紫の衣

 
 イエス茨の冠をかむり、紫の衣をきて出で給へば、ピラト言ふ。「この人を見よ」(ヨハネ19:5)

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投稿者:taejeon
hopeさん、こんにちは。

 聖書をよく読み込んでいらっしゃいますね。
 確かに聖書にはそういう万人救済説ではない見方の言葉も見られますね。

 これは私自身の解釈なんですが、「すべての罪が無条件に赦されている」と書いてしまうと、「じゃあ、何でもやってもいいんだ」と考える人がけっこう多い。私がある人にそういう話をしたら「だからキリスト教国でも悪いことをする人が多いんですね」と言われて、困ったことがあります。
 だから、「油断するなよ。なかには地獄に堕ちるやつもいる。それに自分ではいいことしてるつもりでも、本当に正しいか省みて常に謙虚になれよ。」といったようなことを書いておかないといけないと思ったのではないかしら。

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」(ローマ6:1-2)

 こういった意味のパウロの言葉、ほかにも見られます。神の恵みによって救われたんだからもういいやと罪を犯し続けるのではなくて、罪の生活をやめましょう、と言う。それは私たち心弱い者がついそうなってしまうからでしょう。

 また、いくつか挙げられた引用は、すべて手紙の筆者たちの言葉ですが、やはり福音書のイエスご自身の言葉によらなくてはならない。そうすると例えば、

「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」(マルコ3:28)

 とこう言っている。罪はすべて赦される、とおっしゃっている。すべて赦されるというのは、つまり、すべて救われて天国に行けるということでしょう。
 もちろんイエスさま自身の言葉でも、ずいぶん厳しいことを言われているところもあります。しかし、生涯の途中ではなくて、最終的にイエスさまがどうおっしゃったか。すなわち、十字架上でどう言われたか。

 そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。
 自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 父なる神は、イエスの言葉に応え、私たちすべての罪を赦された。
 右も左もわきまえない、罪なる人々をも、すべて救われたのです。
投稿者:taejeon
> 「自分は熱心に信仰し心正しく生きているのに、救われないかも。それに引き換え、放蕩に、他人に迷惑を撒き散らしながら生きてるアイツの方がむしろ救われるかも」

 そうなんですよね。そう考えるとたまらない。だから私は「私もいいかげんなところがあるけど救われる。アイツも見かけによらずいいやつかもしれないから救われる」という万人救済説が好き。

 ただ、来世はともかく現実の世の中で、因果応報的にいかないということはしばしばありますね。
 ヨブ記を読むと、義人ヨブが神を信じ行いが正しいのに、現世的に報われなかったりする。
 また、コヘレトの言葉には、さらにこういった言葉がある。

「この地上には空しいことが起こる。
 善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり
 悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある。
 これまた空しいと、わたしは言う。」(コヘレト8:14)

 達観してるというか、冷めてるというか。
 すべてが空というのは、虚無的ですね。
 けれども、この言葉はこう続いている。

「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
 太陽の下、人間にとって
 飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
 それは、太陽の下、神が彼に与える
 人生の日々の労苦に添えられたものなのだ。」(8:15)

 空しい人生だけど、とりあえず毎日の日々を飲み食いして楽しく生きようと言う。現世的だけど、現実的かもしれません。
 ただ、コヘレトは神を捨てたわけではなく、そうした日々のささやかな喜びも、人生の労苦に耐えて生きていることへの、神さまのご褒美と信じているわけですね。
 人生に否定的な方が読むと、心に触れるものがあるかもしれません。よかったら、読んでみてください。
投稿者:hope
いつも楽しみに読ませていただいているものです。

 さて、聖書を読んでいますと、どうも、パウロという人は、万人救済主義者ではないようですね。

2コリント2章15節
「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」


1コリント16章21節〜
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」


ペテロの手紙を書いた人もそうみたいですね。

2ペテロ2章12節
「この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」


ユダの手紙を書いた人も、そうみたいですね。

1章7節「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」


これらは、ほんの一部ですけれども、このほかにもたくさんの箇所で、聖書記者たちが「救われる人」と「滅びる人」ということを前提に書いた言葉に正直、ぶつかりますね。


どうしましょうね。
投稿者:kappe
> 特定救済説を唱える人も、そんな浅薄な
> 意味で言っているのではないでしょう

 えぇ。牧師さんは特にそうでしょうし、一般信徒も表向きはおっしゃるとおりでしょう。
 ただ、あぁいう身も蓋もない説(予定説、特定救済説)を信じるには、深層心理では私が書いたように思っていないとやっていられないと思うんですよね。「自分は熱心に信仰し心正しく生きているのに、救われないかも。それに引き換え、放蕩に、他人に迷惑を撒き散らしながら生きてるアイツの方がむしろ救われるかも」なぁんて思ったら、「やってらんないっ!」と感じませんか?


> 自分を愛するにはどうするかといえば、
> それは、神さまが私たちを無条件で愛して
> くれていると知ることだと思います

 そうなのかもしれませんが、私、愛情嫌悪症なので... 例えば、幼児の頃、親にハグされるのも大嫌いでした。神のことがキライなのも、一つにはその嫌悪症のせいもあります。「お前のことを愛しているよ」と言われると、無条件で腹が立ちます。

 なので、まぁ、解決の道はない。
投稿者:taejeon
 自分を愛せないということですけど、人を愛するには、まず自分を愛するということが出発点になりますね。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」
  (レビ19:18)(マルコ12:31ほか)

 では、自分を愛するにはどうするかといえば、それは、神さまが私たちを無条件で愛してくれていると知ることだと思います。
 私も失敗や挫折で自己嫌悪に陥ることはしょっちゅうですが、こんなだめな自分でも神さまは愛してくれているんだと思えば慰められます。

「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)

 人間以外の動物にも、仏性というか、霊性があるかということですが、ちょうど「カラマーゾフの兄弟」を読んでいたら、こんな言葉が書いてありました。

「キリストの言葉はあらゆるものためにあるのだ。神の創ったすべてのもの、あらゆる生き物、木の葉の一枚一枚が、神の言葉を志向し、神をほめたたえ、キリストのために泣いている。自分では気づかぬけれど、けがれない生活の秘密によってそれを行なっているのだ」(6篇2-b)

 それでも、人間は他の動物よりいっそう高い霊性を持っていると思います。ですから人間の命というのは、尊いものです。

 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世1:27)
投稿者:taejeon
 特定救済説についてですが、
>「自分はこんなにいたらないけど、きっと神様の予定に入っているんだ。昔の恋人のあの人や、ノンクリの父母兄弟もきっと予定に入っている。」
という点は確かに私の好みですし、そうであると思うのですが、
>「それに引き換え、熱心なクリスチャンだけど自分と気の合わないアイツは、きっと神様の予定に入っていないに違いない」
というところは違うと思いますし、そもそも特定救済説を唱える人も、そんな浅薄な意味で言っているのではないでしょう。
 私の理解では、彼らの考え方はおそらく逆だと思います。人間的な目で見て「あの人は良い人だから救われるだろう」と思ってもそうではないかもしれないし、「あいつは嫌な奴だから地獄に堕ちるだろう」と思ってもそうではないかもしれない。
 神の考えというのは私たちが勝手に類推できるものではなく、あくまで生死を司る主権は神にあるということだと思います。

「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
  (ローマ10:6,7)

 しかし私は、主イエスはすべての人を救うためにこの世に来たのであるから、十字架上での贖罪が成就した今、すべての人はすでに救われていると考えます。
 それは、私たちが信じるようになったから救われたのではなく、まだ信じないうちから、罪人であるうちから、すでに救われているわけです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
投稿者:kappe
 あと、万人救済説って、大乗仏教の「一切衆生悉有仏性」の思想と、一部似ていますよね。


  > 赦しを、先取りして生きるのがクリスチャン
の考えは、禅の公案「犬に仏性有りやなきや」と似ているような。禅は不立文字の世界なので、深い部分の解説や解釈は出来ませんが。上記公案の表面的な意味は「一切の存在は仏性がある。ただ、犬は自らの仏性に気づくことが出来ないだけ」ということらしいです。ノンクリを犬に喩えるのはちょっとナニですけど、まぁ似ていると言えば似ている結論。

 真面目な宗教は、その深奥で、どこか似てくるものなのかもしれませんね。
投稿者:kappe
> 万人救済説に強くひかれて信じています

 特定救済説でも、信じ方によってはてじょんさんのお好みに合うと思うんですよね。

 「自分はこんなにいたらないけど、きっと神様の予定に入っているんだ。昔の恋人のあの人や、ノンクリの父母兄弟もきっと予定に入っている。それに引き換え、熱心なクリスチャンだけど自分と気の合わないアイツは、きっと神様の予定に入っていないに違いない」と信じられれば、それはそれで救いになりそうな。

 特定救済説を信じておられる方のお気持ちは良く分かりませんが、上記みたいなことを考えておられるんじゃないかしらん。

 かく言う私も、そういう「あの世」だったらイヤさが半減します。でも、まぁ、そういう「あの世」を作るような神ってイケスカナイと感じてしまうので、やっぱり特定救済説を信じる気分にはなれませんけど。


> もはや人間的な愛憎からは超越したような存在に

 それだと、自分が自分じゃなくなって、自分じゃない人が救われる、ってことになりませんか?人間的な愛憎があってこその自分ではないか、と。


> もはや苦しみや悲しみはないという

 私の苦しみの最大の原因は、自分自身が憎い、キライだ、殺したい、という点にあるんです。他人が第一の原因じゃないし、環境が第一の原因でもない。自分自身が第一原因。なので、天国という環境でも、私の苦しみはナニも変わらないと思います。
投稿者:taejeon
特定救済説と万人救済説とあるようです。
バプテストの場合も、パティキュラー・バプテストとジェネラル・バプテストという流れがあります。
本を読むと、カルヴァン派やバプテストの主流は前者みたいに書いてありますけど、教会や個人によっても、それぞれの立場があります。
そういう私は、万人救済説に強くひかれて信じています。今回、松村先生も「ぼくは万人救済説の立場なんだ」とおっしゃってくれたので、大変うれしく思いました。

>今の人生自体、ウンザリしているから。
>それに、あの世だって気の合う人ばかりじゃないですよね。

ということは、kappeさんだけではなくて、どの人にも多かれ少なかれあることだと思います。そういう私も、そういうことを思うことがあります。
でも、聖書にはこういうお話があります。

まず、黙示録の話。
黙示録は、当時ローマ帝国に迫害されていたキリスト教徒たちに対して与えられた神の言葉です。初代のクリスチャンの受けた迫害ぶりというのは今の比ではなくて、大変苛酷なものでした。彼らの人生は苦難の連続で、正直ウンザリしていた人たちもいるでしょう。
それに対して、神さまは、将来新しいエルサレム、天国の都が与えられると約束してくれました。そして、そこでは、

「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)

もはや苦しみや悲しみはないというのですね。
苦しみのない天国の永遠の命という約束は、救いとなるのではないでしょうか。

それから、七人の夫の話。
ある女が、結婚した夫が死んで、そのたびに再婚を繰り返して、七人の夫を持った。この女が復活したら、いったい女は誰の妻になるのか。
これはイエスさまに対して、復活などないと言っていた人たちが問うた質問です。これに対して、イエスさまは答えました。

「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マタイ22:30)

天国では、もはや人間的な愛憎からは超越したような存在になる。現世での人間関係も超越してしまうので、それはもういいということですね。
私は、かつて好きだった恋人を失い、今は別の人と結婚して家庭を持っています。将来天国でどうしようかと考えていた時に、この言葉をいただいて、ほっとしました。
投稿者:kappe
 たびたびコメント付けて、申し訳ありません。

 一口にキリスト教と言っても、様々なんですね。長老派(カルヴァン派)みたいに「救われるヒトは、神が予め決めている。神の予定に入っていない人は、どんなに努力してもどんなに熱心に信仰してもダメ」っていう教派もあれば、「信じるものは救われる」っていう教会もあれば、てじょんさんの通っておられる教会みたく「誰でも」っていう所もある、と。

 うーん(@_@;)。

 私は、永遠の命が嫌い(だって、今の人生自体、ウンザリしているから。それに、あの世だって気の合う人ばかりじゃないですよね。大嫌いな人も行くんだ、そゆ大嫌いな人と未来永劫一緒なのか、と考えると...)なので、ナントカ除外して貰う策はないものでしょうか...
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