ハリウッドでリメイクされたCG映画『ATOM』の予告を観た。
http://atom.kadokawa-ent.jp/top.html
『鉄腕アトム』の、最低のリメイクである。浦沢直樹のリメイク漫画もひどかったが、輪をかけてひどい。こんなものをシリーズ化しようとする手塚眞は父の志に唾する裏切り者だ。
アトムという物語の本質を通俗的な親子の心理学に還元してしまっている。味付けとしてのロボットと人間の相克などスピルバーグ『A.I.』の浅薄な反復にすぎないと予想する。
まず、「アトム」という名はいったいなんなのか。手塚自身がどう証言してるかは知らないが(おそらくは韜晦しているだろう)、アトムとは原子、当時の日本人にとりそれはアトミック・ボム=原子爆弾を即座に連想させただろう。事実アトムのエネルギー源は体内の小型の原子炉なのである。二発の原爆はもちろん、列強により核実験が繰り返され、世界は原水爆による支配権競争に突き進んでいた。言うなれば鉄腕アトムとは動く原爆である。そしてその原爆の側から、人間たちに、地球を破壊するほどのエネルギーをいかに使用するべきか、もとより使用する資格があるのか、問うているのだ。
ちなみに『ATOM』では体内の原子炉は”ブルーコア”というよくわからない新型エネルギーに改変されている。なんのことはない、アトムという名はATOMに転じて単なる記号でしかなくなっている。
原爆を戦時投下された国で生まれたこの漫画が、原爆を戦時投下した国で中身をスカスカにした上でCG化されるということを、すくなくとも漫画を愛する人間は憤ったほうがいい。
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■以下は、とある『鉄腕アトム』についての十数年前の妄想めいたメモ。
手塚治は1970年、別冊少年マガジン誌に『アトムの最後』と題した読み切りを掲載する。すでに国民的漫画となっていた『鉄腕アトム』シリーズ中、もっとも暗くおそろしい、異形の短編だ。のちに手塚自身それを忌み嫌い、封印しようとしたとも言われる。それはこんな物語である。
アトムが人間の守護者として活躍した時代からさらに未来。彼は過去の遺物として博物館に陳列されている。夜、そこに忍び込んでくる男女がいる。「丈夫」と「ジュリー」だ。ふたりは数十年ぶりにアトムの電源を入れる。そして、自分たちを助けてくれるよう、懇願するのだ。そう、ふたりはロボットたちに追われているのだ。
この未来、人間とロボットの立場は逆転している。テクノロジーをもてあそびながら、みずからの暴力性をコントロールできなかった人間は殺し合い、自滅する。生き残った人類を、ロボットたちが試験菅のなかで生殖させ、自分たちの子どもとして育てている。人間の子どもは両親がロボットだということを知らない。そして子どもが成人すると、互いに殺し合いをさせるのだ。つまり、ロボットたちは人間たちと同じ轍を踏まないよう、自分たちでは殺し合わず(壊し合わず)、人間たちの殺し合いを観て楽しむことで、暴力性を発散させているのである。
あることがきっかけで、親たちがロボットであることに気づいた丈夫は、愛し合う幼なじみのジュリーとともに街から逃げてきたのである。そしていまや秘密を知ったふたりを殺そうと、ロボットたちが追いかけているのだ。事情を聞いたアトムは尋ねる。
アトム「あなたとジュリーさんは本当に愛しあっているのでしょうね」
丈夫「本当だとも」
アトム「どんなことがあってもそれは変わらないですね」
そうしてアトムはふたりを連れ遠い無人島へと飛んでいく。
ただでさえ暗くペシミスティックな物語は、ここからさらなる落下をとげる。 追ってに包囲されたふたりに、アトムはこう告げるのだ。
アトム「僕たちの時代は人間とロボットはうわべではうまくいっているように見えました。あれは誤魔化しだったのか。本当は信じあっていなかったのかも。あなたたちみたいに心の底から愛し合っていれば心配いりませんけどね。たとえ人間とロボットでも」
丈夫「誰がロボットだ」
アトム「ジュリーさんですよ」
丈夫「ジュリーがロボット?ウソだ。ジュリー、人間だと言ってくれ」
アトム「僕は一目でわかりました。追っ手が来たようだ。行くぞ」
実は、ふたりには丈夫自身すら忘れかけていた過去があった。
丈夫は、暴力で周囲を傷つける子どもだった。
ある日、彼は幼いジュリーの首をしめる。
おそるべき真実が明るみに出る。
そう、そのとき、丈夫はジュリーを殺していたのだ。
では、いま目の前にいるジュリーは?
ふたり手をとって逃げ出してきたジュリーはいったい何者なのか?
そう、人間ジュリーはあの日に死んだ。
いまここにいるジュリーはロボットだったのだ。
アトムがロボットの軍勢と戦うために飛び去った後、
ふたりは無人島に残される。
ジュリー「丈夫さん。わたし本当にあなたが好きなの。
それでいいじゃない。人間だってロボットだって」
しかし丈夫は、愛の可能性を信じようと懇願するジュリーに対し、最悪の選択をする。そしてアトムの最後があっけなく描かれる。こうして、漫画は、およそ登場する誰ひとりとして救われない絶望の底で、終わる。
◇
いったい、この気分の悪くなる作品はなんなのだろう?
これが、夢と勇気と希望の漫画であるはずの、アトムの最後とは?
まさしく永遠に封印されるべき、呪われた作品ではないか?
僕の意見は、そうではない。この作品は、希望と絶望とのある奇妙な関係を教えてくれるかけがえのないものだ。
◇
『鉄腕アトム』は、ある男が息子を交通事故で亡くした身代わりとして誕生する。ありあまる力を持ったそのロボットは、人間とロボットが共存する社会で、あくまで人間のために、それだけが正義として、活躍する。彼は、この世の歪みから身をよじるたくさんのロボットたちを、「えーい、わからずや!」と叫んで、粉々に壊す。ロボットなのに、人間の側について、ロボットを殺すのだ。そしてその行為が平和を守るとされるのである。
ところで現代、いまここを見渡すに、はたして50年、100年後に、希望に満ちた未来が来るだろうか。否、である。地球にとって、生物にとって、人類にとって、明るい未来は到来しない。すべては悪くなり、暗くなり、ひどくなる。争いはやまず、格差はますます広がり、憎しみはいや増す。当然だ、わたしたちは悪いことすべてを未来先送りにしているのだから。
未来は絶望的だ。
だから、「えーい、わからずや!」と叫んで”悪者”を退治していれば持続する明るい未来は、来ない。それだけでは駄目なのだ。手塚治は、無意識にせよ、みずからがかつて描いてみせたただ明るいだけの未来を補完するものとして、この『アトムの最後』を描いたにちがいないと、僕は思う。
さらに、こう思う。希望は、ただ希望であるだけでは、ありえない。そこには、絶望がある。絶望はそこにおいてただ絶望としてあるのでは、ない。希望とともにある絶望は、希望を補完するものとして、ある。いや、希望は、それを補完する絶望なくしてはありえない。絶望もまたそうである。つまり、わたしたちがそのきらびやかさにおいてしか見ようとしない希望、それはその実、絶望に補完されることによって希望たりうるのである。絶望もまた、その絶望的暗黒のいちばん奥に、呼びかけに応えられぬほど遠くにせよ、たしかに希望を宿して、ある。
『アトムの最後』とは、そのような絶望なのである。
『鉄腕アトム』のような希望の未来が成就することはない。
その明るさの影で殺され排除された”悪者”たち、その上で成り立つ現実などない。だから、希望を補完する絶望が必要なのだ。
『アトムの最後』において、すべては最悪の方向へと選択される。
しかしそこには本当は絶望ではない選択の可能性もあった。 もし、もしあのときあの場所で、丈夫がジュリーの問いかけに、 「YES」と応えていたならば、すべては変わったのである。 追っ手のロボットたちはすべてを許すだろう。 試験管の人間たちはすべての暴力を棄てるだろう。 そしてアトムはそのときはじめて本当の笑顔を人間とロボットのあいだにふりまくことができるのだ。
これはそのようなありえざる世界のネガなのである。
◇
『アトムの最後』、
その最後のコマの空に放りだされるように置かれた「2055年」は、
その未来を作るわたしたちの頭上に、ある。
「明るい」未来があらかじめあるのでは、ない。
「暗い」未来があらかじめあるのでも、ない。
あらゆる絶望にあきらめず、
それらを希望の補完として背負ってはじめて、
未来を「明る」くすることができるのだ。
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