今夕は教会のみなさんと納涼会と称して一杯飲んだ。
牧師を囲んで親睦を深めるための会で、今回が2回目だ。
今度、新しく教会附属の幼稚園と教育館を建て直すといった堅い話に始まり、ふだんの教会生活、あるいはそれぞれの日常生活のことなどいろいろと話した。
一方で、みなさんやはり真面目な勉強家で、聖書の色々な解釈や教義の話も出ていた。そのなかで特に「セカンドチャンス」の話が記憶に残った。
前にこのブログでも話したのだけど、私は「セカンドチャンス」が気になっている。
キリスト教の信仰を持たずに死んでしまった人に2度目のチャンスはあるのか。
もしそれが無いとしたら、99%がクリスチャンでない日本において、ご先祖さまや大多数の非信者は地獄に堕ちて終わりだというのか。
この点について、昨年の夏季講習「キリスト教倫理」でも、今年の夏季講習「死生学」でも、講師の設問に手を挙げて質問した。
いずれもその場にいた、うちの教会の松村先生は記憶にとどめておいてくれたようだ。だから今日、一杯飲んだついでに話してくれたのだろう。
「セカンドチャンスの話だけどね、ぼくは反対なんだ」
いきなりそう言うので、これは私への挑戦か非難かとちょっと身構えた。
しかし、何か反論しようと考えるひまもなく、続けて先生は言った。
「ぼくはね、みんなが救われていると考えているんだよ」
なぁんだ、そうなのかとちょっと拍子抜けするような気もした。
最初からそれが結論だったのか。しかし好感を持った。
カールバルトの寛容な赦しの考え方に、論敵が言った。
「あなたの考えだと、地獄にいく人はいなくなりますね」
「そうです。あなたが死んだら地獄が空っぽで驚くでしょう」
そんなエピソードを思い出して、コメントしようとした。
だが、続けて先生は、このように言ったのだ。
「その赦しを、先取りして生きるのがクリスチャンだと思います」
う〜ん、なるほどと、感嘆する思いがした。
死んでから、なんだ、赦されていたのかと気づく。
しかしそれでは、生きている間の生き方には何も反映されない。
自分は無条件で赦されていると信じる。
その時、生き方が前向きになり、よりよく生きることができよう。
まず初めに、赦しがあり、恵みがある。
それを知ったときに、喜びがあふれ、感謝に生きる。
イエスは言われた。
「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
(ルカ17:17,18)