家々家々いえいえいえいえ〜〜〜〜〜〜い!
あ、特に意味があるわけではないです。何か大きな声で言えるオノマトペのようなものを今欲しただけです。
いやぁ、いつの間にかブログにアップするものが長ったらしくなっていましたね。もっと簡潔に・・・いけたらいきます。
岩波文庫をあさるのが幾らか落ち着いてきましてね、あまり本を欲しいということで走りまわるようなことが沈静化しました。その生じた空白に今度は絵を見ることが浮上し始めまして。で、幾つか観に行っております。
時系列で言いますと、写真美術館「液晶絵画」、オペラシティーアートギャラリー「トレース・エレメンツ」、目黒区美術館「丸山直文」、松涛美術館「池口史子」と。
で、前の二つはもうすぐ会期終了ですからご注意を。ともに映像作品の展覧会・・・との印象を受けがちですけれども、そこはあえて、液晶画面をカンバス同様の支持体として能動的に捉えましょう。そうした場合には、写真・絵画との相違点として展示作品中の画面内の図像には時間の推移がそのまま持ち込まれている、という点が言わずもがなの特徴として挙げられますね。こういうと、何だやっぱり映像メインの展示じゃぁないか、と思われるでしょう。それでもただ幾つかのブースに区切って、それぞれの小さな上映会を連ねただけ、というわけでもない。擬態とでもいいますか、写真、絵画にもうすこし歩み寄った仕上がりであろうとしているといいますかね。あるいは写真がメインの作家だけれども、映像側にアプローチをかけているとか・・・いや、こんな話してたら長くなるし、それにこれらの展示では楽しめたものが少なかったのも事実で、すぐにおいそれと感想が沸いてこなかった。美術館で展示される映像なんかは、多くの場合僕にとっては、絵として情報量が多すぎるなどしてもう見きれなくってですね、見るのを諦めそうになる。そして実際に結構諦めているんだ。そんななかでも幾つか印象的だったのが、「液晶絵画」ではサム・テイラー=ウッドの液晶画面を使ったシリーズで、果物やウサギが腐って朽ちて行く絵がそれなんです。いうなれば静物画ですね、ウサギが壁から下がっているものなんかはトロンプルイユとしての画題が基に成っている。写真と思えばなんてことはないから素通りしますが、見ているとじわじわウサギの皮下組織が動き出して、ぼこぼこと膨らんだりしぼんだり。で、まわりに蛆が米をまいたように散ったりしてですね、そのうちウサギと接していない所に何故か蛆がたかりだしたりする。でそのうちにぺちゃんこになっていくわけです。もしくは果物でしたらね、しばらくはそのままなんですが、ちょっと色が変わったか変わらないかのうちに、うわ〜っと綿帽子みたいにカビが覆いかぶさるんですね。そこからぐずぐずと変色が加速し崩れて行く。超スローで撮影したものを早くまわすなどしているんだと思いますが、このシリーズ中、静物に関してはなんだか足止めを食う。扱ったモチーフは特別なものではないですが、改めて圧縮して見せられると、お!って思わせられる。どちらの画面内の変転の過程でも、特に形が崩れ始めると加速したかのような対象物の形状の変化が認められる。「ドリアングレイの肖像」の終盤には画面内にこのくらいのことが起こった・・・かどうかは知れませんが。
あと、オペラシティーでいえば、アレック・デイヴィスという方の覗きからくり「脱臼」が単純におかしい。壁面に四つのモニターがはめ込まれていて、それを覗くと覗いている人の姿が室内対面のカメラで写され、映し出されている。そこに展覧会場へ入ってきた映像上の観覧・侵入者が投影されて、あれはスコップだったか、長物を持って走りこんできた人に殴られたり、カップルがキスしたり。置き引きがあったり・・・と、覗き込んだ先の僕じゃない僕がいたずらされる。いや、そんな人は映像上のものだとわかっているんだけれども、思わず振り返ってみたりしてね。で、これらは音響も対になっています。こういう、観覧者がある領域にはいると展示部内にその人の画像が投影されるというのは、先の「液晶絵画」ではドミニク・レイマンが、拷問を受けている人物の前にやはり投影される、観覧者が加害者にされてしまう作品のほか、鷹野隆大が、これらに比較すると幾分稚拙な印象は受けるけれども、彼のこれまで撮影してきた人体に観覧車の首の映像がすげ変わるというものがありましたね。この方の展示をツァイトフォトサロンなんかで見ますと、一つの領域侵犯者のような気がしましてね、なんとなくどきどきさせられるというか、絵画表現の行き詰まりとそれを追い抜こうとする写真表現のあり方なんかをちょっと思ったりしたもんですけれどもね。まぁ、今回は今回ということで。
古橋悌二「LOVERS」、チウ・アンション「新山海経」とか、ほかに言及すべき展示もあるのだけれど、そして、液晶絵画といった場合には特にジュリアン・オビーなんかも言及するべきだけれども、イメージの形なきところに具体的な図像の構成によって抽象的な何かを、「わたし」のつかみ所のないような領域から引きずり出すのを絵画の一側面として、今その観点でこれらの素材とそれに呼応した新しさを抜きに見たならば、強く惹かれる何かというのはどうも見出せなかったところがあったもんですから、これはひとえに僕の無知のなす所として、すでに、もしくはこれからご覧になる方で、こういうことがあるだろう!ということがありましたらお教えいただきたいところです。
さて、後半。いや、こっちはもっと簡潔に展示の大概の感想ということで行きたい。
「丸山直文―後ろの正面」・・・は、ちょっとさておきたい所です。もうちょっと感想がはっきり現れてこないというか、90年代前半の抽象的な画面構成に見易さがある。いや、この抽象というのもちょっと考え直さなきゃいけないことであって、幾何形体とか、モチーフの不鮮明さとかで分類されることもあるけれども・・・あ、どうしよう。今結論が出ないことに話が及んでまたぐずぐずに成ってしましそうだ。というか、眠いので考えるのを止めて、やっぱり保留にしよう。だって、最近の作業に今のところほとんど関心をしめせなかったものだから。
池口史子という方は僕は全然存じ上げなかったし、チラシを見てもほとんど観に行く気がしなかったんだけれども、それでも、特に大家として喧伝されているわけでもないようだし・・・って、いまは「大家」なんてまぁいないといえるんでしょうが・・・一部業界内で何かしらの地位を得ているのかもしれない。僕の知らない業界で。ま、とにかくこうしてとりあげられるということが一体どういうことなのかを、この方の展示で確かめてみようと思ったわけです。
初期の静物画なんかには私淑的学習のあとこそあれ、特筆して感想を述べたくなるようなものがなかったんですが、ちょっと横に行きまして、90年代に入ってから、今度は彼女自身の模索が画面に現れてくるのが見えてくるわけです。はじめは何のことはない、つまらない風景画だと思ったんですけれども、何か、どこかおかしいところがあることに気がつくわけです。それは、焦点のずれだったり、対象の輪郭が一部故意に不明瞭になっているなどです。しかし、もうすこし展示を作業年代にそって進むと、すぐにそれでは根本的なところを見逃していたことに気がつくんです。つまり、何がおかしいのか。それは、この方は建物や列車を描きますけれども、これらを描くのに、ぺたっと平面的な彩色をするんだ。その輪郭をマスキングして。はじめは黄色から褐色にかけての暖色系が強いために、シケイロスみたいなメキシコの近代絵画のようなものを想起させるのかと思ったんだけれども、それだけじゃぁない。モランディーみたいな人の名前が頭に浮んでくるわけです。それでも、もっと深刻でもなくって、ホックニーみたいな名前も浮んでくるわけです。もちろんキリコも。こういうと盛んに称揚しているようにも聞こえちゃうかもしれませんが、ちょっと軽やかな形而上絵画みたいなですね。
メモ:90年代(主に前半)は移行期と考えられ、フォルム、彩色に簡潔さを欠くところがあるが、焦点のずれ、稜線の一部消失などに彼女なりの実験のあとが見られる(ハイライトが黄)。その後彩色技法(マスキング)が、建物の平面性を強調する中で採用され、形而上の立体を思わせる画面構成となってゆく。ポップな形而上を意識するかのごとく。モランディー、ホックニー、(キリコ―黄色い町並みから?)
・・・さいごの「画面構成」は、「対象の捉え方」といったほうが似つかわしいかもしれません。そして、このマスキングの技法のみを取り上げた場合には美大受験生だってやっていますが、この方の場合には、それが一枚の絵を構成する上で主要な技法となってその完成と印象に大きく寄与しているということがいえます。それが、何かがちょっとおかしい、建物のある風景画にしているわけです。ただし、この技法が人物、植物等の有機的な対象物を前にしたときのモロさ。近年の女性像などには課題が山積しているように思われますね。
ということで、ちょっと変な絵を描く人を見つけたんで、あぁ、やっぱり何でも見てみるもんだな。そして、やっぱりなんか足りねぇや・・・と、絵画について保留にしていることがあれこれと散歩の足取りの中浮んでは消えるわけです。
さて、これら展示が語るところはひとえに現在の絵画を取り巻く状況であって、丸山展には「絵画が新たに見直されている」と、美術業界における一つの傾向を述べると共に、その中でも見逃せない作家として彼を紹介する性格があるようですが、正直、僕には承服できるというか、納得できる点がどこにあるのかわからないなぁ・・・というのが正直な感想です。そして、今日の話で一番饒舌になった池口展は、正直、近代絵画の焼き直しでこそあれ、それがいきなり今現在からこれから先の来るべき絵画として語られるたぐいのものではないであろうと僕には思われる。しかし、近代絵画の焼き直しと今行っちゃったけれども、これが丁寧な検証作業としての意義が強く見えだした時には、おろそかにはできないなぁ…と、なんだか、あっしぁ、ふるいやつなでぇございやす・・・ってわけかどうかわかんないですが。もうちょっと「絵画」という概念についても踏み込んでじっくりと、僕も考えるべきですね。うん。
横浜に行った話は、それほど長くはないけれども次のページに分けましょう。
東京都写真美術館「液晶絵画 STILL/MOTION」―.13まで。
http://www.syabi.com/details/still.html
オペラシティアートギャラリー「トレース・エレメンツー日豪写真メディアにおける精神と記憶」―.13まで。
http://www.operacity.jp/ag/exh96/
目黒区美術館「丸山直文ー後ろの正面」−11.9まで
http://www.mmat.jp/
渋谷区松濤美術館「池口史子展 静寂の次」−11.24まで。
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/museum/20081007.html
ここでは次回展が「素朴美の系譜」というタイトルでして、チラシを見るとどうも横山重旧蔵の説経正本「刈萱」が出るようです。楽しみだなぁ。