村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに関連してメモ。
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
http://www.shikoku-np.co.jp/national/detailed_report/article.aspx?id=20090218000243
スピーチそのものへの感想や論評ではなく、そこにちりばめられたイメージを自分勝手にひろいあげてみようと思う。
遅ればせながらそんなことをしてみようと思ったのは、いま読んでいる森まり子『シオニズムとアラブ』(講談社、08年7月刊)のなかで「壁」という言葉にガツンと突き当たったから。では、まず「壁」について。
2002年よりリクードが建設を始めたパレスチナ人居住区を取り囲む「壁」。森は、この最終的な全長は700キロにおよぶという「壁」建設に、1920年代にさかのぼる修正シオニズムの思想が反映されていると見る。その鼻祖ジャボディンスキーの1923年の論文『鉄の壁』は、アラブ人はシオニズムをきちんと理解していないからそれに反対するのだというシオニズム左派を批判し、シオニズムの本質がパレスチナの占有であるからには先住者が反対するのは当然であり対話は成り立ちえないという。よって入植は強大な武力=「鉄の壁」によって保護されることでのみ遂行でき、アラブ人はその「壁」に砕け散ってのちに交渉の対話を始めるであろう、と。この論文はむろんのことその道義性をめぐって議論を呼び、続く『鉄の壁の道義性』が執筆される。
「さまよえる人々に故郷をつくるために、広大な領土を持つ民族から一片の土地を徴用することは正義の行為であり、もし土地を持つ民族がそれを割譲することを望まないなら(そしてこれは全く自然なことだが)それは強制されねばならない。神聖な真実は、その実現に力の行使が必要だからという理由で神聖な真実でなくなるわけではない。これがアラブ人の反対に対する我々の立場の土台である。そして我々は彼らが合意について話し合う用意ができた時に初めて合意について語るだろう。」(同、98ページ)
これを読んではじめてイスラエル右派の分離の論理が理解できた気がした。ジャボディンスキー〜右派は、アラブ人の愛国心や故郷に対する情熱を、ある意味で左派よりも重視している。重視するからこそみずからの行為が引き起こす事態での和解不可能性に至らざるをえない。あまりに苦しくあまりに偏った「正義」の思想、それは80年を経てなんと実際の「鉄の壁」というモノに凝固してしまう。あまつさえその「壁」でさえぎったひとびとに対し、戦士にはミサイルを、市民には白燐弾を打ち込む。「そして我々は彼らが合意について話し合う用意ができた時に初めて合意について語るだろう。」
さて、この建設中の「壁」、イスラエル建国時から伏流するシオニズム右派の思想が具現化した「壁」から、もっと時代をさかのぼって「壁」のイメージを想像してみる。
そもそも、なぜイスラエルは建国されねばならなかったか。その背景にはヨーロッパ・ロシアにおける苛烈なユダヤ人差別があった。ことに中世以降、その差別は「壁」という形をとる。ゲットーだ。街の一角に彼らを押し込め、閉じ込める。あまつさえその「壁」で包囲しておいて虐殺ーポグロムを繰り返した。シオニズムーイスラエル建国運動の高まりと、ヨーロッパ・ロシアでのユダヤ人差別の反動的強化はパラレルだ。その最たるものがナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺であり、そのための強制収容所である。より狭くより堅牢でより残忍なゲットーとしての収容所、それは灰色の「壁」によっておおい隠された。
そしてイギリスはアラブ勢力とユダヤ勢力を天秤にかけ二枚舌で外交し、パレスチナ問題の種をまいた。イギリスがやらなければフランスがやっただろう。そしていまイスラエルのパレスチナに対する一方的な戦争を国際社会のパワーゲーム下で可能としているのはアメリカであり、パワーゲーム下でアメリカに加担しているのが日本である。
村上春樹が「壁」を持ち出した本当の意図はよく分からない。しかし、エルサレムで語られる「壁」のイメージは、20世紀をはるかにさかのぼるほど古く、いまも建設中ということはいまだ人類が乗り越えられていないほどに高く、イスラエル国境をはるかに超えて僕らをすっぽりおおうほど広い、ということが分かる。
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では、「卵」とはなんだろう。
むろん村上はそれについて丁寧に説明しているのだが、僕はここで勝手にイメージをひろいあげ、それらをひらこうとしている。
村上がスピーチを語った言語であるところの英語、それが話されている英語圏では、「壁」と「卵」とくればひとびとはほとんど無意識的にマザーグースの童謡「ハンプティ・ダンプティ」を思い出すのではないだろうか。
Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again.
この詩がそもそも何をあらわしていたのかは、謎だ。だから「ハンプティ・ダンプティ」の正体も謎である。しかしこの詩は「卵」を答えとするなぞなぞとして子どもたちに歌い継がれ、そのモチーフは『鏡の国のアリス』にも登場する。
さて、ここで問いの角度をすこし変えて、「ハンプティ・ダンプティ」は誰かではなく、「ハンプティ・ダンプティ」が何をしようとしていたのかをイメージしてみる。「ハンプティ・ダンプティ」は「壁」の上に座っていた。そして落ち、壊れる。「壁」の上に登るという動作は、なんのためのものだろう。高いところから景色を見ようとしたのかもしれない。もっとありうるのは、こちら側から向こう側へと逃げ出すか、あるいは向こう側からこちら側へとやってくるか、である。これらはいずれも「壁を乗り越える」動作である。しかし、それは失敗する。王様の騎兵たちはそれを待っていたのか、追いかけたのか、追放したのか、分からない。分からないが、彼らは「ハンプティ」を元に戻すことはできない。強大な権力も武力もそれを元に戻すことはできない。
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スピーチの内容については解釈しないつもりだったのだが、ちょっとこれはないだろうという論評を目にしたのでついでに批判し、さらに「壁」と「卵」についてのイメージを深めてみたい。
内田樹の研究室 「壁と卵」
http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php
「このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。」
まったく同意できない。
村上春樹のスピーチの曲解である。
内田は、弱いことが間違いの原因であり、「間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯す」、それが人間の「本態的弱さ」であると定義づけている。この理屈は、<強さ/弱さ>の内部に<正しさ/間違い>を巧妙に持ち込んでいる。
村上はこう言っている。
「「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。」
(四国新聞掲載の訳より)
何が「正しい」か「正しくないか」は、おのれの行為(彼の場合は小説を書くこと)の基準たりえないということだ。それは自分の見えること、できることの外部にあり、「他の誰かが」「おそらく時や歴史というもの」が決めるだろうと言っているのだ。その「他の誰か」が決める「正しさ」は結局は相対的なものでしかないだろうということも、この言から伝わってくる。分離「壁」の思想的祖であるジャボディンスキーが「正義」という言葉を使っていたことを思い出そう。では何が「正しく」何が「正しくない」かがおのれで判断できないとすれば、どうするか。どのように小説を書くか。その答えが「常に卵側に立つ」ということなのだ。
内田は、なぜかスピーチになんの関係もない日本の「左翼的」なるものを持ち出す。そして彼ら(?)の「弱いものは正しい」なるイデオロギーにケチを付けるのであるが、上述したように、それに対する彼自身の答えは<弱いものは間違っている>ということなのだ。これは「左翼的」なるもののイデオロギーのコインの裏でしかない。彼がこのようなロジックを使うのは初めてではない。以下を参照のこと。
他者は貧者であるか
http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/147.html
hospitalitéの方へ
http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/150.html
さて、くりかえすが村上が言っているのは、弱い「卵」と強い「壁」があり、「他の誰か」が決めた「正しい」か「正しくない」という基準に依拠せず、弱い「卵」の側に立つということだ。
今回のガザ侵攻について考えてみよう。くだんの「白燐弾」だ。「白燐弾」が使用されることは国際法上「正しい」。それが市街地に打ち込まれ、破片が子どもに当たり、重症の火傷を追わせたとしても国際法上「正しい」。「正しい」とイスラエルは言い、「正しい」とアメリカは言い、「正しい」と日本の平和ボケに涌いたひとびとは言う。「壁」を作っている素材の正体が、うっすらと見えてくるのではないだろうか。
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いきがかり上、こちらも批判しておく。
内田樹の研究室 「壁と卵(つづき)」
http://blog.tatsuru.com/2009/02/20_1543.php
「「システム」を国家権力とか暴力装置とかあるいは資本主義体制というふうに実体として読んだ人には、どうして村上春樹が「父」の話をここに挿入したのか、その意図がわからないだろう。
村上春樹が問題にしているのは、「物語」であり、より広くは「言葉」のことである。」
内田樹は、どうして村上春樹が「父」の話をここに挿入したのか、その意図をまったく分かっていない。村上は、日本からはるか遠いエルサレムにやって来て、英語で語っている。スピーチのなかで「爆弾」や「ロケット」について言及している。そして「壁」「システム」について批判している。そのように語る村上春樹はいったい「壁」「システム」の何処にいるのだろうか。だから、彼はここで父について語ったのだ。彼の父は中国に戦争に行ったのである。殺されかかっただろうし、殺したかもしれない。そこで父は「システム」に強制され、「システム」に加担し、「システム」の一部となったのだ。父が「敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈って」いたということは、彼は戦後みずからが属した「システム」「壁」をふりかえって目撃したということだろう。イスラエルがガザに侵攻したように、日本は中国に侵攻した。それを父が行った。そのことを「正しい」とするひとびとはいたし、いまもいる。村上は、そのことを、エルサレムで、スピーチの真ん中で、思い出している。そして、そのことによってスピーチを聴くひとびとは彼のいる場所が分かる。「壁」はイスラエルにだけあるものではない。父の背中を見、そこに「死の影」を見ることで、村上は「システム」が、「壁」がどのようなものかの断片を目にしたのだ。内田の解釈は、空言である。
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「壁」を文学がどこまで明確に描くことができたか、思い出しておこう。僕にとってその最高の達成は、ハーマン・メルヴィル『バートルビー』である。
バートルビー、ピラミッドの最奥から
http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/174.html
『バートルビー』のサブタイトルについて
http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/178.html?emoji=au
この小説は当初『A Story of Wall-street』という副題が付けられていた。通例これは「ウォールストリートの物語』と読まれる。しかし、僕はこれはメルヴィルが忍び込ませた「壁」というキーワードの暗示であるととらえる。そう、「壁」こそが『バートルビー』のライトモチーフである。「壁」は世界を区切り、「正しいこと」と「正しくないこと」を決定する。バートルビーが法律事務所で働いていることに注意しよう。「法」こそが社会において具現化した「壁」の一部である。だからこそ彼はそれに対して決定不可能性をもって応答する。ここでは、世界を決定する「壁」、「システム」の作動がおそろしいほどの深度で感覚され、描かれている。そしてそれにぶちあたり砕け散る「卵」の姿が。これこそが文学ができること、文学だけができること、だ。
ところで、メルヴィルは1857年、エルサレムを訪れている。彼は「嘆きの壁」の広場に行き、エルサレム神殿の残骸である石壁に向かって祈りをささげるひとびとを見ただろう。
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ちなみに、僕は村上春樹の文章では小説でもエッセイでもなくレイモンド・カーヴァーの作品解説がいっとう好き。
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