トラブル解消法 人間の価値
ぼろは着てても心の錦という歌の歌詞にいたく感動したこともあった。
外見で人を判断しがちである。相手が人をどう見ているか判断するにはこの手が一番だろう。わざとこじきのようなかっこをして近づいたときにその人の本心が出てしまうのだ。
貴公子のスタイルの人の前に出れば誰だってかっこをつける。猫をかぶる。
般若心経を世に現した三蔵法師のエピソード
インドへ仏教の神髄を訪ねて旅にでようとした若き三蔵法師が旅行の許可がおりず追われる身となって出発した矢先、立ち寄った寺の門前で病気の老人を見かけた。三蔵は見てみぬふりができず、急ぎ旅でありながらその老人を介抱するのである。「私のようなこじきのの身をよくぞ看病してくださった。なかなか立派な若者とお見受けする。インドへの旅は命がけになるだろう。困ったときはこのお経を唱えなさい。」そのこじき老人が実はインドの高僧の化身で、般若心経を三蔵にさずけたといいつたえられている。
私は自分をこじきの姿に見せることはあっても、貴公子に見せたいとは思わない。真の友をえるために。
美人、セクシー、美男、性的魅力による男女の結びつきは電撃的である。一目ぼれもある。しかしそういう結びつきは魅力が薄れれば愛情も薄れてしまうのも当然である。夜に恋に落ちて一夜を共にし、朝起きたときの化粧のない素顔を見たら幻滅してしまう人だっている。
一番汚いもの、たとえば排泄物まで愛しているのが本当なのである。
美人に生まれ、いつもちやほやされていても、それに甘えていたら年令と共に美貌が衰えたとき残るものはと考えたらさみしくなる。
どんな人も欠点や見苦しいものを持って生まれてきている。だからこそそれをカバーしようと成長ができるのである。完璧なかたちで生まれてきたとしたら成長する必要もなくなってしまう。
人生は修行というのはそういうことだ。
だれもが自分の持っている欠点に押しつぶされそうになり、苦悩している。
多くの若い男女は自分に魅力がないと思い込み悩んでいる。また絶望の中から開き直って自分はどうせ持てないんだからと努力を放棄してしまう者も多い。
だがしかし、魅力という物は外見ではないことに気がつくこともある。ある国ではやせていることが美であり、ある国ではふとっていることが美であり、同様に色の黒い、白い、鼻の高い低い、目の大きい小さい、など美の判断は一定ではない。
それでは決定的に感じられる、目が斜視であるとか、歯が出ているとか、頭髪がなくなったとか、乳房が小さいとか、もっと切実に衝撃的に起こり得る、性器の形や色大きさなどがひとと違っているなど。これらも整形手術などでいとも簡単に対処できる。
もともとは小さくて手術によって大きくしても、心に安定がなければ、今度は不自然ではないか、大きすぎやしないか、整形がばれやしないかと不安は解消されない。
つまり問題は外見ではなくて心、内面なのである。
どんなに醜く生まれても、ヘレンケラーのように生まれながらに欠点の度合いが大きくとも心に欠点がなければ他人はそれを欠点とは見ないのである。
ここで例をあげておこう。
「のりこはいま」という映画があった。両手が生まれながらにない少女が立派に成長していく記録映画である。そのシーンの中に、足で化粧をしている場面があるのだが、言われなければ手で化粧をしているように見えるのである。
手の指が2本しかない子供が生まれたら母親のショックは大きいだろう。
しかし、本人ははじめそれについて何とも思っていない。成長したある日、子供は母親に聞くのである。「私の手はどうして2本しかないの。」
ここで母親がどう答えるかによって、この子の将来に大きく差がでることは容易に想像できる。日本ではどうしても隠して生きようとしがちである。かつては一生涯手袋をはずさないということもあった。
母親が妊娠中に飲んだ薬の作用でこのような奇形を生んでしまった。母親は悔恨の情にさいなまれる。ここで意識の転換が必要になってくる。
しかし母親はかくそうとはしなかった。「さっちゃんの魔法の手」という絵本を出し世に問いかけ、積極的に生きようとした。
いいろいろなことを感じた。瞑想の力もその一つ。
人と出会いたいと瞑想した。その結果出会うことができた。
気功と瞑想の理論
気功を続けると入静状態になるこれは瞑想状態と同様である。
気功で言う入静は大脳が休まっている状態である。こうなったとき気エネルギーは蓄積されはじめ体にいい変化が起きてくる。
気功の三要素である調身、調息、調心。
調身は姿勢と動作を調整すること。調息は呼吸、調心は意識と神経を調整することである。
瞑想に応用できる内養功
背筋を十分に伸ばし、リラックスして呼吸法を行う。内養功の呼吸法は息を吸って止めるときに舌を上の歯茎の裏側につけ、息を吐くときに舌をゆるめる歯茎からはなす。さらに息を吸うとき「私は」、息を止めるとき「健康に」、息を吐くとき「なります」、などと念じるというものである。
気功でいう入静は精神の統一とか集中とは違う、緊張してはうまくいかない。あまり一生懸命にならないように行う。
この状態は放鬆(ほうしょう)という気功用語に現されている、
緊張のない状態であるが、弛緩ではない。適度な緊張と弛緩が同時にある状態と言われたりしている、気功状態であり、放鬆が深まっていくなかで入静も深まってくるといわれる。
意識と無意識は連携している。意識より無意識は強力な働きをしている。
瞑から想に
瞑はこんとんとした入静の状態ににていて雑念の少ないゆったりとした状態であるが、睡眠とは異なる脳が休んでいる状態。想は休んだ脳の一部がある想念を持つ。
このときに意識と無意識がつながりやすい。つまり、すりこみ、条件付けを改善しやすくなる。一方では洗脳されやすい状態ともいえる。
呼吸は意識的に行うと、肋骨の周囲の筋肉や肩の筋肉が動くが、無意識でも横隔膜によって休みなく行われている。
横隔膜は肺を動かしているが、この横隔膜は強靭な筋肉に胸膜と腹膜とでサンドイッチにのような構造をもっている。そして生まれてから死ぬまで意識しているといないとにかかわらず、動きつづけているが、この横隔膜の動きが不自然になると体調も狂ってくる。普通は無意識に動いているが意識でも動かすことができるため、意識と無意識の接点になる。
無意識を呼吸を意識することによって作用させていくということである。
物体は人間も含めて「気」を出している。
人体は「気」を感じることができるようにできている。
たましい磨き
気という観点からみるとたましいから発せられる光が気の一種と考えられる。たましいが濁ってくれば発する気も人を引きつけなくなる。気功と瞑想によってたましいが磨かれ、自信が生まれ、他人の気にふりまわされにくくなる。
他人の気に振り回されている人がいかに多いか。
人生は修行である。
一見どんに成功しているよううに見える人も、山あり谷あり、その実は気持ちの浮き沈みも激しいものである。
たましいのふれあい
その人と一緒にいると楽しいとか、人間的魅力を感じるとか、相手から影響されているように感じるが、実は鏡のように自分自身の発するものが反射しているのである。自分のたましいの波動が相手に伝わり、戻って来て感じているのである。
そういった感覚は、その人がいないところでも、想像したり写真をみたりすれば容易に再現できる。このような一種の錯覚は、日常の感覚の中では、その人からある種の気を受けたと解釈されている。
意識的にいいものを発してやれば相手にいい影響を与えてやることもできる。
意識変革がなされ、自分のいい気が相手にとどくようになってくると、自分の前に現れる人たちはいい感じの人ばかりということになってくる。
自分自身の欠点を重く感じているが欠点は宝物なのである。
たとえば完璧な美人に生まれた人はみなからちやほやされるうが、本当に愛されるということは感じにくい。
醜く生まれた人は、そういう自分を認められたと感じたとき強く幸せを感じる。

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