『長江哀歌』の原題は『三峡好人』である。それはブレヒトの戯曲『セツアンの善人』からとられたという。セツアンはまさに三峡のある四川省であり、まさに三峡=セツアンの・好人=善人というわけだ。戯曲の物語はこうだ。おひとよしの貧しい娼婦のもとに、旅人に身をやつした神がおとずれる。神は女の心の美しさをみとめ、金をわたす(!)。女はそれをもとでにタバコ屋をはじめるのだが、周囲のひとびとはよってたかって彼女をくいものにしようと、たかる。このままではすべてをうばいとられてしまうというとき、女はふたりの人間に分裂する。良い女と、悪い女に。悪い女は、たかる人々をたたきだし、店をまもる。しかし、女はふたつに引き裂かれたことでくるしみ、神に助けを求める・・・。
『セツアンの善人』はしばしば資本主義の悲惨さを描いた寓話だと解釈される作品だ。また『長江哀歌』も古きよき故郷がうしなわれ資本主義の悲惨にさらされる田舎の善良なひとびとを描いた寓話だと解釈されている。しかし、僕らが生きているのは、もはやそのような単純な状況ではない。共産主義や資本主義、人情や金銭、心や物質が、衝突するこの現実において、ひとが二重に「引き裂かれる」ことそのものが主題になっているのではないか。女にたかるひとびとすら、あるいは善人が「引き裂かれ」た姿ではなかったか。悪か善か、ではもはやない。金か心か、ではもはやない。人は、この世界で、引き裂かれた両面として同時に生きていかざるをえない。
なにがリアルでなにがフェイクなのか。絶対的な基準などもうない。神ですら金をわたすことしかできない。僕らはその金で店をいとなむことしかできない。善人はもはやただ善人であることなどできない。真実と嘘、善と悪、神と無、それらが衝突し、おりかさなり、まじりあったダムの底の澱ような世界で、僕らは生きている。
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なぜ、映画のなかで男と女は出会うことがないのか。キエシロフスキやアルモドバルやエゴヤンの映画ならばまちがいなく街角ですれちがっていただろう二人は、ここはでまなざしをかわすことすらしない。
男は再会するために妻をさがす。なぜいま16年もたってさがしにきたのか?ひとびとは彼に問うだろう。明確な理由はしめされない。女は別れるために夫をさがす。なぜいまその決断をせねばならないのか?ひとびとは彼女に問うだろう。
男は、妻に逃げられたことで、みずからはしらず16年間「失われた時」にいたのだ。彼は、そのことにきづいた。そのとき、もはや16年前はすぎさった過去などではない。そこから未来が到来する「いまこのとき」なのである。だから、どれだけ時間がかかっても、三峡で妻を待つのだ。失われた年月の長さなどなんら問題ではないのだ。再会した妻がどれだけ悲惨な状況にいようと、どれだけ年月が彼女を醜悪にしていようと、なんら問題ではないのだ。膨大な借金を背負うことをせまられ、そのことによって再会は長い危険な仕事を経たはるかさきのことであるとしても、なんら問題ではないのだ。彼はいま、過去と再会することで未来へとつながり現在を新生している。
女は、連絡をよこさない夫を待ちつづけてきた。ふつうにかんがえれば、ダム工事で新興成金となった夫を持ち、自由をあたえられた妻は、中国ではむしろ幸せの類型のひとつなはずだ。ましてや、おそらく、彼女はいまだ夫を愛している。しかし、待ちつづけるという受動の姿勢は、彼女にとって「失われた時」だった。それは止まった時間だった。彼女にとっての「いまこのとき」は、夫と別れることによってのみ到来する。彼女は、そのことにきづいた。だからこそ決断するのだ。それは、夫が浮気をしているからなどという通常の動機からではない。彼女が別れの理由として口にする、別に愛する男ができたなどというのはおそらくは嘘だ。彼女はいま、停止したままつづく失われた時としての現在−未来を否定することで、新生へとつながる「いまこのとき」を手にする。
ここでは単線的な時間ではとらえられない時間が二人に仮託されて描かれている。それぞれのあゆむ時間はことなる。だから、交錯することはない。二人は「引き裂かれた」人、この世界でくるしみのたうちまわり生きようとする「善人」なのである。
そのような異常なる跳躍の時間は、まさにぶつかりあう世界の谷間としての三峡において、あやうげになしとげられていく。だから、二人それぞれの再会/別離は必ずダムを背景として描かれねばならなかった。このようにして二人を見たとき、この映画の視線、戦略が、いかにアクロバティックかつ精緻な構造であるかに慄然とする。いま、世界を描くには、たしかに『鉄西区』か、そして『長江哀歌』のようにあるべきだと、そしてそれを見る僕らはその違和感をもらさず味わいつくして食べねばならないのだと、思わずにおれない。
だから、映画は工事中の三峡ダムという現場でフィクションとしてつくられねばならなかった。だから、そのつくりかたは現実と非現実を奇妙におりまぜたものでなけらばならなかった。だから、二人の似た/違う男女がそこにやってこなければならなかった。それが”三峡好人”なのだ。
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ついでに、物議をかもしている奇妙なCG映像について。賈樟柯はインタビューでそうした映像について「中国の発展があまりにも早くて、派生して起こる出来事が理屈では説明出来ない、現実味がないと感じたから」だの「あのビルは非現実的で町にしっくりこないと感じました。“異星人がどこかから持って来た”と言われてもおかしくないものなので、『どこかに飛んで行ってしまえばいいのに』と思った」だのみごとな韜晦をしている。ほんとうは、この映画の映像すべてが、単純な「現実」などではないのだ。そのブレた現実の非現実性をしめすかのように、あるいは非現実が現実をつきやぶるかのように、UFOやロケットは飛んでいくのだ。現実でないのに現実のように見えてしまう世界の、見えざる境界をしめすこと。だから、あれらの映像は一種の倫理的なメッセージだとすら考えられる。
ラストカット、男がふりかえると、ビルとビルの谷間に渡したロープの上を誰かが綱渡りしている。おそらくはCGだろう。もはやわかるとおり、それはズレてブレた世界のあいだを、ギリギリのバランスをとりながらあやうくすすんでいく彼ら主人公たち、そして僕ら自身の姿なのだ。
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