ときおり耳にする「マルチチュード」(ネグリ)への誤解は、「ノマド」(ドゥルーズ)への誤解を思い出させる。80〜90年代に流行した「ノマド」の概念は、遊牧民的な“自由”へのイメージから、さまざまなジャンルで流用・消費された。システムの桎梏から軽やかに脱出するスキツォイドの戯れという訳だ。いまでも、もはやちょいワルになりかかったスノッブどもをつついてみろ、蚤みたいなノマドの一匹や二匹が飛び出してくるはずだ。むろん、それらはすべて間違っている。
もともとドゥルーズの言うノマドは、そのようなロマンチックなボヘミアンの抽象イメージとは異なる。単に「外部」に逃げろ、などという安易なものではない。そもそもその構図が駄目だ。内部がないから外部に逃げようとしても、そのような外部だの辺境という「国境線」こそがオリエンタリズムによって引かれた、存在論の帝国の植民地にすぎない。だからこそドゥルーズは、ニーチェの「外部」とハイデッガーの「内部」を差異と反復において重ねあわせることで、まさにその両者の差異/同一にアクロバティックなねじれを導入しようとした。リゾームや脱−領土化、などというのもそれがあってこその話だ。むろん、ネグリの言う「帝国」/「マルチチュード」もその辺りを踏まえてなお、思い切り単純化して提示したものだ。だから、ノマドだのマルチチュードだのを新しい希望のような身振りで語りつつその実ロマンを回顧してしまうのも、そのようなアナクロ左翼的身振りに対して現実的でないなどと非難してみせるのも、ひとしく不毛だ。
やや脱線すると、ネグリについては『Time for Revolution』が邦訳されていないことが痛い。『帝国』も『マルチチュード』もどうしても領土闘争=トポロジーとして読まれてしまうところがあるが、この書と共に読まれることで時間闘争=クロノロジーとして補完し合う関係を結ぶ。ここにはベンヤミンを継いだカイロスへのまなざしがあり、政治−時間神学とでも言うべき戦略の開けがある。
「内部」だの「外部」だのと安易に言う連中ほど、その「外部」は決定的に「内部」だ。そんな時間−空間で右往左往するノマドもマルチチュードも、どこにも出られはしない。そういえば、わたしは「旅人」が嫌いだ。「旅」をロマンチックな原理として肯定する彼らが嫌いだ。どれだけ日本の「外部」に出ている身振りをしようと、彼らは悲しいほど「内部」にとどまっている。別に、旅するのに移動する必要などないのに。逆に言えば、動かずとも旅はできるのだ。そういえば、ドゥルーズもどこかでノマドと移動は関係ないというようなことを言っていた。

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