問題を起こしている虐待的牧師、偽牧師の中には、「カウンセリング」と言って話を聞き、そこから人を操作していって、マインドコントロールして、
カルト化教会の信徒にしたり、自分の欲のために利用する人が多いのです。
私が所属していたカルト化教会の虐待的牧師も、カウンセリングをしていました。
「カウンセリングを学んだ」と言っていました。
カルト化教会には、虐待的牧師に悩みを聞いてほしくて来る人が、クリスチャン、ノンクリスチャンをとわずいました。
私も、おそらく他の脱会者も、「先生に聞いてもらえたら解決に導かれる。」と信じていたのだろうと思います。
しかし、今思うと、あれはカウンセリングではなかったと思います。
M先生と話しても、カウンセラーと話をしても、虐待的牧師のカウンセリングとは違うようだと最初から感じていました。
最初の私の印象は、M先生もカウンセラーも、話を聞く時も、会話の時も、たんたんとしていて、あっさりしているって思いました。
同情してくれて、一緒に泣き、「大変でしたねぇ」と言う虐待的牧師とは、
同じカウンセラーと言っても、かなり違うんだな、と思いました。
M先生は会った時も、「あなたのために祈っていましたよ。」とはおっしゃらないし、
電話を切る時、別れる時、「お祈りしています。」とも言いません。
それは、カウンセラーも同じです。
そのことについて、最初は不思議に感じたけど、今は(M先生もカウンセラーもきっと被害者たちのために祈ってくれているし、
二人の私に対する摂氏方や暖かい態度や誠実な対応で愛が感じられるから、その方が嬉しい。)と思っています。
虐待的牧師は、信徒たちにも、たまに会う人たちにも、
「いかに私があなたを愛し、いつも気にかけ、あなたのために心を注いで祈っているか」を語っていました。
そして、ほとんどの人がそれに感動していました。
それが「愛」だと思っていました。
きっと虐待的牧師は、自分に自信がないから、自分の人との関係において、不安な気持ちがあるから、誠実な対応、一貫性がないので不安定になるから、
表面上の美しい言葉で、それらのマイナス面を覆い隠していたのだと思います。
虐待的牧師は、「愛している」とか、「大切だ」とよく言っていたし、「あなたのためにいつも祈っています。」と言っていました。
しかし、虐待的牧師は、自分の思い通りに私を操作していました。
考え方も自分が「正しい」と思ったように、私が同じような考え方をするように操作していました。
私が自分の意見を言ったり、虐待的牧師の意見に疑問を持つと、
「あなたの考えは世的だ。」「あなたはなぜ神様がこれほどまでにあなたを愛し、すばらしく作ってくれたことがわからないのですか。」と叱責されました。
私がどんなに説明しても、何度自分の気持ちを言っても、虐待的牧師には理解されませんでした。
虐待的牧師は、いろんな人の相談に乗っていて、たくさんの人を主に導いた人だと思うからこそ、私も相談していました。
しかし、心が楽になるどころか、会話がかみ合わないもどかしさと、誤解されているという混乱と苦しみ、
どんなに話しても理解されないんだという無力感、(私が悪いから…。)という罪責感、解決できない悩み…。
それらをかかえて、教会を出るのがいつものことでした。
「これが主からの答えだ」と納得したように感じたこともあったけど、一人になるとどうしても疑問や矛盾が出てくるので苦しくなっていました。
カルト化教会でのいろんな出来事を見ながら、時々、(信仰生活ってなぜこんなに苦しいんだろう?)
(クリスチャンは自由だって言うけど、そう聖書にも書いてあるけど、自由って何なんだろう?)と考えることがありました。
昨日カウンセラーに、教会の人とのかかわりや障害のことが正しく理解されていないと感じる辛さについて話しました。
教会の人に送ってもらったけど、私が「大丈夫」と言っているのに、家の前まで後をついてこられていやだった、という話です。
このことについては、以前にも記事を書きました。
カウンセラーは、「この場合は、どちらも悪くないです。
その人は心配しすぎていたんだね。
もっと時間がたって、何度も会って、スイトピーさんのことを理解していくようになると思いますよ。
これはあなたの説明が悪かったから、そうなったのでもないし、
『私が後をつけられたことを』いやだと思ったことも、まったく悪くありません。
スイトピーさんは悪くないですよ。
この場合は誰も悪くない。」と言ってくれました。
私が2元論でしか考えられなくて、2元論の考えをやめようと思うと、(2元論でしか考えられない私が悪い。)と、また2元論になって、苦しくなる。
それで出口がなくなったように感じるということもわかってくれました。
だから、会話の中で自然に、私が理解でき、考えられるように話をしてくれました。
そして、「初めの頃に比べたら、快復してきています。」と励ましてくださいました。
私は、自分が同じところをグルグル回っているだけで、ちっとも成長していないのではないか、と自分がいやになっていたけど、
少しずつではあっても変わってきているみたいです。
M先生もあることについて私が相談したとき、
そのことに対する私の意見と決断したことを聞いてくださって、
「ありがとう。」と言ってくれて、「それでいい。」と認めてくれて、なぜいいと思ったのかも教えてくれて、
私の不安についてもきちんと対処してくださいました。
私が助けてもらってるのに、「ありがとう」って言われるのはなぜなのか不思議。
カウンセラーも話が終わるとき、「ありがとう」って言ってくれるのです。
それを聞くと、心が暖められるような気がします。
虐待的牧師に相談した後は、すがすがしい気持ちになるよりも、重たく辛い気持ちになることが多かったけど、
M先生やカウンセラーと話すと、少しずつではあるけど、
重荷が取り去られていくような、わからなかったことがはっきりして見えてくるような感じがします。
そして、「人と出会うこと、人と話すことってすばらしいことなんだなぁ。」と思い、
神様に感謝できるのです。
これが本当のカウンセリングと、偽のカウンセリングとの違いなのかもしれません。