ドゥルーズのニーチェを考え直していることもあって、ドゥルーズに影響を与えたクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』をすこしずつ再読、十数年ぶり。あまりに映像的な文章なのでイメージに飢え、これまたひさしぶりに映画『ロベルトは今夜』を再見。本人が妻とともに出演している。自ら演じる富豪は、妻ロベルトを他人に貸し与え、凌辱しようとする。縛られ、掌を舐められるロベルト。みだらな活人画。少年への誘惑。毒殺。ナチス将校と看護婦。陰謀。彼女の欲望は夫の願望を反復しつつさらにはみだし、ついにはそれぞれの「キャラクター」は役割をはみだして交換されていく…
クロソウスキーはルイ・マル『鬼火』やブレッソン『バルタザールどこへ行く』にも出演しているので、俳優志向なのかというと、彼にかぎっては事情が違う。ことにこの作品においては。これは、「本人」が役を演じる、ということにおそるべき意味がある。シミュラークルの秘儀の実践である。
リルケの隠し子という噂。バルテュスの兄弟。ジッドの秘書。バタイユとは秘密結社アセファルの同志。コジェーヴのヘーゲル授業への聴講。修道院生活。画家、作家、哲学者…クロソウスキーには「顔」が多すぎる。皆が多肉質でできた迷宮のような彼の世界に惑う。
今回、ひとつ発見した。クロソウスキーにおけるベンヤミンだ。なぜ気づかなかったのだろう。彼は若い頃からベンヤミンの翻訳に取り組み、やがてバタイユを頼ってパリに亡命してきたベンヤミン自身と共に図書館にこもり共同作業に没頭する。そうしてすさまじいフランス語訳をものにするのだ(『翻訳者の使命』の実現!)。むろん、そうした伝記的事実は前から知っていたが、まさしくクロソウスキーこそ、フランスにおける決定的なベンヤミン受容の姿なのだ。彼のなかでその思想はニーチェとサドとに混ぜ合わされ、独自のエロティックな神秘のベールをまとい、新生したのだ。
これはフーコーも言っていないことなのだが、僕は蛮勇をふるって断言する。あの奇妙な「シミュラークル」(模造)の概念は、ベンヤミンの「アレゴリー」(寓意)から来ているのだ。

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