立川にこの日曜日に参りました。
といいましても、ここ一連のイトイカンジ氏やそれを取り巻く時代状況の中、70年頃まで裸で町を疾走したゼロ次元に絡んで、澁澤が「エロティシズム」のなかで語る裸体運動主義者たちの動向―14・15世紀のアダム派から、ヒッピー、真言立川流にと連想されていく―よろしく、文観とか言う坊さんの足跡を尋ねた・・・というわけでもないんでしてね。この本もほったらかして本棚の隅に奉ってあったのを、ふとしたきっかけで目を通してみようという気になったんですけれども、いや、ほかでもなく彼がディオゲネスのエピソードを紹介したのがどの本だったかを確認しようと思ったんですが。そのなかでこのアダム派の記述に目が留まったというわけでしてね。社会不安と終末観のなかでエロティシズムの昂揚感をかり、これを乗り越えようとするというような動きが見られることの興味深さですね。そしてそれが革命運動なんかともつながっていくというような話に、同時代(執筆年が1967年ごろのようです)のヒッピーなんかを引き合いに出して、共時・通時的に大づかみにこういう運動に向けられている視線とかですね。必然的にゼロ次元の活動なんかが思い浮かんでくるわけですけれども。しかしね、ここに簡単に書かれていますように、このアダム派の連中は弾圧されればされるほどに盛り上がりを見せていったところというのは、僕の知る範囲での万博破壊闘争との違いでもあり、殉教に対する大きな意義を見出した精神的土壌について思わせられるところでもありますね。
さて、こういう話はなかなか面白いものですから、このアダム派というのがなんだか気になる所ですが、それはとりあえず置いておきまして。立川に「語りを楽しむ会」という催しが開催される旨伺いましたので、そちらへ。あるかたより「私はちょっといかれないから、よかったら行ってください・・」と、チケットを頂いたものでしてね。いや、横浜にも、ヨネヤマママコ氏が出るとか言うんで、ちょっと行きたかったんですが。

近松の「傾城反魂香」から。門説経に身を変えた四郎二郎こと狩野元信。僕イケメンっ!おっけ〜い・・・っていうのは別の狩野さんです。
「ささら語り」のよこやま光子さんという方の名前を僕は時折目にしていたんですが、盆踊り口説きよりほか、なかなか進んで語りものを聞きにいくということもないものですから、丁度いい機会だったわけです。説教節で語られた物語を主に語られている方のようでしてね。つまり、説経は幾つかの形態をもって語られていたわけですね。人形操りとともに行われた場合には三弦の地方が入る。江戸時代後期、文政年間頃から再興された薩摩若太夫系の説経祭文・説経浄瑠璃などはやはりこの形を踏襲しています。今回の公演では、やはり同時上演の十三代薩摩若太夫が三味線方を一人共して口演しておいででした。古い形のものは洛中洛外図はじめ、風俗屏風等のなかに描かれているものなどから、ござを敷き、傘をさして、ささらをすりながら行われていたことがわかっております(一部京都の一派は鉦をたたいたそうですが)。よこやま氏の「ささら語り」は、その古い形に範を取っていることは間違いないでしょう。ちなみに、「門説経」といった場合には三弦、胡弓、ささらといった編成であったようです。このささらが鼓だった場合にはその編成が三曲万歳とも重なるのが、なんだか近世以降の門付け芸での楽器編成パターンとして興味深い所でもあります。
さて、公演内容ですが・・・テキストはそれほど重要ではないといっては語弊があるんですが、ここではむしろ「語り」という一つの術について考えるべきではないかと思うわけです。それというのも、舞台上にござを敷き、そのうえにささらを携えて上る。舞台上手少し奥に赤い傘が立てられる。基には何故かススキやら秋草が。古い説経の道具立てが揃いつつも、そこで語られるのは、あくまでささら説経の再現というわけではないことは一応はっきりさせておくべきであろうと思います。いや、そういう意識は勿論おありでしょうし、作業を続けていく上では重要な心持なんだと思います。しかし、今目の前で語られるそれがすぐそれというわけには行かないことも確かでしょう。いや、あまりここについて拘泥する必要は無いでしょうから話を進めましょう。何しろこれは彼女一代の「ささら語り」には他ならないわけですから。それでも、僕には非常に勉強になった。つまり、彼女の作業を通じて、僕はささら説教がどのようなものであったかと、その公演中、芸能としての姿を状況的に想像していたわけですから。
簓(ささら)説経の描かれた姿を思い返して見ると、ござを敷いた上に傘を肩に立てかけて、ささらを擦って立っている姿です。腕には数珠を下げた場合もある。小脇には賽銭方といいますかね、集金する役が一人。子供の場合もあります。それが街中で行われているということはなかなか重要なことであると思います。彼一人の芸に足を止め、ましてそこに金銭を払うようにするわけですから、前もって入場料収入がどうこうというわけでもないわけですね。どうでもいいようなことを話すと思われるかもしれないけれども、劇場空間で客を待つのとはやはり違うんでして、つまり、ござの上を、あるいは傘の下を、一つの劇場空間に仕立てるところからこの時代の説教は荷う必要があったといっても過言ではないでしょう。それは、街頭でこういった事柄がいくら慣習的に行われてきていて、その意味合いを、彼らの揃えた道具立てのなかにすぐそれと見て取ることが出来ていたとしてもです。そうして、舞台がそこに立ち上がったという状況は、一人足をとどめ、二人足をとどめと、聴衆がいくらか集りだすとそれは雪達磨式に広まるようなこともあったでしょう。これは今日の大道芸人の舞台がいかに街中に立ち上がるかということを考えた場合にも当てはめて想像することが可能でしょうね。
さて、ささら説教の担ぐ傘には、ひとつの「よりしろ」としての意味が想像されておりますが、天蓋、伽藍に連なる象徴的意味合いもあったことでしょう。そして、その下には異界が現出しただろう・・・とは山本吉左右氏の説くところですが、傘が示す社会的、象徴的意味のほか、僕はこれがただそのような意味を示す道具立てとしてのみ担がれていただけとは今ひとつ考えがたいところもある。つまり、あれが担がれ続けなくてはいけなかった芸能における機能的な意味合いを想像するわけですね。というよりも、極形式化した道具立てだったかもしれないけれども、それに対して芸能者としての工夫がないはずはないと思うわけです。そこで、ふと今思い出すのが、小沢昭一氏がまとめられました「節談説教」ですね。あの中に幾つか収められた説教と、その解説のなかで、「袈裟落とし」といったと思いますが、ひとつの演出的技法についてかたられているところがあります。これは説教が最高潮に達すると、講師が身にまとった袈裟をはらっと、前のほうに座ったおばぁさんや何かに落としかけるんだそうですね、もう、場内は語りの中からある種の法悦的興奮を掻き立てられておりますから、受け念仏という、コールアンドレスポンスのレスポンス部分の唱和に、あたかも弥陀の応答あるがごとく、きらめく袈裟が舞い降りて、これを蒙った人はじめ、感動深くするということがあったそうです。あるいは、「金色の光明がぱぁ〜っと!」といって腕を伸ばした時に、墨染めの下の白い衣が一瞬輝いて見えた。これ霊験かはたまたたくらみか・・・というような話も録音されておもしろい。ちょうどですね、今これにあやかってというわけでもないですけれども、芸能として・・・と今日は話を進めています・・・の初期の説経は基本的に神仏本地譚を語るものでありました。それをおもうとき、極めて安直ではあるけれども、かの傘が肩にかけて開かれていた時に、その放射状に骨が開いた傘の円は、ある瞬間には象徴的なものから、演出効果としての光背を顕わかしたというような二重の役を果たしはしなかっただろうか、と、そうも思われるわけですね。
そう考えてきたときに、ふとあのささらがだす「じゃっ、じゃっ」という音が気になり出します。ささらをすって物語をする芸能者は鎌倉時代末期頃からあったようですが、それを行った放下師と説経との関係は明らかになっていないようです。ただ、あの音を聞きながら一つ思い出したのは、東北の神・仏おろし巫女の数珠をする音ですね。彼女らは太鼓やら梓弓やらの交信用の媒材、今はそのもう一つの機能的面からリズム楽器としますが、それらのしようがあるわけです。そのなかでも、数珠もこの調子を取る道具の一つに入ってもいることは確かで、「じゃっ、じゃっ・・・あぁぁ、日本六十余州の神々様へ・・・」と、印象的でもあるわけですね。で、ささらの音は丁度数珠をもむ音のその音の部分だけを抽出して強調したような所がないわけでもないなぁ、と。もちろんささらはささらとしての呪術的意味合いを持って使用されてはきたことでしょう。しかし、それら道具が職業集団としての統制が進むなかで特化されることはあっても、道具の意味合いがある一つに限定されてしか使われなかったというのも考えにくい。それと、いまちょっとおもいだしましたんですが、祭文語りの錫杖です。あれは当初、山伏などの使用するものと同じものや、あるいはそれを持つ宗教的資格の問題から、それを解消するために、まったく違う楽器を手にするのではなく、同様の音の出るものとして、輪っかを幾つか針金に通したようなものを工夫している。こういう鈴・鈴木と錫杖とが混合しながらも派生した半呪具・半楽器のようなものの広がりがもつ社会性なんかも面白いところだけれども、今は無知ですからそこは控えまして、そのなかから、ついには、輪っかがなくとも振ればキーンとなるような江州音頭の音頭とりが使います「金杖」なんかも生まれたわけですね。で、これらはやっぱり職業区分からの配慮の中で工夫された背景があるようです。そう考えてみると、一応配下ということでは許可上が発行されてはいたけれども、寺社の宗教者ではなく、芸能者として生計を立てた彼ら説経の徒は、数珠を持つことはたやすいし、それを鳴らす事だって信者の読経としても一向差し支えはなかろうけれども、一つの職業組合的配慮と、その音における機能面から、もしかしたらささらを使用したものではないかなぁ?と。そして、再び傘に帰れば、この傘も風をはらんで太鼓のような低い音が出るということをも考え合わせて、まったく音響器材としてのしようがなかったともいいきれないだろうなぁ、と、この「ささら語り」を通じて想像をたくましくしたわけです。
さ、こうして僕は今目の前の口から語られる小栗と照手の概説的一巻は聞かずして、直接使用されなかった傘をみて、その意味を探る所から対面もしたことがない中世の芸能者の姿と語りによって立ち現れてきたであろう一つの舞台とも言うべき状況について思いをはせていたわけです。ですから非常に問題を投げかけてくる口演であったことは確かです。今後もご活躍いただければと思います。ただし、彼女の口演自体はあくまで現在のものですから、そこから批判として見えてきたこともあわせて申し上げるべきでしょう。それでもうしますとね、これが舞台で観客と一線を画した壇上から語られるという、すでに特化された機構の中での上演が見せがちな、ある意味遠慮がちとも、ある意味押し付けがましいともいえる退屈さが、その語り自体のありようの模索と合わせて感じられたということでしょうかね。つまりストーリーテーリングとしてはどうも凡庸であったと。その凡庸さが一つの民衆性の表れなんだ・・・ということは、芸能として考えた場合には決して言うことは出来ないでしょうから。なにしろ、凡庸さというものを支えるのは大まかな共通性を備えた印象を持つというほどの意味とも考えることが出来るでしょうから、ある特色を工夫研鑽するのを芸能者の一つの性格として捉えた時には、凡庸さは自身を飢えさせる一方で、聴衆からも飽きられてしまうという現実があったわけでしょう。そして、たとえ飢えても・・・というような強い意思のものとの相反するでしょう・・・と、なんだかことばがきついかもしれませんが、こういう語りの芸能にあっては、継承すべき伝統芸能となったもの以外においては、それこそ場を立ち上げる所から考えてもいいように思うわけですね。まだまだ考証も含めて実験できるんだと思うんです。そのなかで見事だな、と思ったのは、やっぱり小沢昭一という方ですね。彼が「榎物語」という演目を節談で試みているでしょう。そのなかで、土地や聴衆に関する話題を入れるわけですね。講談のようなものでも世話話を入れたりしますね。あれは時間調節でもあるけれども、それだけではなく、ちゃんと語りを聞く耳を醸成していく役割、つまり、聞く一人一人に対して、これを聞く自覚を促してもいるところがあるんだとおもいますね。そうして、話をあっちいたりこっちいったりしながら、聞くという能動的機能に訴えかけつつ話の山にと最後は駆け上っていくんでしょう。それも、後押しするように語り手はここぞとばかり声を張り調子をいくらか早めて。
語りの芸能は、具体的に視覚に訴えるものではなく、聴覚を通じてこれを受け取るものが自己の中で物語の世界を見届けていく所がある。いや、必ずしも脳内の視覚といいますかね、そういうところに変換されるわけでもなく、言語概念と音響との絡まりのなかから引き出される高揚感だったりするんだと思うんですが。何か、そういうところを意識しつつですね、聴衆とともに仮想空間を構築するような、そういう面白みが引き出されてくる。おそらくそこに、語りの芸能の理想郷にと渡るための橋はあるんじゃぁないでしょうかね。
このあとの薩摩若太夫の語る説経節は、いくらか先行する音源との記憶と比較する中で、細かな表現について思うところはあったものの、「そういうもの」としての安心感を持って拝聴したことを、すえながら申し上げておきます。それでも、なんだかんだ行っても現在の作業ですね。よい勉強になりました。
そう、初めてファーレ立川の一部をまわりましたが、ジャスパー・ジョーンズはくすんでいるようだし、多くは車止めに・・・ま、車止めになっているだけでも都市における機能の一端を荷っていることの有益さを言うべきでしょうかね?へへへ
ではでは。あ、今日の参考文献は・・・あ、まぁいいですね。
ダダカン展の主催者・鳥水亭氏が同展に関するブログをはじめられましたよ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/kiro1948
・・・これは前半で、その後諸事情から別に立ち上がりこちらへ…
http://blogs.yahoo.co.jp/antjekiro/MYBLOG/yblog.html