10年以上前のことだが、イスラエルを紅海からゴラン高原までひとり一周した。そのときの経験というのは非常にデカく、自分のなかに研磨不可能なゴツゴツの核としていまも持っている。そののちアフガンに行ったのも、一時は入信を考えていろんなモスクに通ったのも、つながっている。パレスチナ問題について、デモや募金から政府へのロビー活動までいろいろやってみたが、むろん納得のいく結果は出せていない。でもたぶん、一生一方的につながったままだ。文化サヨクが・・・とか揶揄する向きもあろうが、僕は左翼ではないし、イデオロギーではなく、自分がたまたまつながってしまったものに自分なりに向き合うだけのことだ。こうしたことは日常口にすることはない。こっそり慟哭することはある。伊藤和也さんの訃報のときみたいに。そして、
不 可 視 の 学 院 「佐藤君のこと」
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/801.html
書き手と相手との距離が浮かびあがってくる、こうした文章こそ尊い。ひさしぶりに、ある記事を検索して読み返した。ラファハで死んだレイチェルについてのものだ。
中国初恋 パレスチナ夜
http://www.sakusha.net/palestine1.html
http://www.sakusha.net/palestine4.html
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ショーレム『サバタイ・ツヴィ伝』を読んでいてふと、カフカの『変身』が分かった気がした。3秒ほど(笑)その錯覚をメモしておく。
あれは「負のメシア降臨」なのだ。平凡な男(と、彼自身と彼の周囲は考えている)ザムザは、ある朝、虫になっている。たえず解釈を積み重ねてきた日々に、絶対的な亀裂が入り、いっさいは決定的に変わってしまう。彼も周囲もそれを解釈できない。それは日常の尺度を絶している。
メシアはいつどのようにやってくるのか。暗黒の世に光が射しこみ天使たちのファンファーレとともに金髪の美青年が空から降りてくるのか。ちがう。ナザレのイエスがみじめな嘘つきの罪人として殺されたように。サバタイ・ツヴィがスルタンに捕まると卑劣にもあっさり棄教したように。彼らはつねにわれわれが待ち望んでいるのとはちがう姿で、ちがう時に、ちがう場所へ、やってくる。それを別の言い方をすれば、けっしてやってこないということだ。
メシアはけっしてやってこない。そのように、ザムザは虫へと変身する。つまり、このように、メシアはやってくる。ありえない、不可能な存在の開き。誰もが目をそむけ、唾をはきかけ、そしてすぐに忘れてしまうもの。もっとも馬鹿馬鹿しい、もっとも卑小な、もっとも無意味な、醜い虫けら。この世の欠損、負のメシア降臨。
彼自身ですら、そのことに気づくことはない。
虫は哭くかもしれない、「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」
そうして、彼は誰にも気づかれることなく、ゴミのように死ぬ。その死後、『変身』の最後の場面でのザムザの家族たちの旅立ちは、不思議な希望につつまれている。
メシアはけっしてやってこない。
なぜならば、わたしたちが、けっしてそれに気づかないからだ。わたしたちが、けっしてそれを認めないからだ。そのようにして、メシアは、その時、暗い部屋の隅で死んでいる。あるいは仕事がなくて餓死している。あるいはブルドーザーに轢かれて死んでいる。もしも救いがあるとすれば、わたしたちは、いつか/すでに、そのように救われるはずだ。
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京大にイスラム食コーナー 「本物の味」と留学生
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009100600145&genre=G1&area=K00
やるやん京大(生協?)。在日ムスリムは外食で苦労しているので、こうした工夫はすばらしい。留学生の多い早稲田なんかでもやるべき。
ちなみに、本場の庶民の味のイスラミック・フードを食べられる場所はどこか?(と言ってもパキスタン料理が主だが) 答えは、郊外の中古車オークション会場である。日本の中古車業はかなりの割合でパキスタン人が入り込んでおり、大きな会場の外にはよく屋台が出ている。これが本場そのままでウマい!
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