「屋台(ベンダー)稼業としての事業見直し(2)」」
屋台ビジネス
その後、縁あって?アンヘレスにたどり着き、ここを故郷と思うようになってしまった。
スイス人(いまでも友達です)が経営するスイス料理屋で、妻はウェイトレスをしていた。
妻としりあったのは、2000年の雨季の真っ最中だろう。
一族で、レイテ島のジャングル(電気もない水もない。しかし、ブコやフルーツや野菜や米はとり放題)から、仕事と文明を求めにルソン島へやってきていたのだ。
だから、妻もそうだが、家族は田舎者で、アンヘレスのことフィリピンのことを全くしらない。色々なことを一から教えてあげなくてはならない。まぁ、私は、ワライ語、セブアノ語がわからないので、これだけは逆に教わっていますが
その2000年後半当時でも、BBQ屋台は、一副業としてはやっていた。
売り上げる本数は、一晩で約100本程度だったのでは。
義父と2人のおじが、昼間は、「WESTERN UNION」(送金機関)で38口径をもってセキュリティの仕事。
そして、それが終わった夜は。
ひとりのおじは、高いナイトクラブ系のセキュリティという二つ目の仕事。
義父ともうひとりのおじは、交代で、18時ー夜明け4時までのBBQ屋台をする。
もう寝ることをいとわず働きまくる人たちなのです。
しかし、この頃は、BBQが売れ残る日もあったり、自転車操業がくるしそうなときも。
早朝の仕入れは、義母ですね。
あと、昼間の仕込みは、当時は本数も少ないし、高校生の義妹や、ディスコ(健全)でコックをやっている義兄が手伝ったり。
妻とはじめてであい、妻や家族が実に古風な概念をもっているとしり、すぐ家に、大きなアイスクリームをもっていき挨拶を。そして色々交流していたのですが、妻もこの家族も実に控えめ。
ちょうどそのころ義母が腎臓結石で倒れ入院とはききましたが、私に相談もせず、極安で医師不足の公立病院に入院。御見舞いにはいきました。
あの安い公立でも、腎臓結石の手術は、総額9000ペソかかりました。
それをどうしたのか、妻にきくと、近所のインド人から借金をした、と。
それをきき、(まだ付き合いはじめたばかりでしたが)義母のもとへいき、私はあなたの息子だ、といい、早く借金を返済するようキャッシュを渡しました。
そして、本当に帰る場所がみつかったことを喜びました。
そして、私が、一族の家庭経済をよくするための大改造の監督することにし、まずは、BBQ屋台、これを根底から見直し、ここで大幅な売り上げをだし、これを本業とすることを決意し、自ら動き始めたのです。