その昔、私自身は今より「ゴスペルを歌う器」にほど遠くて
間違っていた頃があったっけな。
って、今がその器ができたってわけじゃない。
今は昔の間違いに気づいて、器に相応しくなれるように勉強中なだけマシって意味。
そもそもその頃 ゴスペルというものを歌っているのにもかかわらず、自分たちに求められていたものは、「ゴスペルを歌う技術」と「ショウアップ」だと、完全に勘違いしていたからだ。
10名〜12名編成のメンバーに対し、
テレビ出演依頼だけでなく、
全国各地から依頼をうけて、お仕事のない土日など、各地のコンサート会場へ演奏旅行などもしていた。
ブームということもあり、
自分たちでチケットを売る事をしないでもコンサート会場はいつも満席。
おまけにコンサート終演後には、ロビーで色々なお客様方から声をかけられて、写真撮影や手紙などもいただいたりして お調子にのってしまうわけです。
お客様から、握手を求められたり、あたたかいお声がけ


もいただくとこれって完全に誤解しやすい環境ですよね。
お客様に良くされて 悪い気がしないのは全ての人に共通でしょうが、これが毎回だと そのうち悪魔君がこんなふうに囁くわけです。

「満席の来場者の皆さん、歓んでるよね。よかった〜。
ゴスペルなんてサ、本来は福音の意味で、
神様のことを歌ってるんだろうけど、
お客さんはわからないんだから。
時に、ポップスを歌ってみたりして
お客さんに喜んでもらうのがいいよねーー。
宗教ってわかりづらいし、面倒くさいよね。
聖書の内容とか云々カンヌン、そのあたりは省いちゃってジャンルとして歌うので十分でしょう」ってね。。。
レッスンでも、コンサート、TV出演でも
「ゴスペルは福音です」って話しているのに、本人には言葉だけが上っ面をスーーーっと滑っていて 私は全然わかってなかったんだと思う。
「ゴスペルは聖書の神様のことを歌っているんだから 一度聖書ってものを読んでみるか」って気さえ起こらなかったもんだ。

ひどいでしょーー。
そうなんです。私たちはゴスペルを歌っていたのだから 望まれている事、役割はもっと大きかった筈。だけど、チヤホヤさえることで 本当に必要な事に気がつかないフリ、見ないフリ、知らないフリをしてたんだよね。
衣装とかメイクとか 劇場の大きさによって派手に遊んでみだり、時にはヘアメイクさんが入るコンサートなどでは 別人に変身するのを楽しんだりもしてた。
今から思うと、ゴスペルというより 別のコンサートだったし、精神面よりステージングだったわけだけど、その頃は 中身が伴わない歌でも表面的な愉しさを ゴスペルなんだと勘違いもしてたんだよね。
自分たちに求められているのは「技術」と「ステージング」であり、内面はそれなりに理解できていればいいんじゃないの?って感じでしたからね〜。今から思うとじゃあ、歌う曲はゴスペルじゃなくていいじゃん、、って思うわね。
ゴスペルじゃなければ 何も問題ないんだと思うなぁ。
その頃の自分を、ゴスペルを歌うものとしての器としてみるならば、「外見を着飾っているけど中身が伴っていない人」って感じだな。
内面が理解できていないから 「まずは見た目から、、」とでもいうように、外見を派手にしていたのかもしれないです。笑
ある年にドニーマクラーキンさんのWSとコンサート、礼拝に出てみたことで、私の中のゴスペルのあり方が、ものすごい勢いで修正された気がします。
あれがきっかけでした。
全国のゴスペルディレクターも大勢参加、勿論初心者の人も大勢いらっしゃいましたっけ。500名って相当の数でしょ。
その人達、ほとんどがノンクリスチャンでしたから、私と同じ。
でもね、ドニーさんが聖書のこととか語ると「宗教とか面倒だからそれは良いから、歌だけ歌おうよ」って雰囲気の人は誰もいなかったんだよね。
勿論最初は 聖書の話がでてきて面食らった人もいたと思うんだけど、曲の背景やどうして神様がこう言ったのか、、歌詞の説明をするにつれて歌が力強く変わってきたりする。
今までの「ゴスペルってストレス解消」とか「愉しい」っていうのとどこか違うわけです。
魂が喜んだ楽しさ、、とでもいいましょうか。心が癒され満たされる感じ、、かな。
それで、私は気づかされたのでした。
ゴスペルとの向き合い方が完全に間違っていた。
ここから、本来 「ゴスペル=福音」と言われている意味がストンと心に落ちたのでした。
ゴスペルを歌ってきていたのに 聖書を開いた事もなくてよく歌ってきたな、、と自分で猛反省。
その反動で私も普段練習している曲に関連した聖書該当箇所を自分なりに調べてみるわけ。だけど聖書って読んだだけじゃ「意味不明??」な箇所が沢山でてくるでしょ?挫折しそうになるわけですが、それらについて シェフという、わかりやすく教えてくれる人が身近にいたのを思い出すわけです。
シェフにメールして「この歌詞、こんな事言ってるんだけど 意味がわからないんだけど、どういうこと?」と教えてもらうようになりました。
あの500人の人が それぞれどう感じたかは違うかもしれないけど 彼らが真剣に話を聞き、ゴスペルの本当のあるべき姿や聖書のメッセージ、歌詞の意味にどんどん興味が増していった様子を肌で感じたので 私もこりゃゴスペルを教える人って「責任重大」だし、間違ったことを伝えるのはやめるべきだと思ったわけです。
そうはいっても ノンクリスチャンだから、自分が勉強しないと さっぱりわからないでしょ。
そんなこんなを経て 私の中のゴスペルへの向き合い方は変えられていったのでした。
「ゴスペルを歌うもの」として器を整えなくちゃ、、って思うようになり、「心と技」つまり技術と精神面の両方をあげていきたいと思うようになったのね。
その昔は「技術だけでOK」って思ってた自分から
それ以降、「器」として「心技の両方が必要」と感じるようになったってことかな。
ここ数年はね、「心技」の「技術」のほうが真ん中=核にあり、その外側に心にあたる「精神面、聖書の解釈など」がついて 自分の器ってものになるのかな、、と漠然と思っていたんです。
でもね、
去年なんか違う気がしてきて、、、ある日思ったんだ。
「あれっ?、、、逆か」
ゴスペルという音楽は他の音楽と異なるのはここかもしれないと。
ゴスペルを歌うものとして「器」があるならば、
中心部分、核にあるのは「精神面=心、魂」ではないかと思うようになったのでした。なぜだかわからないけどね。
核が大きければ大きい程 それらを表現するための技術が外側に必要になるわけで、多種多様なテクニックが要求される。
そうやって、「器」としての全体の球体が大きく大きくなっていくような、そんな気がしたのでした。
「どれだけ伝えたいメッセージを心に持っているか」
「思いの強さ」これが核にあれば、たとえ技術不足で 思いを表現しきれない部分があったとしても 全体としてお客さんに伝わることもあるんじゃないかな、、なんてね。
逆に 技術だけで、聴かせようとしている場合は
きれいなハーモニーかもしれないけど
歌う側にも 聞く側にも歌詞がストンと落ちない。
「わりと歌は巧いよね」「いい声してるよね」と褒められる人もいるかもしれないけれど、もしかしたら、内心は「いいハーモニーしてるけど、なんかもの足りない」って思われているのかもしれないでしょ。
指導するディレクターが何を求めているのか、、によっても方向性って全然違ってくるものでしょうが、 少なくとも去年もよりメッセージ性をもってコンサートをしてみたけれど、感想の中に「ゴスペルってただ楽しい」だけかと思っていたけれど180度 感覚が変わり、もっと奥が深く本当に心を励まし癒される音楽なのだと思いました。楽しいというより心が満たされた感じです」というようなものがあり、嬉しかったのでした。
「愉しいステージだったね」というのは娯楽的であればOKだと思うのですが、ゴスペルに至っては「愉しい」というよりももっと心にメッセージが届く方が私にとっては はるかに意味があることだと思っていたからです。
心と技、自分がいるクワイヤでは 何をどう求められているのだろう?
これは 私の感覚なので、他の人にはどうかはわかりませんが、今年の候補曲を聞きながら ふと、心技について思ってみたので、つらつらと書いてみたのでした(笑)

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