小島信夫『残光』が文庫になった。
http://www.shinchosha.co.jp/book/114502/
一昨年『新潮』に掲載された際、雑誌がボロボロになるくらい読み返した。小島信夫こそ、戦後日本文学の最前衛をひた走った作家である。ところがこの当時90歳の小島はたずさえてきた意識的な戦略のほとんどをどこかへ置き忘れてしまっている。ここで逆転が起きる。すべてを忘却してしまったことが、かつての戦略を、生きることの体験として実践させてしまうのだ。生が文学を追い越し、文学が生に追いすがっている。まあこの10、20年間で他ではけっして読めないことが、ここで起きている。
もはや筋と呼べるようなものは特にない。認知症の妻を施設に入れたあたりからの日々をたんたんとつづっている。基軸は執筆当時の現在だが、時制はどんどん入れ子状に重層をなしていく。施設の妻への訪ない。若い小説家との交流。アル中の息子の想い出。やがて、みずから書いたことすら忘れかけていた過去の小説を読み返し、引用し、過去の小説と現在の小説が、そして現実と小説とが折り重なってふるえてまわりはじめる。
僕は、かつて小島が森敦とかわした対談について次のようにメモした。
2008年6月10日「失われた意味の変容を求めて」
http://angel.ap.teacup.com/applet/unspiritualized/20080610/archive
なぜ「小説」が重要なのか。
それが「言葉」で作られているからである。
人間は「言葉」を手にすることで動物と決別した。
「言葉」によっていまここにない世界を把握できるようになった。それによって自然を制覇できた。もちろんそれによって失ったものもある。世界に、自然に、「言葉」を通してしか、つまり直接触ることができなくなったのだ。そして、この二重性の間、スキマを「言葉」で表現できるのは、ただ文学だけなのである。だから「小説」が重要なのだ。
小島はそれに気づき実践してきた。そうして90歳にいたりそのほとんどを忘れた。で、自分の生そのものを、「小説」と化すのである。この老人ボケした感じは、世界と言葉とのズレによる知覚のボケそのものなのである。小島信夫の『別れる理由』や『寓話』といった世界最先端の傑作群が絶版であることは人間の本質の探求が禁じられているに等しい。その禁忌の領域へ、この『残光』から遡及することが可能である。
*
『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416633/
編者の若松英輔は近年『三田文学』に精力的に井筒論を発表している。井筒学の展開を俯瞰するに欠かすことのできない資料集である。
*
CHICAGO; Blues & Soul Showdown!
http://blues-soul.laff.jp/blog/
このメンツはすごい。ゴスペル、ブルース、R&Bの滋味真打揃。
*
茶道資料館 開館30周年記念「わび茶の誕生−珠光から利休まで」
http://www.digistyle-kyoto.com/event/tenrankai/post_463.html
*

7