どうも。
特に感動したような話もないんですけれどもね。
そう、東京国立博物館に常設展示を見に行きました。この何年か、年始には博物館で初もうで、とか何とか言って、その年の干支にちなんだ館蔵品の小展示が催されておりますね。今年は虎の絵が展示されているということですから、風に波涛がさざめき立つ中一頭の虎を描いた岸駒の絵が展示されるだろうと踏んで見に行ったわけです。どんぴしゃ。この19世紀初頭の京都の絵師の絵の中では、恐らく最高の出来栄えの絵だと思います。生前は商売っ気が強いということで、その驕慢をくさされたところがあったようですけれども、一派をなすに至るにはそれなりのともなうところも絵にはあったのでしょう。
円山応挙が行った、平明といわれるあっさりとしたところのある写実主義(写生)とはまた別の、当時請来されたり、輸入されて影響を及ぼした中国絵画の中のこってりした写実絵画をも雑多に学んだのだろうと推測されています。そして、この円山応挙没後に一代の画家として名をはせたのだ…と。でも、奇人とか風流人としてのエピソードに乏しい。その辺りが彼の京師における文雅コミュニティー内での人間関係を逆説的に証明しているのかもしれません。つまり、先にあげた驕慢とか何とか言われたところとつながるということですが。
岸駒は北陸の出身だという風に言われておりますが、先にもあげたようにその学習過程は今一つ明らかになっていないようです。ただ、虎の描写に関して言えば、舶載品の中にあった虎の手や頭の皮などを入手して、従来の大陸渡り(近世中葉の虎の画像には朝鮮半島経由の絵からの影響が少なからず見られます)の画像を敷衍して、あるいは応挙はそこにリアリティーを求める過程で猫を形状の支持母体に使っておりますが、そういった虎という生物、当時の京都では実見あたわざる生物の本来の姿をより的確にとらえるべく腐心した人でもある。で、このことは彼一人の必要性でのみみてしまうと、偏執狂ね、あっそ・・・みたいな話にもなるけれども、彼の画業がこうなるための時代的、思想的な必然性もあっただろうという風に、話を開いていくことにも留意していきたいところだ。で、そこに本草の延長としての博物的科学の視点が対象(世界)をいかにとらえるかという意識に何らかの影響をしていたであろうこと、そして物流の面でもその傾向は裏付けられるであろうことなんかが考えられるわけですけれども、ちょっと飛躍すると、この対象の認識の在り方が科学的客観性をもって、それが具体的な図像としてあらわされようとしている点。そのこと自体がなにか思考の在り方自体の転換点をも示している一例としてあらわれているようにも思えてくるわけです。
もちろんその以前には「写生」という、対象への客観性を持ちつつも、形式的なわかりやすさを同時に盛り込んだとらえ方があり、また、オランダ渡りの透視遠近法と陰影法をまねて応用しようとした個人もあったわけです。この形式の部分については岸駒も、当時の絵師の常で、ある筆法を商標よろしく使用し、彼の弟子とその系統はそれを引き継いで商売にしたわけです。そして、こういった形式化の中にあっては、初代の対象にたいする意識のありようはどこか形骸化していく。まぁ、弟子というものが弟子という関係性の中にある以上はそういったことにもそれなりの正しさが見出されていくわけですよね。とまれ、対象のとらえ方における思想的変化とその必然性が、岸駒の絵からは読み取れるように思う、というのがとりあえずの今日の話でして、そして、このことが日本の絵師における近代的視線の黎明とは言わないまでも、もう少し芽の出てきた状態を示しているんじゃないかなぁ、と思ったりするわけです。
いま、こうして話しながらちょっと迷う単語が「写生」と「写実」の使い分けでして、円山応挙は自身が使用したかどうかは忘れましたが、その前者で語られる。とはいえ、どちらも対象を客観的にとらえようという意思の表れであり、また、その図像的表れでもある。まぁ、いま円山応挙を見て、「え!写真!?」なんて思う人はいないけれども、そこはまぁ、掌を入れていただいて。で、複雑なのは、こういった対象の把握の仕方ばかりが絵師の近代化のすべてを担ったわけではないであろうところがあるようだ。円山応挙と伊藤若冲と曽我蕭白と池大雅という18世紀の絵師たちをどうしてもその端緒として語るところにさかのぼらなきゃいけなくなってくるけれども、とらえ、写そうとした「生」・「実」というのは一体何だろうか?ということを今一度考える必要がありそうですね。今思い出すのは蕭白が言ったとされる「図を求めんとならば円山主水よかるべし、画を求めんとならば・・・」俺んとこに来い!っていう。ここから少なくとも見えてくるのは。「図」は客観的形状のことであって、写真のようにその姿を写し取ったものを言うのでしょう…いや、この話だと「写真」ってのも、急に難しい言葉になっちゃうねぇ…。で、「画」には客観的形状を写し取ることとは別の価値観が働いていることになる。確かに蕭白の絵をご覧になればそれが写実的ともいえない印象をもたれるでしょう。とは言いながらも、彼にも博物的な対象への関心が働いていたことは図像分析の中で既に語られおりますけれど。
で、なにが主要な価値として「画」には込められていたのか。その時に思い出すのが「写意」という言葉です。この語を蕭白が掲げていたという話を僕は知りませんが。そして、この言葉を使うときに「意」にあまり性急に精神という物事をあてはめないほうがいいようにも思われるんですが。というのも、この言葉は恐らく中国絵画の強い影響下で用いられた言葉じゃなかったかと思われるからです。ここで言う中国絵画というのは池大雅として挙げた文人画系の中国趣味の人々です。いや趣味と言っていいのかは今はとりあえずおきましょう。彼らの場合は先行する文人画家の筆法や経営(画面構成)を模写する中で習得し、これを用いながら山水風景などを再構築する、といったあり方をオリジナリティーの一側面として持っていたといえるところがある。そして、それら絵画に誰誰の筆法をうけて絵を描きましたよ…という説明を軽く添えたりする。こういうことがどういう必要性から来たのかは、僕の勉強不足で分かりませんが、いまは仮に素人が手すさびで描いたところの高尚な言い訳として始まった、としておきましょう…いやぁ、きっと当たらずとも遠からずだと思います。で、こういった場合に誰誰筆意という書き方をした傾向がある。とした場合には、はたして今私なんかが漠然ととらえている何らかの目に見えない意思とその方向性、もしくはやはり漠然と心理という科学的な言葉の示しているであろう領域のこととしてのみではとらえることができないような気がするわけです。なにかもっと純化されないままで使用された、あるいはここでもその事柄にかかわる人々の増加に伴い、形骸化され、拡大解釈、あるいは意味のずれが生じた結果なのかもしれないんですが。あるいは翻訳によるずれかもしれない。しかし、すくなくとも「精神」という言葉とぴったり重なるとは言い切れないところがあるだろう。その反面で、重なる部分もあると、能動的に考えたくもあるんですが。
あぁ、話が膨らんでしまい、何となく億劫になってきた。こんな風に岸駒から話を進める予定ではなかったんです。で、ここから多分さっきは近代というのは一体何かということを、対象をとらえる視点のありようの変化から少し考えられないかなぁ、と思いつつも、それを一元的な物言いに納めずに、一度さかのぼらせて、また幕末のほうへと下がりながら、文人絵画という、一見中国趣味にうつつをぬかして隠遁生活にあこがれます!世の中知らん!・・・みたいな理想の部分で彼らの位相をとらえがちなところを、一つの文化意識として社会的にとらえ返すなかで、彼ら漢学に精通しようとした人たちの言語意識が英語やドイツ語などの翻訳にいかに応用されたかを、実証はできるような僕ではないですから、想像の領域ながらににおわせて、今に至るまでの物事のとらえ方というのはどのようなものなのかをも客体化していくためのあたりになるんじゃない?…みたいな、えらい大ぶろしきを広げようとどうやら思っていたわけです。
だいぶ食べ過ぎて、後半は消化しきれない「おいしそう」とがっついた部分が宿便として排泄されました。あんまり噛んで食べない子なんでご海寛ください。
あぁ、週一で何かはおしゃべりしようと思って、こうして向かったはいいんですが、独居老人のあいまいでどうでもいい熱弁みたいになってきましたね。
いや、抜き書きをほんとはしようと思ってたんです。それは「春香伝」で、春香と夢龍が初めての夜を迎えるシーンで、二人が裸になりましてね、夢龍が「お馬さんごっこしようぜ」って、春香をまず負ぶう。で、「お前は金だ」、「金とはもったいない…」みたいな甘い問答を繰り返し、「お前は何が食いたい、スイカか杏か・・・それともわしをからがごと食べる気かな?」、「若様、わたしは人食いじゃありませぬ」、「どうだか。どっちにしろお前はわしのもの。情けのかたまり、宝だよ」。。。
夢:さぁ、降りた降りた。すべてのもの、皆変化がなければ面白うない。わしがそちを背負ったから、今度はそちがわしを背負うのじゃ。
春:あれまぁ、若様は力があるからあたしを背負えましたが、あたしは女である故、力がありませぬから、背負えませぬ。
夢:いや、力を入れずに背負う方法がある。足が床にすれすれになるようにし、身を後ろにそらして、もたれるように背負えば難しくはない。
・・・まぁ、こうして面白おかしく遊びながらまた、問答をしまして・・・
夢:春香、今度は馬乗り遊びでもやって見ようか。
春:おかしなことばかりおっしゃって。馬乗り遊びとはいかがするものでございまするか。
夢:いともやさしきこと。わしとそなたが裸になったが何よりのしあわせ、そちは馬になり、部屋の中を這いまわり、わしはそちの尻に体をぴったりつけてそちの腰をかたく抱きしめ、そちの胴をばぴしゃりと叩いて、はい、どうと叫べば、そちはひひーんと一声いななき、後ろにひと足さがって前へ跳べばよいのじゃ。そうすれば、自然、乗るという字のうたができよう。
・・・と、言うことで乗るという字のうたがですね、赤松子は雲に乗り、孟浩然はロバに乗り・・・と、乗る乗る尽くしで、最後は「わしは乗るものがない故、今夜この月明けき夜半を春香が腹に・・・」という具合になりまして、「二八と二八の、花ならいままさに開かんとする年頃の者、二人出逢いましたれば、月日のたつのも知らぬかのようでござりました。」(許南麒訳『春香伝』岩波文庫)
こういう出逢いの歓楽を謳い、その後の別れと春香の試練に耐える姿の効果と必然性とを盛り上げていくわけですけれども、A・チャン氏はこの韓国の主要な近世小説にはなんというものかしらん。
そうだ、先日公開された菅野須賀子の獄中からの書簡。薄紙に針穴で文字を綴っているやつ。なんだか清潔な印象のものでしたね。あんなうすい紙に施されて託された意思というものが示すところは、重たくもあり、また、さびしくもあるようにおもわれます。

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