ベンヤミンにおいて、「象徴」(シンボル)と「寓意」(アレゴリー)は決定的に異なる。象徴はあらかじめあるものの統合−結果−表象であり、ものの同一性をまさに”象徴”して束ねる結び目だ。ところが、寓意はものをそのもの以外のものへと移転させてしまう。統合をずらし、結果でなくあやうい預言を呼び込み、過去と未来を折り重ねる。同一性を己のうちにブレさせ、総和を乱し、時空を複数化させる「窓」となる。
クロソウスキーの「模造」(シミュラークル)は、「記号」(シーニュ)と対立すると言っていい。こういうことだ。寓意=模造/象徴=記号。フロイト−ラカンが失われた原父による否定神学を、バタイユが神と悪魔の転倒によってグノーシスを招いてしまうのに対し、ベンヤミン−クロソウスキーは古代の野蛮な複数世界を甦らせる。さて、ここを理解するには、ミシェル・フーコーのクロソウスキー論が最高だ。
以下、フーコー「アクタイオーンの散文」(『外の思考』所収)より。
「<悪魔>が、<他者>が<同一者>であったとしたら?そして<誘惑>が大いなる敵対関係の一つの挿話ではなしに、<分身>のかすかな仄めかしであったとしたら?二者対立が鏡の空間内で展開されていたとしたら?永遠の<歴史>(われわれの歴史はその眼に見える、間もなくかき消えてしまう形にすぎない)が単にいつも同一なのではなくて、この<同一者>の同一性―つまり眼にもとまらぬほどのずれであると同時に分離し得ざるものの絡み合いであったとしたら?」
「この世界は天国でも地獄でもなく、冥府でもなくて、まったく単にわれわれの世界であるだろう。つまりわれわれのと同じであるような世界、ただしまさしくそれが同じであるという点を除いて同じ世界だ。<同一者>のこの感じとれぬほどの遠ざかりのうちに、一個の無限の運動がその生誕の地を見出す。この運動は弁証法とはまるきり無縁のものである、というのもこれは矛盾の試練でもなければ、肯定され、ついで否認される自己同一性の戯れでもないからだ。A=Aという等価性は、内的で終わりのない一個の運動によって活力を得ており、この運動が二項のそれぞれをそれ自体の自己同一性から遠ざけ、この遠ざかりそれ自身の戯れ(力と不実さ)によっておたがいに送り返しているのである。」
「そしてクロソウスキーが彼の言語のうちに描き出しそして動かしている人物像はすべて模造(シミュミラクル)である以上、このシミュラクルという語を、われわれが今やそれに与え得る響き合いのうちに聴解せねばなるまい―虚しい似姿(現実との対立において)であり、何ものかの表現=代理(そのものがそれのうちに代理派遣され、顕現し、しかもしりぞいて、或る意味では身を隠すもの)であり、一つの表徴と取り違えさせる虚偽であり、一個の神体の臨在の表徴(そして今度は逆にこの表徴をその反対のものと取り違えるという可能性)であり、<同一者>と<他者>の同時到来である(擬装するとは、元来、共に来ることである)。かくしてクロソウスキーに固有の、そしてすばらしく豊かなあの星座が形成される―シミュラクル、シミリチュード(相似)、シミュルタイネイテ(同時性)、シミュラシオン(擬装)、そしてディシュミュラシオン(隠蔽、ごまかし)。」
「おそらく表徴=記号(シーニュ)と模造(シミュラクル)とのあいだには厳密な区別を設けるべきであろう。それらは、たとえ時として重ね合わされることがあろうとも、同じ経験には属してなどいないのである。それはつまり模造は意味を定めはしないからだ。それは時間の炸裂の中の現われの領界に属する―<真昼>の悟明であり永遠の回帰だ。たぶんギリシャの宗教は模造しか知っていなかった。まずはじめソフィストが、ついでストア派とエピクロス派がそうした模造を表徴(シーニュ)のごとく読もうとし、この遅まきな読解によってギリシャの神々は姿を消してしまった。アレクサンドリアを故里とする、キリスト教的釈義はこの解釈を受け継いだのである。」
すばらしく深い理解だ。
「神」(同一性システム)を否定したり、より大きな別の「神」を召喚したり、「悪魔」を崇めてみたりすることは、実は「神」の同一性をなんら傷つけない。ではどうするか。クロソウスキーの戦略は、「神」も「悪魔」も「異神」も同じでありつつ異なる「模造」であるとすることだ。すると、世界にブレが生じ、同一性は複数性へと転化する。
『ロベルトは今夜』は彼の三つの小説と絵画から出来たもの。その辺の仏文屋や耽美好きは高尚な倒錯美でも見てとるのだろうが、むろんそんな甘いものではない。ベタにしてメタ。そう、むしろそのあまりに個人的な妄想の細部が拡大された、通俗性と紋切型に罠があるのだ。それぞれの人物、出来事は互いの模造=寓意だ。規範をすりぬける欲望は互いに転移し増殖する。彼らはそれ自体でありつつ何か別の「代わりのもの」(シミュラークル)なのだ。それを「本人」たちが「演じる」ということ!
ここでは正常も変態も、正気も狂気も、神も悪魔も、無限のヴァリエーションのひとつにすぎない。エピステーメーから社会を分析したフーコーにとっても、もちろんドゥルーズにとっても、この複数神学のエロスは驚異だったに違いない。
さて、晩年のクロソウスキーのこれまた奇妙な著作に『生きた貨幣』がある。ポルノグラフィーとしての経済書!ついには人は己の肉体を「生きた貨幣」とせよ、というすさまじいマニフェストを告げてしまうのだ。バタイユの蕩尽の思想すら取り込んでしまう「資本主義」(現代の神=同一性)。そこに肉体を貨幣として、複数化した主体を社会に送り返し流通させることで、エロスのテロを起こそうという訳だ。
『ニーチェと悪循環』においては、永劫回帰をニーチェ晩年の狂気の明晰「歴史上すべての名は私であった」に引き合わせることで同ジモノガ同時ニ多重複数アルとして複数化してしまうのだ。私はディオニシウスでありかつキリストである。同じ運命が同じように回帰するニヒリズムをまさに「同じ」において超克する。これがシミュラークルの秘儀だ。ベンヤミンを通り抜けた「クロソウスキーに固有の、そしてすばらしく豊かなあの星座」があやしい光を放つ。
※追記)
『ロベルトは今夜』にダニエル・シュミットが出演していることに気づいた。そうか。シュミットの映画もまたシミュラークルという光学で照らすと見えてくるものが・・・

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