ハインリッヒ・フォン・クライストは『ペンテジレーア』を1807年に完成した。敵であるアキレウスを愛したアマゾネス族の女王ペンテジレーアの絶望。あの傑作喜劇『こわれがめ』の直後にこの大悲劇なのだから、その感性の底は知れない。
ペンテジレーア (プロートエの話の間、そっちには顔を向けず太陽を見つめている)翼いっぱいに拡げて、ざざっと大空をかきわけていけたらなあ―!
プロートエ えっ。
メーロエ ーなんのことを言ったのだろう。
プロートエ なにを見ていらっしゃるのです。女王さまー
メーロエ なにをあんなに目をー
プロートエ 愛するお方、ご返事ください。
ペンテジレーア 高すぎる。確かにそうだ。高すぎるーあれば永劫のかなたを炎となってへめぐりながら、思いこがれるこの胸のまわりにたわむれかけている。
プロートエ 誰のことです、女王さま。
ペンテジレーア もういい、もういいーどう行ったらいいのです。
(気をとり直して立ちあがる)
メーロエ そう決心を固めていただけますね。
プロートエ それではお立ちになりますか。ーさあ、女王さま、巨人のように頭を持ち上げなさい。ー冥界全体があなたにのしかかってこようと、倒れてはいけません!立つのです。しっかりと立ちなさい。石を積んでつくったアーチが、まさにその積み石のどれもが一斉に落ちこもうとするからこそ、空中につっかい合っていられるように。あなたの頭を要石になぞらえて、神々の稲妻に向かって差し出し、ここに落ちよと叫びなさるがいい。そうすれば、仮に真っ向乾竹割りに足もとまで裂かれたって構わない。でもその心底では、一向にたじろぐ必要はありません。その若い胸のなかで一つの気迫が、漆喰と積み石をつなぎとめている間は。さあ、手をお預けください。
(沖積舍『クライスト全集』第二巻『ペンテジレーア』第九章、佐藤恵三訳)
シュテファン・ツヴァイクのクライスト論(『デーモンとの闘争』みすず書房)のなかに上のプロートエの最後の台詞が引用されていたので、はっと気づき、『ペンテジレーア』を読み返した。専門家には常識なのだろう、佐藤恵三はここに訳注を付けてくれていて「石を積んでつくったアーチが・・・この比喩はクライストが実生活でもよく用いた比喩。一八〇〇年十一月十六日付の婚約者宛の手紙でも、ヴュルツブルクで観察したこととして述べられている。」と解説する。その通りなのだが、そんな軽いものではないのではないか。
この手紙とは、クライスト23歳の秋、いまだ作家となる前、恋人ヴィルヘルミーネに宛てられたもの。なぜヴュルツブルクに滞在していたのかは、持病の療養、手術のためとも伝えられるが、はっきりしない。手紙によれば、その日の夕方、いつもの散歩の途中で、彼はある種の「啓示」に遭遇するのである。
クライストは、いつもと同じように、ふさぎこんで、独り歩いていた。町へ戻る道すがら、石組みの丸天井を門をくぐり抜けた。その瞬間、問いがひらめいた。いったいこの門は支えるものもないのになぜ崩れ落ちてしまわないのか?同時に奇妙な答えが到来した。それは、すべての石が同時に落下しようとしているからである、と。そして彼はそこに救いを見出す。すなわち、すべてのものがわたしを倒そうとするとき、わたしもまた持ちこたえるだろう、と。
当然ながら、これは異様な感覚である。常識としてはその見解は間違っている。フランクフルトの大学で数学と物理学を学んだクライストがアーチ構造の力の分散をを知らないはずがない。つまり、それは物理法則とはなんら無関係な、ある絶対的な了承だったということだ。
プロートエがペンテジレーアに言っているのはこれとほとんど同じことである。つまり「啓示」を伝えているのである。クライストが悲劇の主人公ペンテジレーアに伝えているのである。あるいはもしかすると悲劇の主人公にかさなりつつあるクライストが自身に対して「啓示」を反復しているのである。もっと言えば彼にとっての「悲劇」や「喜劇」ということの核心もここにあるのではないかと予感する。
世界は崩落している。その真下に僕がいる。まさにそのことによって世界は成立している。はっきりとキチガイの領域の認識である。ここには人情や倫理というものは介在しえない。無慈悲な「力」と、そのまっただなかでの逆転。そのことにいっさいの本質を帰すということ。拾い子による「悪」。ミハイル・コールハースによる「革命」。チリにおける「大地震」。そしてペンテジレーアの「愛」。クライストの作品群におけるこれら「神的暴力」(ベンヤミン)への肉薄は、崩落の瞬間において人間に何ができるかについての、史上類を見ないシミュレーションなのだ。
「でもその心底では、一向にたじろぐ必要はありません。その若い胸のなかで一つの気迫が、漆喰と積み石をつなぎとめている間は。さあ、手をお預けください。」
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