日曜の礼拝で、また説教を聞いてきました。十人の乙女の灯。
有名なたとえ話ですが、今日の解説は納得ができました。
この話が気になっていたのは、以前に友人がブログで書いていたからです。
ご両親が初めて教会に来てくれたのに、説教がこの話のところで、意味がよくわからなかったらしい。残念なことだな、と同情しました。
確かに、ここの乙女たち、特に「賢い乙女たち」のふるまいは、常識的には「冷たいんじゃないか」と言われても、しかたないところがあると思います。
実は私自身も、そうかもしれないと思っていました。
でも、それはこの話のたとえ話としての意味をよくわかってなかったのかもしれないな、とそんな気がしました。
今日は、林主事が、お話の担当でした。
牧師先生ではなく、主事なのでどうかな、という気もしていました。
といっても、うちの教会はバプテストで、牧師先生がいない時には、執事や一般の信徒が奨励という形で話すこともよくあるんですよ。
で、今日の林主事の話は、わかりやすいと思いました。
天の国は次のようにたとえられる。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
そのうちの五人はおろかで、五人は賢かった。(マタイ25:1-)
これはたとえ話だと、イエス様は初めから解説されています。
イエス様はなぜ、たとえ話をよく使うのかな、と林さんは言います。それは、当時の民衆の多くが文字もかけず無学だったから。
だから、身近なわかりやすいものでたとえてお話をした。私もそうだろうと思っています。イエス様って優しい方だな、と思いますね。
みんなが救われるように考えていた。それはこの話でもそうだと思います。
ここは、花婿を待つ花嫁たち、というのが普通のとらえ方だと思います。
でも、十人がいっしょに、そして半分の五人が賢く、五人がおろか、というのはやはり、たとえ話なのでしょう。では、お話を再録しておきましょう。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。
「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」
賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。
それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、
用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、
「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。
しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。
だから、目を覚ましていなさい。
あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
まず、この話が何をたとえているか。
よく言われるのは、終末であり、主の再臨だということ。
しかし、それを怖ろしいものとしてとらえると、この話の意味がよくとらえにくくなってくる。と林さんは指摘されて、なるほどと思いました。
この話を、私もちょっと怖いイメージをもってとらえていました。
天国に選ばれないものは、門の外の暗闇に出されてしまうのかな、と。
でもね、舞台は、花婿とは花嫁の結婚式の祝宴なのです。
当時のユダヤの結婚の披露宴は、一週間も続いたそうです。
一族や近所の人や、みんなを招いてそれは盛大な喜ばしいものだった。
その祝祭の明るいイメージが根底にあります。
天国の祝宴は、花婿であるイエス様と会える、喜ばしいチャンス。
それは怖ろしい終末ではなくて、神の世界の完成。
それから、私の気になるのはセカンドチャンスなのですけど。
つまり、これらの乙女に、2度目のチャンスはあったのかな、ということ。
林さんは、明確に言ったわけではないのですが、「婚礼は一週間も続いていたのだ」と強調されたことが、ひとつのヒントだと思います。
この夜は、入れなかったかもしれない。でも、次の夜はあったはずです。
おしおきというか、こらしめのために、乙女たちを外に出してしまった主人だけど、次の夜はまた招き入れてくれるかもしれませんね。
それから、もうひとつ、大切なこと。
終末とした場合に、それは一体いつ来るかわかりません。
でも、人間には、必ず訪れる終末がある。
それは、個人の死。
世界の終末は来るかわからないけど、個人の死は確実に来る。
そして、それは明日かもしれない、いつ死ぬかはわからない。
それを林さんは指摘してくれたし、私もそういう読みが好きです。
そのように個人の死として読むと、この話は現実感があります。
おそらく、キリスト教の信仰を持たない人にも、わかりやすいと思います。
そういう私自身も、信仰が弱いので、ほんとに終末が来るのかと考えます。
あるいは、神さまはこの世を深く愛していらっしゃるから、終末はすぐには訪れなのいではないかという気もしています。
でも、個人の死は、そんなに遠くはない。寿命が延びたといっても、百年もなかなか生きられない。死は、いつかやってくる。
その時に、人は、自分の生涯に満足して死ねるだろうか。
喜びを持って、死を迎えられるだろうか。
もし、人生を充分に生きていなかったら、心残りなことがあったら、準備ができていなかったら、やはり死というのは後悔を招くものでしょう。
そして、来世はともかく、この世での生は取り返しのつかない、やり直しのきかないものです。そう考えると、いつ死を迎えてもいいように、人生を充実して生きなければならない、というわかりやすい教えになるでしょう。
そう考える時に、知恵ある乙女の言葉の意味も明らかになります。
あなたたちに、油をあげることはできない。
それは、意地悪で言っているのではなくて、そういうものだということ。
つまり、ひとりひとりの人生は、他人が代わって生きてあげることのできるものではない、ということ。それぞれの人生は、それぞれが生きるしかないということ。
無駄に油を使うもの、すなわち、神さまから与えられたタラントを無駄にしてしまうものもいるかもしれない。でも、それはその人の人生だからしかたがない。
眠っていてはいけない。
自分の油は自分で管理して、備えておかなくてはならない。
それは、人生で、自分の与えられたタラント、才能を充分に豊かに生かしていかなくてはならない、ということ。
ほかの人が代わってあげられない、その人の一度限りのこの世の人生を。
そして、充分に生きることができたときに、人生の終わりの日は、喜ばしい日となることでしょう。
この世のつとめを終えて、神さま、イエスさまと会うことのできる日。
えっと、蛇足ですが、私は個人的に耳の痛いことがあります。
それは、私がよく、寝てしまうということ。
仕事があったりする日に限って、眠くなったりしてしまいます。
そんな日が何日か続くと、自分で情けなくなります。
もっと、目を覚ましていて、仕事や勉強をしなくてはいけないな。
一日一日の灯の積み重ねが、人生を輝かせも、暗くもするのだから。
「目を覚ましていなさい」、その言葉を忘れずに努めたいものです。