どうも。
今回の渡韓で、僕はですね、龍山のキャンドルライトメディアセンターで何かやらないか?と朴度怜氏の申し出を受けまして、これは美術家であるとか何とか以前に何かを表明する作業がショーケースとして試験管の中で観測可能なような類の空間とはあからかにことなり、意義深く思われたものですから、一つパフォーマンスと展示をさせてもらうことになりました。なんていうか、象徴も含めて意味が意味として再生したり立ち上がる現場みたいなものをこういう場所で体感できる気がしたといいますかね。
十年近く前にワークショップに参加したとき作成した「紙でできた6つの石」というオブジェと朝鮮民画の代表的な画題「鵲虎図」を描いた幟です。これらに付した僕のコンセプトは以下に一応添付いたします。ただ、「鵲虎図」には「両班」という単語を使っていまして、どうもこの単語は今でも使用が難しい単語なんだそうですね。褒め言葉にもけなし言葉にもなるんだと。僕のニュアンスだともしかすると危ないかもしれないようでした。で、このあてこすられた虎にはある時期にあっては日帝とかその軍人なんかも十分に当てはまったわけでしょう。

後でこのロープを糸に変えたんですが、ロープのままでもよかったかなぁ…
『紙で作られた六つの石』
これらは2000年頃にあるワークショップなかで偶然作られた。私以外の参加者がそれぞれこの素材で何かしらのオブジェを作った。そのあまりとして出たパルプを私は集め、水を絞り、同時に漉いた紙で包む、ただそれだけの作業をした結果がこうして残っているに過ぎない。しかしその塊が、素材となった紙のイメージやその他の展示品といくらか異なる点で、ワークショップ後の展示のなかではいくらか眼を引いたようであった。その後これらは今日まで私の部屋の隅でほこりをかぶるに任せていた。
今回、「紙でできた六つの石」は龍山に展示されることとなった。この地でこれらは新しい意味を獲得することになるだろう。試みに連想ゲームをしてみよう。
石は硬質で、さらに地球上の地質変動に連なる長い時間の表象とも考えられるし、もっと単純に土地やそれに根ざしたものとも考えられる。
紙は人工物であり、鼻をかんだり、お尻を拭くのにも使われるが、それはながい歴史の中では主に記録、伝達に使われてきた。
糸も人工物だ。そして生活に密接したものでもある。しかしそれが空間の中に張られた時にはより象徴的に線として現れるだろう。線は何かを区切り、また何かを明確化しようとする意志の表れとも考えられる。方向性を持ったときには視線あるいは時間などをも象徴するかもしれない。
土地と人の営みと時間の推移。今ひとつ連想することがあるとすれば、花、家、お金など、紙の模造品を死者への供え物として供えたり焚き上げたりする風習が少なくとも東アジアには見ることが出来る、ということだ。そして、偶然にも紙の石は六つ作られた。
これらの連想ゲームが龍山での展示とどのように関係し、また関係しないかは、「紙で出来た六つの石」と対峙した一人一人に任せるよりほかない。なにしろ、今回の展示に際しての連想ゲーム以前にこれらは作られているのだから。ただしある作品が製作され、それが物質として残るとしても、製作された時のコンセプトはいつまでもその物質に固着していられるだろうか?作品とそのコンセプトとは、時と場とそこに関係する人との間で意味を構築し、また獲得され続けるものではなかったか?
今回の展示の話をうけた時、すでに絵を描かなくなった私には展示の意思は無かった。しかし、展示を決めたのは、どういうわけかほこりをかぶったこれらに連想ゲームの終着点が重なったためでもある。問い問われる中に、何かを生み出すものは立ち続けなければならないとの自戒も込めて。小さく目立たないものだが、これらを龍山で展示することにしました。
2009.11.12 中西レモン
『辟邪図』
以前、私は一枚の民画を買ったことがある。けっして古いものでもなかったが、在日の方が所蔵していたのだろうか、大坂の古書店で見つけたそれは、虎にながい煙管を差し出すウサギの描かれたもので、民画のなかでは一般的な画題の一つであった。
日本人の私がここで説明するのもおこがましいが、一応この画題に触れておくと、鵲虎(ッカーチホーランイ)図という図像に類するこの絵は元来東アジアにおいて辟邪の願いを込めて虎のみが描かれていた。時代の変遷とともに吉祥を象徴する鵲があわせて描き加えられたものらしい。その一方で兎と煙管を伴うような図像も派生していったようだ。その場合には単なる願いを逸脱し、そこに何らかの風刺的意味合いが込められたようである。そういった意識の反映からか、民画の鵲虎図を見ると威を張る虎が鵲の声に気を取られているようにも見受けられる。
人の願いが込められた画題に、私は少なからず興味を催すのだが、一度その願いの内容を分解してみた場合に、はたと私の思考は行き詰ってしまう。つまり、ここでの辟邪というのは、漢字文化圏では読んで字のごとく、邪を避ける願いが込められているのだが、その何らかの障害をもたらす概念と規定できるであろう邪なる物事とは、一体、何・誰をして何・誰が邪とするのだろうか、ということである。それは長い時間を経たとしても、また経るまでもなくとも、視点の相違する第一人称の位相によって、彼の所属する社会・宗教倫理などによってずれが生じるだろう。それはわかる、しかし今とりあげているような民画を支持した人々とは一体どういった位相の人々であっただろうか。なぜ辟邪にかこつけて虎を何者かに見立てる必要があったのか。揶揄しながらも避けたい対象として見立てられたとされる両斑とは一体何ゆえにこのような描かれ方をしたのか。
無名の絵師らが残した寓意は、必ずしもそのまま今日の社会とは合致しないだろう。運動の現場にこういった前近代的な願いの図像を持ち込むことをお笑いになる方もあるかもしれない。第一今日の韓国は両斑階級のある身分制社会ではないのだから。ただし、意味は変容し、また象徴も時代とともに変遷していく。そう考えたときにはこの画の歴史的寓意も、またそこに込められた願いも、まんざら遠い過去だけに留まるものでもないように思われるのだがどうだろうか。その上でまた無名の絵師の仕事もである。
急ごしらえながら、日韓に所蔵されている18世紀以降のこの画題の図像数種を参考に再構成した。
2009.11.17 REMON NAKANISHI
と、お恥ずかしいながらも息巻いて10時間ばっかりかけて描いた絵を持っていったわけです。無名の絵描きということでね。
さて、僕のもう一つの作業はというと、以下に添付のURLページの自由掲示板内、538番にアップされています。この画像をアップしてくださったドゥングリ氏は活動家。眉毛がきりっとつりあがって、ほほがこけていましてね。引き締まった顔つきをしていらっしゃる。で、朝な夕なに近隣を張っている警察官に「お前らが張る場所は道路の向こう側だろうが!え!ここはお前たちが立つ場所になってないだろ!?あ!・・・」というような感じでして。近隣の派出所では彼が来ると辟易するという話も…。そういう方が毎日のように何かしらの映像をアップしておいでなんですが、その映像の撮影方法がすごくって、ビデオではなくデジカメで連続撮影したものをつないでいるんだ、というような話を聞きました。で、この撮影の日の前後からビデオカメラを手に持って映画の撮影を始められたという話でして、この日はその新しい撮影方法で撮ってくださったようです。
で、何をしたのか?と問われて、あるおばさんが失った何かを探してウロウロしている。彼女の持ったミカンとお玉は一応生活の象徴である。で、彼女は自分の息子を探しているんです…と言ったら、みんな笑っていましたが。まぁ、そういう感じです。もっと警察官にも絡んだらよかったんだ、ともいわれましたがね。ははは
とにかく、龍山で再開発を巡って何が起こってどのような活動が行われてきているのかも含めてこちらを参照していただければと思います。ネットの翻訳機能を使われますと便利かと思います。映像はかなり重たいですのでご注意を。
http://cafe.daum.net/Cmedia
あ、それと、このページ内の「行動するラジオ」の225番は、昨日あたりの夜の街頭ライブの様子なんですが、懇願屋という風な訳になってしまうかもしれませんけれども、細谷氏がマラカスを持って写っていることかと思います。

再開発の進む龍山地区。キャンドルライトメディアセンター屋上から。この大きなビルの向こう側に新しい国立中央博物館が。そして、その博物館で鳩に混ざって鵲を見ることができた。むくむくして可愛い中型の鳥だ。

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