だとか、あるいは市民だとか奴隷だとか、そして金持ちだとか貧乏だとか、そんな区分になんの本質があろうか。
星空の下おそらく彼は悟った。
いまここに自分は何にも属さずに無一物として生きている。
犬や蛇や鳥と同じではないか。
そのとき、おのれが為したパラハラッテインの本当の意味が、
ある純粋なかたちで再帰的に到来したのではないだろうか。
政治や経済や法、社会を規律する制度・構造を「ノモス」と呼ぶ。
この「ノモス」は制度・体系・構造の網の目、単位としての「通貨」をも含意する。
人間はノモスをつくったが、いつのまにかノモスに支配されている。
ノモスをこそ、パラハラッテイン=偽造=内側から破壊すべきなのだ。
この悟りの瞬間が、哲学者ディオゲネスの誕生である。
彼は、荒野から都市アテネへとたどりつく。
山川の論考のもっともオリジナルな点は、
ディオゲネスをアリストテレスのカウンターとして見たところだ。
アテネの学堂のトップエリートVS無宿の犯罪者!
アリストテレスの体系は12世紀にアラブ文化圏を経てヨーロッパ文化圏へと渡り、再発見され、その後の世界のノモスの設計図となる。
アリストテレスの思想と西洋の成り立ちの関係についてはこのメモを参照。
「アリストテレスの子どもたち」
本書はかなりのページを割いて、ディオゲネスのライバル・アリストテレスのノモス哲学を批判的に検証していく。なかでもアリストテレス『政治学』における”先天的奴隷”の論理構造を。そして、まさにこれこそが上のメモ「アリストテレスの子どもたち」で述べた1550年のスペインはバリャドリ論戦で焦点とされた部分なのである。
アリストテレスにおいては、人間が人間らしく自由に生きるには、奴隷の存在を前提とせざるをえない。つまり、区別が、格差が必要である。それが”先天的”なものとして社会構造に組み込まれることになる。それを暴いたあと、山川はおどろくべき結論に至る。
アリストテレスの体系の根幹は、
「万物の尺度は金銭(ノモス)である」というのだ。
ふつうは、ものごとにはあらかじめ価値があり、金銭(ノモス)はあとから決定されるラベルにすぎないと考える。そうではなく、金銭(ノモス)こそがそのまま尺度であるというのである。つまり、万物にはあらかじめ価値などないということになる。
ノモス=金=法であるから、これは同時にたとえば「万物の尺度は法である」とも言い換えうるだろう。とすれば、これは「万物の尺度は尺度である」と言っているようなもので、さらに踏み込めばノモス=ノモスである。言葉遊びに見えるかもしれない。しかし、もしかするとこれは近代化あるいは資本主義というものの核心を言い当てているのではないだろうか。尺度の根拠は、実はどこにもない。尺度は尺度がそのつど根拠づけているにすぎない。むろん山川はそこまで言わないが、西洋の根としてのギリシャはノモス=ノモスの原理をこのとき発明し、西洋は12世紀にこれを”資本主義の原理”として手にしたのではないか。じっさい、この時期以降のヨーロッパには”商業ルネサンス”と呼ばれる経済発展が起こるのである。
16世紀バリャドリにおいて、アリストテレスはその正体を問われ、しかし延命し、その後の西洋精神に伏在して近代の世界を設計する。
かつて、世界でもっとも進んだ都市アテネに、それにあらがうようにボロきれをまとい奇矯にふるまう男がいた。さながらホームレスのように樽を住居とし、世界王(アレクサンダー)に口応えする男がいた。貨幣を偽造して金の支配をあざわらい、人間ではなく”犬”を呼ばれた男がいた。ノモスとしての世界に反抗した男。山川偉也は、ここでそれを提示しているのである。尺度にしばられることそれ自体を拒否する、社会制度の根本を否定する、アンチ・ノモスの生き方。それが紀元前4世紀にたしかに存在したのだ、と。そして山川は、そこにコスモポリタリズム(世界市民主義)のいまだ展開されざる可能性を見る。残念ながらディオゲネスについて伝わっているのはその伝説、逸話のみである。そこから、現在なしうるかぎりの推理を働かせ、霧のなかの影の輪郭を求めたのが本書である。
山川が最後に示唆する、ディオゲネスとイエスとの類似。イエス教団へのディオゲネス教団(犬儒派)の影響はじっさいに学説としても論じられているものである。僕自身それはありうる話だと思う。イエスの「よきサマリア人」の話ひとつをとってみても、あれは尺度(ノモス)を捨て共同体の外へ出よということだ。他者(ノモスの外)を見よということだ。それに対し、イエスがユダによって銀貨30枚で売られたという逸話はノモスの側からの逆襲なのである。
『蟹工船』ばかり読んでる場合じゃない、
『哲学者ディオゲネス』を読め!
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06/05 15:03
人は簡単に裏切るけど、お金は絶対裏切らない
06/05 15:06
お金があれば幸せとはいえないけど、彼女がいるなら幸せ
これを書いた者は、
「お金」と「彼女」のあいだをゆれうごいている。
「お金」と「幸せ」のあいだをゆれうごいている。
そして、ナイフを持って秋葉原に突っ込んでいった。
僕らはノモスについて根本的に考え直すべきときに来ている。
アリストテレスか、それとも、ディオゲネスか。
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