2018/5/2


クリックすると元のサイズで表示します

「君の名前で僕を呼んで」を見た後、脚本ジェームズ・アイヴォリーの監督作「モーリス」(1987)が上映中だと気付き、映画館で見られるのは最後のチャンスかも知れないと思って行ってきました。

実は日本公開の1988年にも見たのですが、当時の私には退屈でぼんやりと綺麗な人たちと風景を見ただけで終わってしまいました。

「君の名前で僕を呼んで」が理由もわからず私に何かを残したので、果たしてモーリスは本当につまらなかったのか?確認したくなったというのが正直なところかもしれません。


・・・・30年ぶりに(ぎゃっ!)2度目を見て、若かった私には心の機微がちっともわかってなかったんだなあ!と納得。

恥ずかしいけど、イギリスのお金持ちの綺麗なお兄さん達がたくさん出てきて、それぞれの個性もよくわかってなかった。

まず主役のモーリス、この人、いい人ではあるけどかなり天然ど真ん中だったのですね。オープニングで小学校を卒業する時に、父のいない彼に性教育を施した先生の話を素直に聞き、「僕は結婚しません」と即答した少年。身体が成長して教養がついてもあのまんま。お母さんは特に厳しくもなく姉妹に囲まれ、家庭で唯一の男の子として甘やかされたんだろうなあ。基本生活に不自由なく育ってるからヒネてはなく、競争相手もいなかったから過剰な自己主張もなく相手の気持ちに合わせて行動できるいい子ちゃんである。自分の気持ちにびっくりするくらい素直でそれを表現も出来る。もっと後の時代に生まれてたら「君の名前で僕を読んで」のエリオになれたのに。

ただ、私はモーリスのキャスティングがジェームズ・ウィルビーなのが個人的に得意ではなく、昔よりは受け入れられましたが、そこがこの映画と私の距離ができちゃう理由なのは如何ともしがたい。

そしてヒュー・グラントのクライブ、一番美しくてバランスのとれた青年、モーリスを愛してたのは本当だったが、彼の場合はアカデミックな神話のような愛でプラトニックでないと「自分が汚れるような気がする」というのも本当なんだろう。その気持ちもわかる。と、モーリスは彼を尊重してたけど、本当はモーリスの方は全てをシェアしたかったんですよね。のちにスカダーとしたように。

でモーリスとクライブの愛は、クライブが着々と結婚して地位を固めていく過程で終わりになり、ー直接のきっかけとしてケンブリッジでの同級生が警察の同性愛囮捜査で捕まり社会的に全てを失うという事件がありましたー クライブには青春の1ページとしてそっと日記帳の中に収められるが、モーリスはそんな器用ではないので苦悩が始まるんですね。

牧師や医者に真剣に相談や治療を求めたりして、今だったらちょい前のエイズ患者を見るような汚らわしいもの扱いされていたのが悲壮でした。本人は真剣です。苦悩から逃れたいんですから。

この辺、原作者フォスター自身の苦悩でもあったのでしょうか。おそらく、クライブもモーリスも、後で登場するスカダーも、フォースターの分身ですよね。

モーリス・・・本音、ピュアな存在
クライブ・・・ある意味現実的な理想
スカダー・・・責任のない労働者階級だったらこんな風に行動できるかも

スカダーはクライブに「小賢しい、計算高い奴」呼ばわりされて、私もモーリスの思うようにスカダーの本心が分からなかったけれど、家族との移民計画を棒に振ってでもモーリスを求めたことがわかり、最後の最後でモーリスの心はメロメロになってしまいました。

ここで生活に疲れた私は「あの育ちの違う2人がどんなに愛し合ってもその後生活を共にしたら絶対に合わないのは目に見えている・・・」ととっさに思いましたが、後になってよくよく考えて、あの一瞬ではフォースターの3つの分身が全員幸せになっているので、そこで終わるのがこの物語の正解なんだとわかりました。

フォースターが生涯発表しなかった、自分のための物語なんだから。

2



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ