今日で夏休み前の神学校のヘブライ語の授業は終わり。
ヘブライ語の「愛」という言葉に思うところがあった。
「愛」にはいくつかの種類がある。と、ギリシャ語では教えられた。
これは、プラトンなどギリシャ哲学でもそうだ。
「アガペー」 これは「神の愛」で「博愛」「隣人愛」に近い。
「フィレオ」 これは「友愛」でより人間的な愛情。家族愛も。
「エロース」 これは「性愛」で恋情など一段低いものとなる。
新約聖書を読んでいると、この区別に出会うことがある。
例えば、ヨハネ福音書のラザロの復活のところ。
ユダヤ人たちは、姉妹のマリアとマルタもそうだけど、イエスはラザロのことをフィレオしていたと思っていた。しかし、イエスはアガペーしていたのだ。
だから、ラザロを復活させた。そして自分もやがて人類の罪を背負って十字架にかかり復活された。
もっとも有名なところでは、同じくヨハネ福音書の最後のところ。
復活されたイエスは、ペテロに三度問いかける。
「おまえは、わたしのことを愛しているか」
そのたびにペテロは答える。
「もちろん、愛しています」
しかし三度も聞かれたので悲しくなってしまう。するとイエスは、「あなたの羊を飼いなさい」と答えたという話。
ここで原文のギリシャ語を読むと、二度めまではイエスは「アガペ」で聞き、ペテロは「フィレオ」で答えている。しかし三度目にはイエスも「フィレオ」で尋ねた。つまり、こうなる。
「おまえは私をアガペしているか・愛しているか」
「もちろん、フィレオしています・好きです」
「おまえは私をアガペしているか・愛しているか」
「もちろん、フィレオしています・好きです」
「おまえは私をフィレオしているのか・好きなのか」
「そうです、フィレオしています・好きです」
つまり、イエスは神的なアガペーの愛を問うているのに、ペテロは人間的なフィレオの感情で答えている。だが、最後にはイエスさまが歩み寄って、ペテロの目線まで降りてきてくれたのだ。
これはこれで良い話である。しかし……
ヘブライ語の「愛」「ahabah アハバ」には、そうした厳密な区別はない、という。
これには、ちょっと驚いた。
男女の熱烈な恋愛が、民族の同胞愛にもなれば、神への愛にも結びつく。
それらの根源にある、人間を愛する気持ちは、どれも変わらない。
私はそのことを聞いて、旧約聖書の雅歌を思い起こした。
雅歌は、旧約文学の中でも、私がもっとも好きなもののひとつ。
男女の大らかな愛が歌われているところは、日本の古代文学で言えば「万葉集」の相聞歌を思わせる。当地の結婚式などで昔も今もよく歌われるらしい。
もちろん、雅歌がユダヤ教の正典として生き残るためには、その愛は神さまやイスラエルに対する愛だ、とする理由付けがされていた。
しかしそれは、中国で言えば「詩経」と同じで、君子や王様に対する愛であると言われているが、やはり元は大らかな男女の愛を歌う民謡なのだ。
こうした恋愛文学をも含むところが、旧約の懐の広さだ。
わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく
ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。
あなたの香油はどんな香り草よりもかぐわしい。(雅歌4:10)
城倉先生は、言われた。
「だから、ヨハネ福音書の使い分けは、あくまで筆者の解釈に過ぎない」
なるほど、と思わされた。
先に挙げた、イエスさまとペテロの最後の三たぴの問答でも、本当にそのように会話で厳密な使い分けがなされたのか。それではあまりにペテロが愚鈍すぎる。
このギリシャ語の使い分けは、従来の日本語や英語の訳を見るとどこでも訳されていない。けれども、それは元のヘブライ語でも同じだったかもしれない。
「わたしのことを好きか」
「もちろん好きですよ」
実際には、そのようにイエスが問い、ペテロが答えたと考えるのが自然だ。
なぜなら、イエスさまもペテロも、ヘブライ語で話していたのだから。ギリシャ語の区別が原語上でできるわけがないのである。
では、なぜ、イエスさまは同じことを三度も尋ねたのか。
そこに、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳したときの、福音書記者の解釈が込められている。
きっとイエスさまは、アガペー的な意味で聞いたのだろう。それを、ペテロは、フィレオ的な意味で答えたのだろう。これはひとつの解釈なのだ。
「翻訳 interpretation」には、「解釈」という意味もあるのだ。
しかしイエスさまは、ほんとに三度同じことを聞いたかもしれない。それはペテロの堅い意志を聞きたかったのだろう。おまえは鶏が鳴く前に三度私を否定するだろうと言った時のように。
そして、ペテロの意志がゆるがないのを見て、では、私の羊を飼いなさいと信徒たちの牧会をゆだねたのだ。さらに、イエスさまはその直後に彼の殉教をも予告している。これも彼の意志の固さを三度確認したうえだからだろう。
今までギリシャ語を学んでいて、当然と思えたことが、ヘブライ語ではそうではないということ。これは、ヘブライ語で語っていたはずのイエスさまが、ほんとうはどのように考えていたかを知るのにはとても重要なことなのだ。
私たちは、新約聖書を読むときに、あまりにギリシャ語的な発想にとらわれすぎていないだろうか。
「愛」について言えば、アガペーを、人間を超越しているがゆえに、「冷ややかな愛」ととる人がいる、ということが気になっている。
悪人も善人も、人間も動物も草木も、みな同じ造られたものとして、神さまは平等に愛している。それは、冷ややかな冷めた愛ではないかと考える人がいる。
しかし、断じてそうではないと、私は思う。
神様は、男女の愛のように熱烈な、友人や家族に対するような親密な、人間的な愛情を持って、私たちを愛してくれている。
よく旧約では、神は「熱情の神」であると言われるが、古い訳では「ねたみの神」となっていた。自分以外の神さまを好きになったりすると、嫉妬する。そんな人間的な愛情なのだ。
それから、エロースというと、一段低い愛のように語られる。
キリスト教というものの感覚として、どうも性愛や男女愛を低く評価し過ぎるような気がしている。しかし、男女の愛、夫婦の愛、家庭の愛というのも大切なものだ。それは人倫の基本なのだから。
もちろん、それがみだらな欲情、道を外れた恋、不倫になってしまってはいけない。だが、男女や親子の愛というものは、神さまへの熱烈な愛と根源は同じだ。
私たちは神様を「アッバ」パパと呼んで、もっと大好きになっていい。
そして神様も、私たちをまるで我が子のように愛してくれているのだ。