たかもちげん『祝福王』の文庫版が出版社を新たにして出ているようだ。
バブル末期の当時、世は「精神世界」(いまでいう「スピリチュアル」)が隆盛していた。自己啓発セミナーが流行し、宇宙人のメッセージを伝えるというチャネラーが跋扈し、少女たちは転生を信じ、オウム真理教が力をつけ幸福の科学がフィーバーしていた。そのとき、たかもちげんは大胆にも「宗教」というものの真芯を射抜くような漫画を連載しはじめた。舞台は現代。主人公はごくありきたりの俗物青年なのだが、おのれが得体の知れぬおおきなものに選ばれた器であることを知り、ゆらぎ、あらがい、やがて世界の人間を救う道を歩みはじめる。単行本のカバー見返しに載っていた作者の言葉に心を打たれたことを憶えている。仏陀だのイエスだのの伝言として言葉をあやつる宗教家が多すぎる、宗教家はどうであれ自分自身の言葉で世界を語るべきだ。たしか、そんな言葉だったと記憶する。その通り、「精神世界」ブームの正体は何かの権威に依存してその言葉をコピーする伝言ゲームだった。『祝福王』はそうした風潮に正面から挑んだ。イエスや仏陀は彼らが生きた当時、どのようにその思想を産み、社会と闘い、ひとびとに言葉を伝えたのか。世紀末、ひとりの漫画家が、その光景をゼロから想像し、画にしていったのだ。
とりわけ主人公が煉獄をくぐりぬけて神々と対決するシーンはただただ圧巻で、生々しいイマジネーションを自身の臓腑からえぐりだしていくかのようだ。既成の宗教イメージに頼らずして作り上げたヴィジョンの鮮明さはいま見ても驚く。宗教そのものを描くということにおいて、この作品に太刀打ちできる小説も映画もはたしてどれだけあるだろうかと思う。
そのころ僕は自身の神秘体験と向き合いながら自己啓発セミナーや新興宗教への特攻・道場破りをくりかえしていた。同志のように感じ、むさぼり読んでいたのがこの漫画である。
たかもちげんはなにごともなくすぎさった「1999の夏」を見届け、その一年後に逝った。彼の作品では『聖なる者へ』も忘れられない。現代のカイン譚としては六田登『ICHIGO』と並ぶドープすぎる作品で、レアだが探してでも読む価値あり。
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『ICHIGO』で思い出したので、六田登の新作についてもメモ。
六田は世間的には『ダッシュ勝平』、あるいは『F』などのどちらかと言えばスポーティーな漫画のイメージがあるかもしれない。しかしそれは彼のメジャー側面にすぎず、その実力はむしろ『ICHIGO』や『親愛なるMへ』『千億の蟲』など、心に虚無をかかえた弱者や異端者、アウトローが時代のダークサイドを跛行するさまを描く際にもっとも発揮される。
さて、彼は目下携帯サイト「Comicマンガ王」で連載・配信しており、その単行本第1巻が刊行された。
舞台は19世紀、アメリカ西部。マイケル・オンダーチェの傑作伝記『ビリー・ザ・キッド全仕事』を参考文献にかかげる。そう、21歳で殺されるまでに21人を殺した、あのガンマンの伝記である。 キッドが六田にとってこれ以上ないキャラクターであることは言うまでもない。どのコマもペンが喜び、躍っている。紙で読むと躍動感ある描線の美しさにあらためて感動した。村枝賢一『RED』に続き西部劇マンガの傑作となることを期待する。
また、六田自身によるあとがきがいい。漫画家への道を歩むきっかけとなった、十代のある日の沖永良部島で体験した出来事が語られており、味わい深いすてきな文章だ。
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『祝福王』からのつながりで、
菅原浩の新刊『スピリチュアル哲学入門』について。
著者は京都の私学で教授をやっている。
こちらのブログで自身の思想を披瀝している(現在は更新停止)。
美しさの中を歩め
http://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/
ユニークで、希有な書き手だ。とりわけスピ界隈では格別貴重な人材である。印哲は付け焼き刃の感があるが、プロティノスからルネ・ゲノンまでを真剣に勉強し、自らの思考で肉づけしていることが伝わってくる。口を開けば「気づき」「センス」「感覚」と言うばかりで単なる勉強不足だらけのスピラー、ビリーバーの群れにあって、彼は希望と言っていい。
タイトルにもあるスピリチュアル哲学とは、プラトン〜新プラトン主義〜中世キリスト教・イスラム教神秘主義(一部インド哲学に重なる)をつらぬく超越的存在論の系譜を指す。著者はこれを「霊性思想」と呼ぶ。本書は『ソフィーの世界』のように少女と不思議な存在との対話形式で書かれており、それらの思想のキモをソフトに伝えようとしている。
プラトンのイデア、プロティノスの一者、インドのブラフマン、中国の太極…。たしかに古い神秘主義哲学の体系には、現世は「一者」のごとき根源的全的存在から分節された下層世界であるというとらえ方がある。神秘主義者はこれをもって、自分が根源的全的存在と遠くは”つながっている””連続している”のだと考える。著者は、「わたしはなぜ存在するのか?」という問いに対して、これらを踏まえて「わたしとは、宇宙根源の分有としてここに存在するものである」と答える。ではなぜ根源は分節され下層の各存在へと分有されねばならないのか。逆に言えば「一者」は「一者」のままでいれば完全だったではないか。なぜ神は世界をこのように醜く悪く創ったのか?このさらなる問いは古くからの異端者の問いでもある(グノーシス主義など)。これに対する著者の見解もユニークだ。いわく、世界は「経験」されるためにある、と。だから、世界はより豊かに再帰する。とすれば、真の己を知るということは、根源から出て根源へと帰る根源分有者として己を知るということであり、自分を完成させることが世界の完成につながるのだということになる。単純といえば単純だが、俗流スピが跋扈する現在、一応は伝統を参照した上でこのようなブレていない図を描くことには意義があるだろう。
言うまでもないが、このような図は同時にいくらでも悪用が可能である。中沢新一ーオウム真理教的なるものも、超越ビリーバーは皆この図を援用しているのだ。菅原は中でヘブライズムと現代哲学をさかんに攻撃しているが、まさにこのような図にはユダヤ思想や現代哲学が徹底的に向き合ってきた「〜に対して」という発想が決定的に欠けている。「一者」が分節するとしたら、それはただ分節するのではなく、何かに対して分節するのだ。というか、分節すること、現象すること、そして存在することとは、つねに「何ものかに対して」という形で生起する。たとえば言葉が独り言われるということはない。言葉はつねに何かについて誰かに対して言われる。たとえそこに応える誰もいなかったとしても。たしかに根源には「はじめに言葉ありき」。しかしそれは遠い遠い誰かに対して呼びかけることではじめて「光あれ」という実現を開く。超越の思想というのはえてしてこのことを取り逃す。取り逃すと、外へ他者へ開いていくことを止め、同一性を反復コピーすることになる。スピリチュアリズムの罠の典型だ。このような内部に閉じ込められた者にとっての「覚者」「悟り」「超越体験」「ニルヴァーナ」「天国」etc...はすべて自分の延長、自分の反復コピーにすぎない。そうではなく、自分を他者に対して反復することにおいてはじめて、根源からの分節化はズレを織り込むことができる。同一性に差異を引き入れることができる。これこそが菅原が、わたしと世界が存在する意味、目的とした「経験」に他ならない。そしてそのような哲学は、実はプロティノスにも中世哲学にも含まれているのだ。
そういうわけで、本書は好著ではあるが、それは使いようによるなあというところだ。もうひとつ、上記のブログを見れば分かるように、菅原はレイキ系ヒーリングなど、スピリチュアル産業に足を突っ込んでいる。だとすれば、やはりそのあたりのところをどのように自らの「霊性哲学」のなかで構造化しているのか、今後しっかりと明らかにしていくべきだろう(大学でどんな授業をしているのか知らないが)。くりかえすが彼はこの界隈では貴重な人材だ。それはいわば学問とスピリチュアリズムの間のメディウム、翻訳者たりうるからだ。そのあたりをどう歩まれるのか、今後ウォッチさせていただきたい。
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荻窪のささま書店で後藤明生『壁の中』が出ていた。
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