2008/7/9
「シュロの日曜日 その2」
「そこには恐ろしい死の痕跡があった。血に染まった首,両手,両腕,両足が床に転がっている。一体の人形は王冠をかぶり,もう一体は教皇の三重冠をかぶっていた。人間そっくりなこれら二対の人形の衣装からは,鮮血が滴り落ちでいた。その横には血塗られた短剣があった。そこは「悪魔の妖精(ニンフ)」が魔王ルシファーに生贄の血を捧げる場所だったのだ!しかも妖精になるのは,ほかならぬこのわたしなのだ。わたしは,メーソンの恐ろしさに気が狂いそうになった。彼らは人間の血に飢えているのだ。その瞬間,あの恐ろしい七頭龍が霧のなかから立ち上がってくる幻影を見た。龍は自分の真前にいた。その瞬間にわたしは気を失い,床に崩れた」(注:いろいろ調べていくうちにその藁人形の中の人間はほとんどが裏切り者であることが分かった。ということはメーソンの人間達はほとんどがブラックメール(脅迫)されて行動していることになる)
わたしは,恐ろしい儀礼殺人が,外部の手の届かぬ秘密の地下室で行われていることを知った。(注:警察などは知っているが手を出せないという意味)悪魔ルシファーは,初めから人殺しであったことを思い出してほしい(ヨハネ伝8〜44)。殺人の儀式が用意される理由はそこにあるのだ。それは新参者が悪魔から好意を得るための儀式なのである。入団者が同情心を起こしたりしないよう,生贄は等身大の人形のなかに隠されている。こうすれば,殺人者が哀れな犠牲者の涙ながらの命乞いに直面することはない。........全員がヘブライ語の呪文を唱え終わると,グランドオリエントが命令を読み上げた。すると,「彼女は呪われた!」と全員が歌った。歌声が止むと,ガーフィールド(後の第20代米国大統領)が人形を指差して,「突き刺せ!」と私に命じた.........彼らはみな,イニシエーションのときに殺人を体験済みなのだ。
自分の会うべき人間を識別する合図についても教えられた。例えば,わたしが2,8,4,6,0と言えば,相手は1,9,7,1と答える。メーソンの虚偽のトリック,シンボルの世界では,「基数」を意味する最初の数字が決められていなくてはならない。残りの数は,「基数」に合うよう,変更したり削除したりすることが可能だ。イルミナティのドアをノックする合図は7・3・1とおのおのノックする。天皇家の紋章を見ればわかるが天皇家とガーター騎士団との結びつきは英国公文書館で記録に残されている。
731細菌部隊は天皇の軍隊でもあった。
シュロの日曜日とはイエズス・キリストの道に民衆がシュロの葉を敷き詰めた故事にちなむ祭りでメーソンではこれを冒涜する儀式を行う。カトリックのDouay BibleではHOLY GHOSTは神の第三ペルソナ{聖霊」を表す語であったが,その後の聖書でこれがHOLY SPIRITに変えられた。日本語に訳してしまえばいずれも「聖霊」になってしまうが,HOLY GHOSTは悪魔の意味でもあるのだ。Douay Bibleには「めでたし聖寵満ちみてるマリア」と,イエズス御降誕の際にガブリエルが述べた言葉が記録されている。ルカ福音書1〜28参照。ところが,現在使われている聖書には,イルミナティの文句と同じ「いと恵まれた方マリア」という訳語を使って,「聖寵」の語を削除しているのである。このような差し替えはどこから来たものなのか。
ルシファーについてしつこいくらい引用しているが現在の新共同訳の共同とはカトリックとプロテスタントが仲良く翻訳したという意味のようだ。これでは駄目だ。
前200年頃『ヨブ記』第11章17(日本聖書協会訳『聖書』より)
そしてあなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる。
この節のラテン語訳は「et quasi meridianus fulgor consurget tibi ad vesperam et cum te consumptum putaveris orieris ut lucifer」である。最近になって知ったが、『旧約聖書』のラテン語版には、下に記す『イザヤ書』ともうひとつ、『ヨブ記』のこの部分にも、「lucifer」という言葉が使われていた。ただし、欽定英訳では「And thine age shall be clearer than the noonday: thou shalt shine forth, thou shalt be as the morning」となっており、『イザヤ書』と違い、完全にラテン語訳にしか使用されていない。でも、この節は「もしあなたが心を正しくするならば」、「あなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる」ということで、正義の行いをする者に対して、「lucifer」という言葉が使用されているのは面白い。
前200年頃『イザヤ書』第14章12(日本聖書協会訳『聖書』より)
黎明の子、明けの明星よ。あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたはさきに心のうちに言った。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。しかし、あなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。
現在では悪魔の頂点とされているルシファーだが、聖書ではここにしか登場しない。この一節は、ヤコブが「バビロンの王をののしって」言ったものであり、本来は悪魔の話ではない。しかも、もともとヘブライ語で書かれた『イザヤ書』のこの部分は、ヘブライ語ではHelel ben Shaharすなわち「輝く者」である。紀元前後のギリシア語訳(所謂『七十人訳ギリシア語聖書』)ではeosphorosとなり、これが405年に聖ヒエロニムスによってラテン語に訳された時(俗に『ウルガタ聖書』という)、「明けの明星」を表すluciferとなった。つまり、聖書だけを見るなら、ルシファーという悪魔は、存在しないに等しいのである。だが、次に上げていくキリスト教の神学者たちによって、ルシファーは悪魔化していく。
150年代頃『ペテロの第二の手紙』第16章(日本聖書協会訳『新約聖書』より)
こうして、預言の言葉は、わたしたちによりいっそう確実のものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
この部分のラテン語訳は「et habemus firmiorem propheticum sermonem cui bene facitis adtendentes quasi lucernae lucenti in caliginoso loco donec dies inlucescat et lucifer oriatur in cordibus vestris」で、ここでも「明けの 明星」に「lucifer」があてられている。ただし、欽定英訳では「We have also a more sure word of prophecy; whereunto ye do well that ye take heed, as unto a light that shineth in a dark place, until the day dawn, and the day star arise in your hearts」となり、やはりラテン語訳にしかでてきていない。この預言の言葉とは、キリストの言葉のことだ。キリストの預言に「lucifer」が当てられているのは面白い。これが『ヨハネの黙示録』第22章16「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」へと繋がっていく(ただし、この部分のラテン語訳は「ego Iesus misi angelum meum testificari vobis haec in ecclesiis ego sum radix et genus David stella splendida et matutina 」であり、「lucifer」は使われていない)。
230年オリゲネス『キリスト教原理について』(ニール・フォーサイス『古代悪魔学』より引用)
明らかに、この個所のことばによって、かつてはルキフェルと呼ばれ毎朝昇ることを常としていた者が天国から転落したことが示されている。かれが暗闇の存在だと言う人もいるが、もしそうならば、どうして以前かれは光をもたらす者と呼ばれていたのか。あるいは、もしその光の一端さえ持っていないのならば、どのようにしてかれは朝に昇ることができたのだろうか。
オリゲネス(185〜256)はギリシアの神学者であり、原著はギリシア語で書かれていたはずである。現存している『キリスト教原理について』は、ルフィヌス(345〜410)によってラテン語訳されたもので、おそらくはラテン語訳版で初めてルシフェルの名が記されたんじゃないだろうか。ここで、『イザヤ書』の記述が、バビロニアの王ではなく、悪魔に対してのものだという説が生まれる。この当時、グノーシス主義などの異端宗派が生まれ、オリゲネスら初期神学者たちは異端の信徒たちと議論を交わした。この一節も、二元論に対する、一元論的見解から悪魔について述べられたものだ。なお、この書は『諸原理について』というタイトルで、創文社から全訳がでているが、これを書いている時点で未見。読みしだい、修正します。
399年エウアグリオス・ポンティコス『修行論』序言(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成3』より)
そして、このような歌声は謙虚さを生み、高慢の根を断ちます。この高慢さこそ、古えよりの悪であり、「黎明に昇る明けの明星」を地に振り落とすものなのです。
これはエウアグリオス・ポンティコス(345〜399)の神学書からで、後に「七つの大罪」となる、貪欲、淫蕩、金銭欲、悲嘆、怒り、嫌気、虚栄心、傲慢の「八つの想念」について書かれている。これらは悪魔が源になっているが、まだ具体名は出てこず、上に記した傲慢が「明けの明星」に当てられているのみ。原典はギリシア語なので、この頃はまだ「ルシファー」ではないはず。このへん、オリゲネスの影響らしい。また、「罪」ではなく「想念」、仏教の「煩悩」に近いものとされている。ようするに、修行者は煩悩を捨てなくてはならないって内容。
426年アウグスティヌス『神の国』第11巻15章(岩波文庫)
ところが、かれらは、預言者の証言に、すなわち、イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的にあらわして、「ルチフェルよ、朝にのぼっていたあなたは、どうして天から落ちてしまったのか」といい、あるいはエゼキエルが「あなたは神の園の快楽のうちにあって、ありとあらゆる宝石にかざられていた」という証言にどう答えるのであるか。この証言においては、悪魔が罪なくあったときもあることが理解されるのである。
アウグスティヌス(354〜430)も、413年から426年にかけて書き記した『神の国』の中で『イザヤ書』のルシファーを悪魔とみなした。「エゼキエルが」とあるのは、『エゼキエル書』第28章のエピソードで、ここでも「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に見せ物とした」とあるが、これもイザヤ書同様にツロの王の事を指していて、悪魔を指しているわけではない。アウグスティヌスはもともとマニ教徒だったが、キリスト教に改宗した人物で、「ところが、かれらは、」というのは、マニ教徒たちを指しており、この文章は、マニ教の二元論に対する一元論的悪魔観を述べている文章である。マニ教の二元論が「悪」がもとから「悪」として創られたのに対し、アウグスティヌスの一元論では、もともとは「罪なくあった」ものとして創られたものが、「悪」になったと語っている。ということは、ルシファーという存在は、神学者がキリスト教における一元論神学を語るにあたり、「必要悪」として創られたんではないだろうか。
1130年コンシュのギヨーム『宇宙の哲学』第2巻12金星について(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成8』平凡社より)
さてこの星はルキフェル〔暁の明星〕ともヘスぺルス〔宵の明星〕とも呼ばれる。早朝、日の出の前に見られるときはルキフェルと、夕方、日没後に見られるときにはヘスペルスと呼ばれるのである。
コンシュのギヨーム(1090〜1154)はフランスのシャルトルの神学校を中心とした、所謂「シャルトル学派」のひとりとされている。この『中世思想原典集成8』はシャルトル学派の文献を集めたものだが、これを読む限り、ギリシア哲学・神話を取り込んだ、かなり独特の神学が語られていたようだ。この『宇宙の哲学(Philosophia mundi)』でも独特の宇宙論が語られていて、惑星についての解説のところに、ルキフェルが登場しており、ここでは完全に「暁の明星」として扱われ、堕天使ではない。ただ、この金星の説明部分は、「四番目は、プラトン学派に従えば、金星である。熱く湿った星である。そのために有益な星であり、一年で黄道を一周する。この星はしかし、火星と淫行を働くと言われている。というのも、自身の軌道よりも上方に出現するときに、火星への接近を果たしてその利益を減じるからである。また快楽の女神とも言われるが、それはこの星が熱さと湿気とをもたらし、それによって熱さと湿気を帯びた者たちのあいだで情欲が増すからである」と、やはりギリシア神話のヴィーナスと結びついて、快楽を司る存在となっている。あと、対となる存在として、「ヘスペルス」が登場している。
1151年ヒルデガルド『スキヴィアス』(種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社より)
私は正義であり、節を持ち、悪を欲しない。だが、おお人間よ、汝は悪を認識して以来、悪に手を出している。汝もルチフェルも、汝らはともに堕ちる。なぜなら汝らは――虚無から呼ばれるやたちまち――私に反逆するからだ。汝らは善から悪に向かって落下した。しかしながらルチフェルは悪をすっかり身内に入り込ませて、善を完全に投げ捨てた。彼は善を味わうことなく――死の手に落ちた。
ヒルデガルド(1098〜1190)は、ドイツの女性修道院長。天上のヴィジョンを幻視体験し、その記録として書き記したのが、この『スキヴィアス』である。これは三部に分かれており、ルシファーに関する記述は、1部と3部にある、らしい。翻訳は『中世思想原典集成15女性神秘家』にあるけれど、残念なことに第2部しか翻訳されてないので、私も種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルドの世界』の、簡単な解説でしか読んでない。美しい天使であったルチフェルが、神が天上で輝くように、自分も地上で輝きたいと欲したところ、神は「天に二つの神があってはならない」と言い、ルチフェルを地獄に落としたのだという。その後、楽園でイヴをそそのかし、禁断の実を食べさせた。これによって、善と悪が分かれたという。オリゲネスやアウグスティヌスは、神学の解説として『イザヤ書』のルシファーを紹介しただけだったが、ヒルデガルドは幻視により、ルシファーを神話化した。ルシファーの堕天神話はミルトンが描くよりも500年早く、ここになされていたのである。
1158年ヒルデガルド『石の書』(種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社より)
すなわち神は最初の天使を全身くまなく宝石で飾ったのである。この最初の天使ルチフェルは神性の鏡にこれらの宝石が輝いているのを見て、そこから彼の知識を受けとった。それらの宝石に、神が多くの奇蹟を巻き起こそうとされるのを見てとった。するとルチフェルの精神はおごり昂ぶった。我が身にまとうた石の光輝が神のうちに反射していたからである。彼は自分が神と同等であり、神以上のことをなしうると思った。それゆえに彼の光輝は消されてしまったのである。
も一冊、ヒルデガルドの著作から。この書は正確に言うと、『自然のさまざまの被造物の隠された諸性質の書』に含まれる文献である。この書には、さまざまな宝石について書かれているが、その序文に書かれた文章だ。ルチフェルが宝石で飾られているのは、『エゼキエル書』によってはいるが、とても女性らしい幻視である。
1184年アラヌス・アブ・インスリス『アンティクラウディアヌス』第4巻(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成8』平凡社より)
慎重に忍耐をもってついに急峻な小道を切り抜けると、彼女はウェヌスとスティルボンが堅く抱擁している場所に到達する。ここでは、太陽の使者であり一日の先駆けであるルキフェルが輝きを放っている。彼は地上に放つ光の祝福のうちに取次役をなし、彼自身が昇るとともに日の出のための舞台を設け、自らが昇る際に夜明けを告げる。
アラヌス・アブ・インスリス(1116〜1203)は、ギヨームと同じく「シャルトル学派」のひとりとされている。タイトルの「クラウディアヌス」は4〜5世紀の詩人で、彼を意識して、誌的に書かれたのが、この書だ。したがって、内容はかなり神話的であり、ギリシア神話の神々の他、独特の神名も出てくるので、マイナーな神話好きな方は要チェキ。この第四巻は天文学を擬人化した乙女が宇宙を駆ける話で、『宇宙の哲学』と同様、金星についての部分でルキフェルが出てくるが、御覧のように神話的に語られている。この後、「ルキフェルの圏は身動きが軽く、そのそよ風はより爽やかである」ともあり、竪琴の音色やセイレンの歌声に包まれた、美しい場所として描かれている。なお、スティルボンはメルクリウスのことで、こっちでは火星ではなく、水星と金星が結び付けられている。
1214年頃『ロンバルディア・カタリ異端論』(渡邊昌美『異端カタリ派の研究』岩波書店より)
ルキフェルこそ、天地を創り六日にて業をなしたと創世記に述べられてある神である。
カタリ派はキリスト教史において、異端の代名詞となっている、代表的な異端宗派である。ヨーロッパ各地に存在していたようだが、その中でもイタリアでまとめられたとされているのが、この書。現在はバーゼル大学図書館に所蔵されているらしい。カタリ派が異端とされたのは、この引用文を見ていただければ一目瞭然だろう。彼らにとっては、『創世記』のYHVHこそが、ルキフェルなのである。と言っても、カタリ派神話には始原の神が存在する。と同時に、始原の悪も存在する。もともとルキフェルは善たりし天使だったが、「四面、すなわち人、次に鳥、第三に魚、第四に獣の顔を有し、始原なき悪しき霊なるもの」に魅了され、堕天したのだ。地上において神となったルキフェルは「地の泥をもってアダムを形作り、力をもってかの善き天使を中に封じた。彼のためにエヴァを造り、これをもって罪を犯さしめた。禁ぜられたる樹を食せしとは姦淫の謂である」という。カタリ派神話では、ルキフェルこそが、人間の創造主であった。したがってカタリ派は、肉体的なもの、物質的なものを完全に否定している。人間とは、肉体という悪魔の作った牢獄に、善き天使の「霊魂(アニマ)」を持つ存在なのだという。
1260年ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』洗者聖ヨハネ(前田敬作・山口裕訳/人文書院)
つぎに、ヨハネは、智天使の役目をつとめた。ケルビムとは、〈知恵の充実〉ということである。だから、ヨハネは、またルキフェルともよばれる。この名前は、〈光をもたらす者〉という意味である。なぜなら、『ヨブ記』(38の2以下)の言葉を借りると、彼は、無知の夜を終わらせ、恩寵の光の始まりとなったからである。
聖ヨハネは、福音書において、イエス・キリストに洗礼を施した聖者である。ここでは文字通り、「光をもたらす者」という意味だろうが、ヨハネが「ルキフェル」だとされるのは面白い。なお、人文書院版『黄金伝説』は現在絶版だが、新泉社から抄訳の『黄金伝説抄』が出ている。
1273年頃トマス・アクィナス『離存的実体について(天使論)』第20章(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成14』)
さらに、オリゲネスは『諸原理について』第一巻で、アウグスティヌスは『神の国』第一一巻でこのことを聖書の権威によって確証する。その際、彼らは「イザヤ書」第一四章で悪魔についてバビロニアの王になぞらえて語られた「ルシフェルよ、暁にのぼったおまえが、いかにして堕ちたのか」という言葉を引証する。また、「エゼキエル書」第二八章では悪魔に対してティルス王の姿で「おまえは類似のしるしであり、知恵に満ち、神の楽園の宝石に包まれて完璧な美麗さであった」と言われ、その後の個所に「おまえの創出の日から、おまえの歩みは完全であったが、ついにおまえの内に不公正が見出された」と続けられている。
トマス・アクィナス(1224〜1274)は『神学大全』を記したローマの神学者。これはサブタイトル通り、天使について述べられた書だが、天使論というより、「デーモン」の語源となったギリシアの「ダイモーン」について講釈されている。「ダイモーン」には善きものと悪しきものとがいるが、その悪しき「ダイモーン」が悪魔のことだという。もちろん、それは二元的なものではなく、善きものとして創られた「ダイモーン」が、自由意志により、悪しきものへと転向したのだという。オリゲネス→アウグスティヌス→トマス・アクィナスと、キリスト教神学におけるルシファー像が受け継がれた。ルシファーが悪魔化したのは聖書ではなく、これらの神学書の系譜によるものなのである。
1307年ダンテ『神曲』地獄編第34曲(岩波文庫)
我はもとのまゝなるルチーフェロをみるならんとおもひて目を挙げ見たりしにその脛上にありき。
文学上にもルシファーが登場。ダンテのルシファーは地獄の最下層に氷浸けにされ、ユダなどの罪人を貪り食っている。
1387年チョーサー『カンタベリー物語』修道僧の物語(岩波文庫)
ルシファーから私は始めるとしましょう、彼は天使であって、人ではありませんが。というのは運命の女神は天使には何ら害を与えることはできないけれど、しかし高い地位から彼はその罪のゆえに地獄に落ち、今もなおそこにいるのですから。あらゆる天使の中でも最も輝けるルシファーよ、汝は今や悪魔(サタン)となり、転落したる悲惨な境涯から逃れ出ることはできないのだ。
チョーサーの小説の一節だが、この頃には完全にルシファー=サタンとなっていたことがわかる。
1486年シュプレンゲル&クラメル『Malleus Maleficarum』Question IV(JD訳)
同様に、高慢の悪魔はリヴァイアサンと呼ばれ、それは「付加」を意味している。なぜなら、ルシファーが私達の最初の両親を誘惑した時に、高慢によって、彼らに神性の付加を約束したからだ。彼について、主は言った、私はリヴァイアサン(その古の、とぐろを巻く蛇)と同時に現れるだろう。
これは日本では『魔女への鉄槌』と呼ばれる、魔女狩りテキスト。その中に悪魔に関する簡単な解説がある。ここではリヴァイアサン=ルシファー=エデンの蛇という扱いがされ、「高慢」にあてられている。
1587年『実伝ヨーハン・ファウスト博士』(松浦純訳『ドイツ民衆本の世界3 ファウスト博士』国書刊行会)
ご主君ルチフェル様、つまりこれは、天のまばゆい光から追われたためのお名前ですが、ルチフェル様は以前は神の天使、智天使で、天で神のわざや造られたものをみなご覧になっておられました。たいへんご立派なお姿で、きらびやかに飾られ、権威にあふれ、堂々とお住まいになって、神に造られたどのものより、金や銀よりずっときらめく、目の明るさや星々の光もかすむほどの輝きを神から受けておられたわけです。なにしろ神はルチフェル様を造るとすぐ、神の山の上において侯の位を授け、なにひとつ欠けるところのないようにしたものでした。それが、ルチフェル様が尊大に思い上がられて東の天にわが身を高めようとされたとたん、神に天の住まいから追われて、おられた座から、燃え尽きることのない火の岩へと突き落とされてしまわれたのです。つまり、ルチフェル様は天の光輝をひとつに集めた冠をいただいておられた。それが、わざわざ、むこうみずに神に逆らわれたばかりに、神にお裁きを愛けて、すぐに地獄に堕とされ、もう永久に逃れられない羽目になってしまわれたというわけです。
ちょっと長くなったが、これはメフィストが語った、ルチフェルの堕天神話である。天界にいたころのルチフェルは「立派な大天使のおひとりで、ラファエルと呼ばれておられた」んだそうだ(原文ママ)。地獄に落ちては、「鎖に繋がれ、流鼠の身で引き渡されて、審判の時までとめておかれているのだ」とされ、「東の地獄の王」となっている。ファウストの前に姿を現した時の姿は、「これはふつうの男くらいの背丈をして、毛むくじゃら。赤っぽいリスのような色で、ちょうどリスのようにしっぼを高くあげている」という。
1612年ヤコブ・ベーメ『アウロラ』(ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』より引用)
ミカエルが父なる神の姿とその美をもとに造られたように、ルシフェルも神の息子の姿と美をもとに造られた。‥‥ルシフェルがその美しさに気づいたとき、彼はすべての者の上に立とうと思った。
ベーメ(1575〜1624)はドイツのプロテスタントの神秘学者。ルシファーの堕天の原因が、その「美しさ」にあるあたり、女性ファンをうっとりさせる一節だ。
1612年セバスチャン・ミカエリス『驚嘆すべき物語』(ロッセル・ホープ・ロビンズ『悪魔学大全』より引用)
熾天使の軍団の中でも最上位にあった三名、すなわちルシファー、ベルゼブブ、レヴィヤタンはいずれも神に反逆して堕天した。‥‥キリストが冥府に降ったとき、ルシファーは鎖に繋がれたまま、万軍に指令を発していた。
ミカエリスは17世紀のエクソシストで、マドレーヌ修道女に憑依した悪魔バルベリトから教わったとして、悪魔の階級を書き記した。この階級は、今日でもいたるところで引用されている。
1629年『教皇ホノリウスの書』(ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』より引用)
ルシフェルよ、お前を呼びお前に願う、生ける真の神の名において、すべてを言葉によって創造した聖なる神、命ずれば行われる神のために。神の強力な名によってお前を召喚する。
この書は魔術実践本で、これは悪魔召喚の呪文から。

悪魔メフィストフェレスを召喚中のファウスト博士。
「悪魔に愛された女」訳者前書きより
事実は小説よりも奇なりと言うが、本書ほどこの言葉がよく当てはまる本もなかろう。この本は、フリーメーソソよりもさらに謎に包まれた秘密結社、イルミナティの最高幹部が書いた同組織を告発する日記なのである。しかも著者は女性だ。
時代は十九世紀後半。ちょうど日本が明治推新に突入した時代である。舞台ほトルコ、イタリア、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカへと広がるが、特にパリのグランドロッジが中心になっている。
著者のクロチルド・ベルソソは、イタリア貴族の家に生まれた。母は篤信のカトリック教徒だったが、父はカトリックの宿敵フリーメーソソに入り、クロチルドがまだ三歳のときに二人は離別、娘は寄宿学校に預けられる。彼女は勉学にいそしみ、十七歳で数ヶ国語をマスターし、特待生となるほどの優れた頭脳を表わした。だが、悪魔的な秘密結社は、彼女の妖精のような美貌とその優れた頭脳に、すでに白羽の矢を立てていたのである。
彼女は、計画的に莫大な借財をロッヂに負わされた父に呼び出され、卑劣な手段によって、メーソソの究極組織イルミナティに入団させられる。そして、彼らが神と仰ぐ魔神ルシファーの巫女、「夜の妖精」となるべく宿命づけられてしまうのだ。
その百年前に、音楽を通してメーソソの秘密を暴露したモーッアルト(1791年没)は、問題作「魔笛」のなかで、「夜の女王」という存在を登場させている。その解釈は様々あるが、当時からイルミナティにこのような女性がいたようである。クロチルドは「三人目」だった。
ここで彼女は、殺人儀礼に基づくさまざまなイニシュエーションを通して階段をのぼりつめ、最終的にルシファーの託宣を純粋に受け取る媒体に育てあげられる。
だが、最高幹部にのばりつめた暁に、自分の人生を破戒した者たちと、この悪魔的秘密結社に復讐するというのが、彼女の当初からの目的だったのである。「聖霊の花嫁」(ルシファーの妻のこと)となって最高権力を掌握してから、クロチルドは復讐を次々と遂げていく。そして、ついに組織を決死の思いで脱出、修道院に避難所を求め、重大極まりない告白書をしたためたのだった。著者名のシスター・マリ・エメリーはここでの洗礼名である。
本書の元原稿ほ各国で出版されるべく数ヶ国語で育で執筆され、当時、ローマと数箇所の修道院に極秘に保管されたが、教会組織にとっても汚点となりかねない重大な内容を持っていること、重要人物がまだ生存していることなどの理由から、長いこと出版が見送られた。出版されたのは、ようやく世紀が改まってからのことだ。
一九二八年、フランスのイエズス会神父、アヲル・リシャールが、クロチルドの原稿を修道院で発見した。これがきっかけとなり、カトリック司祭のパウル・プリンが「レ・エリレ・ド・ドラゴー(龍の選民)」のタイトルでパリで出版するや、この本は大反響を呼んだ。国際的な有力誌「レヴィ」の編集長が大々的に取り上げたために、当時の反フリーメーソン運動に非常に大きな影響を与えたと言われている。
この流れに乗って、二年後にはドイツのワルドサッセンで、アルベルト・アンゲラーによりドイツ語版が出されたが、ナチス政権下で発禁処分に遭い、大戦の激動のなかで散逸、久しく闇に葬り去られていた幻の奇書なのである。
一九八五年、メキシコのフランシスコ会系修道院指導司祭を務めるヨナス・ガッツェ神父がローマでこの本を発見、その内容に衝撃を受けた。当時、ヨハネ・パウロ一世の謎めいた死(一九七八年)をめぐり、メーソソによる謀殺説が広く囁かれていたからだ。神父は闘病生活をおしてまで命懸けで英訳を進め、仕事の完了とともに息を引き取った。神父にとって実にこれが絶筆となった。
神父は亡くなる前に、見舞いに訪れたアメリカ人フランシスコ会士、プラザー・ビンセソトに原稿を託し、出版を依頼した。ビンセントは独自のコメントと他の関連情報とともに、この原稿を本にした。本書は、そのなかからクロチルドの日記原稿だけを抽出して翻訳したものであり、訳注は、訳者が独自に添付した。
訳者は数年前から、精神世界あるいはニューエイジと呼はれる現代のイルミニズムに深い疑問を覚えるようになり、この問題を批判的立場から研究するようになった。そのときに、各国の研究者に接触し多数の文献を集め始め、この書に出会った。
それまで、イルミナティという超極秘組織の名称は知っていたし、各国の研究者の説にもそれなりに目を通していたが、どれも元になっている文献が同じものと見え、類似の情報に食傷気味になっていた。ところが、この本だけは違ったのだ。それは、他人の研究の孫引きでもなければ、裏づけをする労を取らずにただ憶測で書いたものでもない、組織の人間にしか書けない生の報告だったからであり、これまでに読んできたどんな本にも書かれていない、詳細な内部情報に満ちていたからである。
王人形、教皇人形に縫い込んだ犠牲者を刺し殺すイニシエーショソの現場描写などは、どんなミステリー小説も及ばないほどのすさまじい迫力がある。ちょうど一連のオウム事件が起こった時期だったため、現実感はいっそう増した。イルミナティは名称こそ違え、今なお健在なのであろうとさえ思えた。
その頃、オウム信者か幹部が書いた一通の書簡をテレビ画面に見た。そこに、イルミナティの創設者、アダム・ヴアイスハウプトを絶賛する言葉が書かれていたのを今も思い出す。この極秘組織は、本書の告発から百年を経た現在も、破壊活動家の心のなかに確実に生き続けているのだ。
本書を翻訳し終えたときに、訳者は高熱を出して、一週間仕事に支障をきたした。それほどこの本は恐るべき内容をもっている。しかも、すべて真実の出来事なのだ。
読者は、ぜひともこの本を一読し、世界的陰謀の「証拠」を、陰謀に手を染めた人間の生の言葉から、直接つかんでいただきたいと思う。
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