2008/7/20
「究極の聖書「神曲」」
「地獄の門」
地獄の門にたどりついた詩人はそこに掲げられた銘文を読む。門を入ったところに地獄の玄関があって,そこではなんの役にたちそうもない群集が,永遠に走っている。
「われを過ぎて,汝らは入る 嘆きの都(みやこ)へ,
われを過ぎて,汝らは入る 永遠の悩みへ,滅びの
民へ正義 天に召しますわが創造主を動かす
......われよりさきに造られしものはなし われは
永遠とともにあり ここにいる者は,一切の望みを
捨てよ! 汝ら われをくぐる者なり」
ダンテ「地獄篇」第三歌より
パンドラの箱の底には希望が残った。それは盲目の希望であり地獄の門への道でもある。
二詩人が渡し舟に亡霊たちの満載される様子を見て
いたとき,恐ろしい地震がおこって川岸は激しく
揺れ,ダンテは気を失った。(達人訳)
おお薔薇よ 汝は病めり くだつ夜の 吼ゆる
嵐の中を飛ぶ 不可視の虫こそ
濃きくれないの よろこびの なれが臥床を
見出でたれ その暗く秘めたる恋
汝の命をほろぼす〜〜ウイリアム・ブレイク
(寿岳文章訳)
下の装画はウイリアム・ブレイク

ダンテ・神曲 地獄篇
ジャック・レモン地獄篇〜息抜きにどうぞ♪
下記原文
読者は「神曲」において第一人称の二つの使い方(「わたし」と「私」)の区別を最初から注意しなくてはならない。「わたし」は巡礼者としてのダンテを示し、「私」は詩人としてのダンテを示すのである。「わたし」は「私」によって考案された(捏造された)物語中の人物なのである。出来事は過去に起こったこととして表現される。すなわち詩の執筆とこれら出来事の記憶とが詩人の現在に起こったこととして述べられている。読者は過去と現在の両方の、そして巡礼者と詩人の両方の関連を見つけるであろう。
(例)10行目:どの様にしてわたしがそこに入ったのか私は正しく言うことができません。
「わたし」
:巡礼者としてのダンテ
:過去形
「私」
:詩人としてのダンテ
:現在形
1. 私たちの人生の旅路の半ば:中世において人生はしばしば旅のように、神と天国である目的地への巡礼として考えられた。そして「神曲」の第1行においてダンテは彼の詩の第一主題(モチーフ)を確立している――すなわち、人の、神に至る巡礼の物語である。(本書の)巡礼者の旅でなく全ての人のそれであることは「私たちの人生の旅路」の言い回しにほのめかされている(悔悟と贖罪へ至る罪を通してのわれわれの旅である)。
【聖】「イザヤの書」第38章第10節:
私は思った、私は、生涯のなかばで、
去っていく。
のこりの年々は、
よみの門の前で、とめられた。
(ドン・ボスコ社版聖書、p.1453)
詩の始まりの仮想日は1300年の聖金曜日の前夜である。それはボニファキウス八世Boniface[ (680-755)によって布告された教皇職特赦の年(聖年)である。1265年に生まれ、ダンテは35歳であり、70年という聖書に言う一生の間の半ばであった。
[「初期のキリスト教共同体は、聖金曜日から復活祭の日曜日までの間イエスは死者たちのなかにいた、と考えた。・・・・・・この観念は、新プラトン主義のように天の層を次つぎに上ってゆくというのではなく、地下へ降るものとして表現された。地下の世界でイエスは死の軍勢に立ち向かい、うち破った」(J.B.ラッセル著『ルシファー――中世の悪魔』、野村美紀子訳、教文館1989/1993、p.114)。「人生の旅」に関しては、若山牧水が歌集『独り歌へる』(明治43、1910)の自序で「私は常に思って居る。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮のおくに往ってしまう」と述べている。「無窮」とは「果てしないさま、無限、永遠」である]

英国ミス・ポター(ピーターラビット)の永遠の世界。人生に疲れた人,道に迷った人は一度ここを訪れるといいでしょう。

シェークスピアカントリーや上の油絵(管理人所蔵6号)のコッツウオルズなどへ出かけては。
8-9. しかしそこで得た善なるものを明らかにしようとするならば:たとえこの「森」の記憶が自身の「過去の恐怖」を呼び起こそうとも、ダンテは「善なるものより他のもの」、すなわち巡礼者の学ぶ軌跡に貢献することによって最後の「善業」(神の救済)に至るもの(神の恩恵が啓示したすべて)を語らねばならないのである。
13-15. しかしわたしが、とある丘の麓に、その森の根方に、そして下って谷に居るのが分かった時:私たちが一度第1章(「神曲」全体の導入部である)を離れてみると、地獄の何層もの地形図が念入りな注意深さで表現されていくであろう。しかし、この章ではすべてが不明確であり準備されていなく、背景は識別されない罪の地域としての「どこにもない国」に置かれているのである。突然巡礼者は「とある森」(罪それ自体を当てはめることができる言い回し、すなわち「この森は荒れ野であり、未開で手に負えないのである」(6)以外には言い表されていない)の中で目覚める。彼がその森をさまよっていると、突然「とある丘」がある;するとその森は「とある谷」になるのである。
言い回しの流れ:
「とある森の中で目を覚ます」
↓
「突然、その森を徘徊している」 → 「そこはとある丘である」
↓
「すると、その森はとある谷になる」
この夢のような雰囲気(現実には悪夢の雰囲気に違いない)の他の示唆はこの章を通して見つけられるであろう。
17-18. 朝の光線:その時は聖金曜日の朝である。
29.不毛の坂:原文では"piaggia diserta"であり、「見捨てられた坂」である。Musaは"barren slope"と訳した。煉獄編第1章130行の"lito deserto"「見捨てられた海岸」に対応する。Musaはそこでは"lonely shore"「物悲しげな岸辺」と訳している。
30.わたしは強い方の足をびっこを引くようにのろのろと進んだのでした:すべてのダンテ批評家を悩ませているこの行の文字どおりの翻訳は「強い方の(ふらつかない)足はつねに下の方であるように」であろう。二本の足を人の愛に思い描いてみよう:偉大なグレゴリウスGregory the GreatがヤコブJacobの天使との格闘について注釈するとき、彼は神の愛としての一つの足と世の中の愛着としてのもう一つの足とを同一であると確認している(エゼキエルの書Homiliarium in Ezechilem, lib. U, hom. 2,13;PL 76, 955-56)。「強い方の足」は、その時、この世の愛着を象徴している。なぜなら巡礼者の旅のこの段階ではこの愛着が他のものより明らかに「強い」のである。もし彼が神に対してよりももっとこの世の物事に強く引きつけられないとしたら、彼にとって旅をするという理由がほとんどないのであろう。(神へ)上るために巡礼者は彼の「強い方の足」(それは自然の傾向がいつも下向きであるためいつも下側である)を引き上げるために強い力を振り絞り、そして「暗い森」の中へ滑り戻ることから自分を防がねばならないのである。
32-60
初期の批評家たちは巡礼者の道を妨げる3匹の獣について三つの特定の罪を象徴していると考えた:すなわち、嫉妬(肉欲)、高慢そして貪欲である。しかし、筆者はむしろそれらの中に地獄の三つの主要な分割をみる。斑のある豹(32)は詐欺師(第16章、106-108参照)を象徴し、詐欺を行うことが罰せられるところの第8ないし第9連環に君臨する(第18〜34章)。獅子(45)は激しい感情の形を象徴し、第7連環において罰せられる(第12〜17章)。雌狼(49)は嫉妬(色欲)ないしは自制心のなさの異なった形を表し、第2〜5連環において懲らしめられる(第5〜8章)。どの場合においても獣たちは人間の罪の3つの主要な範疇(分類概念)を表象しているのであり、それらは詩人の人類の象徴である巡礼者ダンテを脅かすのである[訳者注:"circle"は日本語では多く「界」ないしは「圏」と訳されているが、後に出てくる"ring"を「輪環」と訳すことの対比で「連環」と造語し、同心円のイメージを強めた]。
[J.B.Russell"LUCIFER"によると、「…神は物を、それらが光であり、霊であり、善であるかぎり、自身へ引き寄せる。ルシフェルの不合理で空虚な愚味性は真空と同じように、地上から生命と色彩を吸い込み、排出する。下界へ最初に降る前、まだ暗い森の中をさまよっているときに、ダンテは三匹のけもの――豹(ロンツァ、lonza:オオヤマネコ、ヒョウ)、獅子(レオーネ、leone)、雌狼(ルーパ、lupa)――嫉妬、高慢、貪欲、ルシフェル(Lucifer、イタリア語ないしはラテン語では三匹とルシフェルの頭文字は全て"l"で始まる)の三位一体の象徴であり、またルシフェルのもつ三つの顔をあらかじめ表している――に出会う(野村美紀子訳)。注解第3章35-42参照)]
32-36. 一匹の豹が跳ねました:彩色の豹(ロンツァ)のまるでどこからとも分からないような出現に注意すること。それからそのこぎれいで、敏速な斑のある獣はある象徴、すなわち全ての場所での上方への移動を塞ぐある力となるように見えなくなる。
40.その日神の愛が星々の美しい回転を決めたのでした:春分に太陽と協力する牡羊座がまた神(神の愛)が宇宙を創造したとき太陽と協力したと考えられた。
46-50. 「見える(思える)」の三つの用途(原文の忠実な再現:「そう見えました」、「畏怖させるようでした」、「拷問にかけられたようでした」)が獅子と雌狼の姿をぼんやりさせ、心のながめの「どこでもないさま」に調和していることに注意せよ。
55-60. ある人が、・・・・・・力尽くで戻したのです:この直喩がダンテの最高の表現の巧みさの一つではないことは認めねばならない。到達点へ向けてある場所を獲得してきた巡礼者が雌狼に力尽くで連れ戻され、このようにして彼が得てきた全てを失うのである。しかし、詩人により想像される類似点で、私たちは損失の言い回しに付き添われた報酬の言い回しを持つだけでなく、私たちはまた詩人の経験に対する犠牲者の感情的な反応として、すなわち事実上の物語の中に痕跡がないものとして知らされる。
60.それはわたしを太陽が沈黙した場所へと力尽くで戻したのです:他の語句でいうと、2行目の「暗い森」へと戻ること。
62.わたしの目はわたしに向かってくるある姿を見分けました:ベルギリウスVergilio, Virgil, Vergiliusの亡霊はダンテの前に奇跡的に現れる。ユリウス・カエサルJulius Caesarの時代(sub Julio)、紀元前70年に生まれたそのローマの詩人は、その詩としての寓意物語の中で、詩歌と絵画と同じように、理性と人智(人が神の特別な誉れなしに自身で目的を達成できる最高のもの)を表出している。巡礼者は彼の罪としての3匹の獣に打ち勝つまでは神の愛の光(山の頂)へと進めないのである。そして人が助けとならない獣と互角に対抗することが不可能なため、ベルギリウスが、巡礼者を導き、彼が理解し、のち縁を切る自身の罪に打ち勝つのを助けるために、一連の神の命令を通して呼び出されてきたのである。
63.成熟した、たぶんあまりの静寂からか、かすかにしか見えない姿を:ベルギリウスは詩の中で最初に「静寂」として姿を現される。字義的に言うと、ベルギリウスはかすかなものとして(巡礼者の目に)現れる。なぜなら彼はそれ程永く死んでおり(亡霊)、太陽の光を(彼は「太陽が沈黙した」場所にあらわれる、60)、そして神の光を奪われていたのである。この詩行は、この章の30行のように同一の範疇に置くべきだが(「わたしは強い方の足をびっこを引くようにのろのろと進んだのでした」)、他の水準の意味を持っている。例えば、理性の声はあまりにも永い時期巡礼者の耳に静寂であったということが暗示できる。
73-75. 私は詩人でありかの正義の人物を詠った:「アイネーイス」Aeneidの中でベルギリウスはアイネイアースAeneas(アンキーセースAnchisesの息子)の陥落後の旅と功績を物語っていて、アイネイアースは神に導かれ、イタリアの地に国を築き、時の流れでローマ国王となるのである。第2章(13-21)、26章(58-60)参照。
86-7.そしてあなたはわたしに誇りをもたらすべき高貴な形式を/わたしが獲得した唯一人のかたです:「神曲」の構想以前ダンテは彼が悲劇形式と呼び、有名な主要題材:英雄的行為、愛、そして道徳的美徳(「自国の修辞法について」De vulgari eloquentia U,ii,iv)として蓄えておいたソネットとカンツォーネに専念していた。ダンテが巡礼者の導師としてベルギリウスを選択した理由(時の哲学者アリストテレスの代わりであろうが)はいくつかある:ベルギリウスは詩人でありイタリア人であること、アイネーイスの中で勇者の地獄への没落が物語られていることである。しかし主な理由は、中世において、ベルギリウスが、キリスト来臨を予言するFourth Eclogur(第四短詩)の中の疑わしき数行の解釈から生じる見解として、一人の預言者として認められていたという事実に確かに存在する。この点ではダンテはベルギリウスを皇帝と使徒(ローマ教皇)とのある種の中間として見ていた。更に、ローマ皇帝の最も重要な概念を反映したダンテの論文「帝政論」De monaruchiaには彼の導師の記述が見つけられる【資料1-1参照】。
91. しかれども汝は別の道より下りて旅せねばならぬ:ダンテは別の道を選ばねばならない。なぜならば、神の光に到達するには、罪の本質を認め、それを拒絶しかつ悔い改めることがまず必要だからである。ベルギリウスは、ここでは理性ないしは人智の役割としてだが、当然のことだが人が罪の本質の理解に至るかも知れない意味を指す。彼の導者としてのベルギリウス的理性と共に、巡礼者ダンテは地獄を通過する旅で罪の理解に至るであろうし、また煉獄の山での悔い改めた罪人たちに負わせられた悔恨を見るであろう。
101-11.
未来の救済についての暗い予測は決して十分には説明されていない:俊敏な猟犬(ヴェルトルVeltro)の姿はヘンりー八世、チャールズ・マーテルそしてダンテ自身さえと同一視されてきている。ヴェルトルがヴェローナVerona(イタリア北部ヴェネト州の都市)の統治者(1308-1329)であるスカラのカン大王Can Grande della Scalaを思い描いていることはもっともらしく思われる;その生誕地(Verona)はフェルトル(Feltro)[地図上ではフェルトレFeltreという町がある]とフェルトル山の間にあり(原文は"sarà tra feltro e feltro")、彼の「智、愛、徳」(104)は確かにダンテにもよく知られていた。そのヴェルトルが何であれ、その予言は、大きな意味で地球での精神王国の建設と、「智、愛、徳」(これら三つの質が第3章に、三位一体の象徴として言及される)がこの世の野獣のような罪と取って代わるであろう現世の天国を指し示しているようである。
[悪魔は神の三位一体をまねて、善の三位一体を転倒・逆転した形である悪の三位一体を構成する(善と悪は鏡映対称の関係にあるからである)。たとえば、地獄編第6章における三つの頭を持つケルベロスは、まさに一にして三である地獄の三位一体を成している。地獄編第17章のゲーリュオーンは人・蛇・蠍(さそり)の三体合体動物であり、歪められ、転倒した三位一体を示している。じっさい、地獄編第34章の堕天使ルシフェルは三頭を有する悪魔であり、至高善である神の三位一体を反転させた悪の三位一体を象徴している。神はLと呼ばれることをダンテは説明しているが、反世界おける神である悪魔ルシフェル(Lucifero, Lucifer)も頭文字はLである。地獄編冒頭の三匹の獣は、地獄編の最後において、ルシフェルから地上に送り出された三悪の象徴であることが解き明かされる。すなわち"lonza"(豹)、"leone"(獅子)、"lupa"(雌狼)はいずれも共通の頭文字"l"を有しており、"Lucifero"の分身であることが分かるからである。Lの反神性を表すルシフェルの頭文字Lの中に神性の否定形が、三頭の獣の中に三位一体の否定形が象徴されている。これはまた、悪に対抗する猟犬(Veltro)との関係においても対をなすように構成されている。"Veltro"と韻を踏む言葉は稀な単語であるが、それらの単語の中には、"lonza"、"leone"、"lupa"を一つに結び付けられるものとちょうど反対の現象が見出されるからである。三頭の獣が頭文字を不変幹としているように、"Veltro"、"Peltro"、"Feltro"は語尾を共有し、語尾が不変幹となっている。つまり"lonza"、"leone"、"lupa"はまさに"Veltro"に敵対し、対立するアンチ・クリストであり、"Veltro"を逆転させたものが"lonza"、"leone"、"lupa"ひいては"Lucifero"に他ならないのである(白水社、文庫クセジュ「ダンテ」、マリーナ・マリエッティ著/藤谷道夫訳での藤谷氏の「悪魔的三位一体」の注p.133-4。"Peltro"は「白鑞、しろめ」(ピューター、すず、銅、鉛の合金)で、"Feltro"は「フェルト、felt」(羊毛などの獣毛を圧縮して作った布地)である]
106.処女カミッラ:カミッラCammilla, Camillaは、トロイアとの対戦中に殺害されたメタブスMetabus王の勇敢な娘であった(アエネーイス, Book 11)。
107.ツルヌス、ニースス、エウリュアルスが傷つき死んだ:ツルヌスTurnoはトロイアに対して戦争をし、単独の騎士アイネイアースAeneasによって殺されたルツリアンRutuliansの王であった。ニーススNisoとエウリュアルスEurialoはルツリアンのキャンプで夜襲で殺害された若いトロイア戦士であった。以後の文学では彼らの共通の忠義が誠実な友情の標準的基準であった。
111. そしてその時みが始めて人類にその束縛を解くのである:[「悪魔の本質は善である。悪魔の悪は自由意志を無知によって悪用した結果である。その動機は神と人類への妬みである」(LUCIFER、p.28)]
117.かつそれらの悲鳴より、第二の死が何たるかを知るであろう:第二の死とは魂の死であり、それは魂が地獄に落とされた時に起こる。
122. 私よりも価値がある魂が:ベルギリウスのような異教徒のローマ詩人は、キリスト誕生の前に生存したため、キリストの天国に入ることが出来なく、またキリストの救済の知識に欠けている。そのため唯一理性が巡礼者をある地点へ導くことが出来るのだ。天国へ入るためには、巡礼者の導者はベアトリーチェの姿としてキリストの恩恵と啓示(黙示)であらねばならない。
124.なぜならば激しく思案した皇帝は:ベルギリウスの神との関係の異教徒の専門語に注意せよ。それは、できるだけ、彼の最高権威としての啓蒙されていない概念が、彼の精神にとっては、皇帝であるしかないと表現されている。
133-35.あなたが話された場所へお導き下さい:この3行は困惑させる。多くの批評家たちには「聖ペトロが守る門」が天国の門(「天国篇」ではいかなる門も認められない)に関連するのではなく、煉獄の門に関連する、なぜなら「煉獄篇」の第9章でその門がペトロから鍵を持たされた天使によって守られていると語られているのである。このようにして巡礼者は「わたしが煉獄においてと地獄において見るかも知れないようにあなたがちょうど言及された二つの場所へお導き下さい」と言っているのだろう。
しかし「聖ペテロが守る門」が煉獄の入り口に関連するというのは信じがたい。なぜなら、巡礼者も彼の導者も第1章においては煉獄の入り口についてなんの知識もないのであり、また二人が天国での門の不在についても知っていることはあり得ないのである。確かに巡礼者のそれとない言及は天国の門が聖ペテロによって守られているという一般的な信じ方を反映しているかも知れない。しかし134行が天国に関連するならばそのときは巡礼者の言葉を理解することは困難である。134行における天国への関連づけは私たちが2行の意味を次のように明らかにするならば133行から完全に導くことが出来る:「あなたがちょうど今言及された二つの場所へわたしをお導き下さい、地獄と煉獄へ、そうすれば最後にはわたしは天国へと行けるでしょう」しかし、そのときは135行での関連はどう理解できよう? 「わたしが(天国だけでなく)地獄を見るかも知れないように地獄と煉獄へお連れ下さい」は何の意味も持たないのである。
しかしたぶん133行は「あなたが言及した両方の場所へお導き下さい」を意味しているのではなく、むしろ「あなたが最後に言及された場所へわたしをお導き下さい」を意味している。すなわち、煉獄へである(イタリア語の字義通りの翻訳では「あなたが述べた場所へわたしを導き賜え」である)。その場合は、巡礼者は「わたしを天国を見るために煉獄へとお導き下さい、そして(不幸にも必要ならば)地獄へも」と言うべきであろう。こういうことは少しばかりの混乱と動揺を誘うかも知れないが、巡礼者がちょうど今自身の旅を始めようとしているとき、何がこの段階でもっとも自然であろうか?
★ ★ ★ ★
全体の「神曲」を読むことなしに最初の章でののすべてを理解することは不可能である。なぜなら、第1章は、ある意味で、全体の小画像であり、ダンテがここで紹介する主なテーマは作品全体の主要なテーマであるかもしれない。このように、この章はたぶん全体のもっとも重要なものである。
第1章の精神的な風景は3部からなり、「神曲」それ自体の構成を反映している。「暗い森」は巡礼者ダンテが自分自身を見つける罪の状態を暗示し、そしてそれゆえ、地獄(第1頌歌の主題)と類同語である、ダンテがまもなく旅しようとしていることを通して。「不毛の坂」(29)は悪と善の中間の場所を意味し、そこは人々が愛の「陽の光」と山の頂での至福に至るまでに通過せねばならないのである。それはすなわち煉獄との類同語であり、「神曲」の第2の部分の主題である。太陽の光に注がれた「至福の山」(77)は至福の状態で、それに向かって人が常に奮闘し、第3の頌歌すなわち「天国編」の中に描写されるのである。
「ダンテ・天国篇」
まだ地上楽園にいるダンテは,善行のみを思い出させるエウノエ川の水を飲み(煉獄篇第33歌),まなざしをベアトリーチェに移すと,ベアトリーチェは一心に太陽を凝視している。ダンテもその通りにしてみると,束の間であったが,太陽のまばゆい輝きに耐えられた。依然として太陽を見つめ続けているベアトリーチェへ,もう一度視線を移した時,ダンテは天球の妙音楽を耳にし,自分が絢爛たる光焔の大海に取り囲まれているのに気がつく。ベアトリーチェはダンテに,もはや二人が地球を離れて天上界にあることを告げた。第一歌
ダンテは言った。私は知りたい,誓願を破った人,他の善行により,お身たちの意に適い,お身たちの天秤にかけてもずっしり沈むほどの償いができるのか,どうか。
ベアトリーチェは,愛のきらめきげに神々しく満ち溢れた眼で,私をじっとみつめた。私の視力はこれに堪えず,たじろぎ,眼を伏せて,私は殆ど自失の人となった。第四歌
訳:寿岳文章

我が門を過ぎ去る者よ,一切の希望をすてよ!
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