2008/6/28
「クシの子 その3」
彼はこの町へ来て住んだ。マリアとヨセフの故郷である。「彼はナザレの人と呼ばれる」マタイ2:23。
エジプトの神々。左は太陽王ラー,右はOSIRIS。余りにも有名だ。。「偉大な家」を意味するファラオは,エジプト王として人間でありながら神と崇めらた。生存中は太陽神ラーの子として,人間に生まれ変わったハヤブサの神ホルスであるとされ,死後は冥界の主オシリスとされた。
エルサレムに建設された第二神殿。エルサレムの神殿に帰った翌年の第二の月に,シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは彼らの他の兄弟たち,祭司とレビ人,および捕らわれの地からエルサレムに帰って来た全ての人と共に仕事に取りかかり,20歳以上のレビ人を主の神殿の工事の指揮に当たらせた。<エズラ記3:8> 神殿の内部。
現代に残された西の壁。嘆きの壁と呼ばれる。嘆きの壁の歴史は、紀元20年頃ヘロデ大王が改築した神殿の西壁として始まる。70年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争)があり、ティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。 この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残った。

イスタンブール博物館に貯蔵。HEZEKIAH'S TUNNELで1880年発見されたSILOAM(シロアム)の記述↓。参考:イエスはどんな人?
ダビデの町にイエス キリストが生まれつきの盲人を癒す奇跡を行ったとされるシロアムの池があります。
紀元前1000年頃、ダビデ王とその従者たちとは、エルサレムの先住民エブス人を彼らが水をくみ上げる縦穴から兵を送り、その地を攻略しました。(サムエル記下5/6-8)
旧市街の城壁の外のギホンの泉からシロアムの池まで続く地下水道には現在も水が流れています。
イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、
『先生、この人が生まれつきの盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか。』
イエスは答えられた、
『本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神の御業が彼の上に現れるためである。----』
イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って言われた、
『シロアムの池に行って洗いなさい。』
そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
(ヨハネ9/1-7)
オリーブの枝をくわえた鳩
メシヤはエルサレムのオリーブ山の頂上(イエスの昇天があったとされる場所で、多くのキリスト教徒がイエスが再臨する場と信じている)に再臨すると信じられています。そのせいか分かりませんが、オリーブ山の旧市街を望む斜面には大きなユダヤ教徒の共同墓地があります。
GABRIEL was sent from GOD,unto a CITY.....Named NAZARETH。この教会建物は12世紀に十字軍によって建てられたとされる。
イエスが幼少の時,両親(ヨセフとマリア)はイエスを見失ってしまった場所。「イエスが道連れの中にいるものと思い,一日分の道のりを行ってしまい,それから,親類や知人の間を探し回ったが,見つからなかったので,捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後,イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り,話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた........。両親はイエスを見て驚き,母が言った。なぜこんなことをしてくれたのです。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。すると,イエスは言われた。<どうしてわたしを捜したのですか?わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを,知らなかったのですか>
しかし両親はイエスの言葉の意味が分からなかった。それからイエスは一緒に下って行き,ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し,背丈も伸び,神と人とに愛された。<ルカ2:44〜52>

PAUL departed from ATHENS and came to CORINTH。その後,パウロはアテネを去ってコリントへ行った。そこで,ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った..............。パウロは.........やがて船でシリア州へ旅立った>使途言行録18:1〜18>
Monument erected to PETER,Pastor of CHRIST'S FLOCK.ヴァチカアンはミトラ(MITHRA)聖地跡に最初はコンスタンティヌス皇帝によって紀元326年に建てられ,15世紀から17世紀にかけて改修された。ドームはミケランジェロによる。
パウロの回心。そしてダマスコ(ダマスカス)への道。
原文1と......
引用元
4つの福音書が、「正当な聖典」(正典)として新約聖書に組み込まれたのはイエスの死後数百年も経った後のことで、それ以前は4つの福音書以外の多数の福音書がキリスト教徒たちによって採用されていた。
ところが、こうした多数の福音書は、4福音書の正典化の影で、キリスト教の歴史から隠され、封印されていたのである。これらの隠された福音書の現物は遠い昔にそのほとんどが破棄されてしまったため、永い間、これらの書を批判した教会教父たちの文書を通じてしか、それらに接するすべはなかった。ところが、ほとんどあり得ない奇蹟のような出来事が起った。
1886年、フランスの考古学者たちがエジプトの上ナイルのアフミムという町に近い古代墳墓から『ペテロ福音書』を発見した。調べてみると紀元130年頃に羊皮紙に書かれたものだと分かった。そして『ペテロ福音書』には、4福音書と異なった記載が29ケ所もあった。一例をあげると、イエスを処刑に追いやったのはユダヤ人でも総督ピラトでもなく、ヘロデだという。そして100名の兵士を指揮してイエスを十字架にかけた隊長の名を、ペトロ二ウスと記している。 さらに1945年12月、エジプト南部のナグ・ハマディという小さな村の近郊の洞窟から、素焼きの壺に封入された4世紀のものと思われる52編にも上るパピルス文書が発見された。発見したのは村の近くで肥料用の腐植土を掘っていた農夫たちである。壺の中には、キリスト教史から抹殺された『ペテロ福音書』『トマス福音書』などの福音書の現物をはじめとする数多くのキリスト教文書が入っていた。

ヘロデのエルサレム占領,紀元前36年。
参考(クリック):「ユダヤ人のうち、新しい支配者ローマに特に強く忠誠を誓いその出先機関となって権勢を振るったのがイドゥメヤの豪族アンティパトロスであった。ユダヤではその後頻繁にローマに対する反乱が起こったがアンティパトロスは常にこれを鎮圧する側にまわり、さらにこの頃ローマの中央政界で台頭してきたユリウス・カエサル(註5)にうまく取り入ってローマ市民権を手に入れることに成功した。カエサルはなるべくユダヤ人の信仰を侵害しないよう振舞い、アンティパトロスはカエサルが中東の各地に起こす軍事行動に従って勇敢に戦ったのである。
註5 カエサルはローマ中央にて、先に登場した ポンペイウス、さらにクラッススという人物と共に「第一回三頭政治」を行っていた。そのうち まずクラッススが東方の大国パルティアと戦って戦死、 次にカエサルとポンペイウスとの戦いで前者が勝利して、 前45にはカエサルが全ローマを手中におさめるに至ったのである。
前44年、ローマ中央にて大事件が勃発した。 アンティパトロスのパトロンであるカエサルがブルートゥスやカッシウスによって暗殺されたのである。 すぐにカエサルの跡目をめぐる紛争が起こったが、 ローマ市民の支持を得られなくなった暗殺者側のカッシウスやブルートゥスは地方に逃れ、 特にカッシウスはシリアにやってきて軍勢を整えようとした。そこから、カエサルの相続人でローマ中央を掌握しつつあるオクタウィアヌス等に決戦を挑もうというのである。カッシウス軍のすぐ近くにいるアンティパトロスも莫大な貢納金を負担させられた。この時まっさきに割り当ての金額を用立ててカッシウスを喜ばせたのがアンティパトロスの次男ヘロデである」

ナグ・ハマディ文書
これが20世紀最大の発見と呼ばれる『ナグ・ハマディ文書』である。『ナグ・ハマディ文書』は、発見から32年後の1977年に原典のファクシミリ版の公刊が完結し、1979年にエレーヌ・ペイゲルス博士(プリンストン大学宗教学部教授)が『グノーシス諸福音書』(邦題『ナグ・ハマディ写本』)を出版して広く一般に知られるようになり、1998年に岩波書店から邦語版(全4刊)が出版された。
1947年にはイスラエルのキルベト・クムランの周辺の洞窟内で、500余りの羊皮紙とパピルスが発見された。現在では『死海写本』の名で広く知られているものである。
この一連の発見と、その後の研究により、隠されていた様々なことが浮かび上がってきた。そして、綿々と受け継がれてきた聖書の正典、信条、教会組織に、重大な問題を投げかけたのである。
ナグ・ハマディで発見された『トマス福音書』などは、『ヨハネ福音書』と似た要素を併せ持ちながらも、まったく内容を異にする部分を持っており、『ペテロ福音書』や『マグダラのマリアの福音書』は、イエスに関する極めて重大な事柄を記述していた。このことは、イエスの処刑後、残された弟子たちはそれぞれにイエスという存在を必死に解明しようとし、それぞれの解釈を生み出し、その結果、それぞれがイエスの活動や語録を編纂した数々の福音書が作り出されたことを示していた。
これらの福音書は、それぞれ各派(マルコ派、マタイ派、トマス派など)の思想や解釈を具現化するものとなっていた。4福音書が正典化される以前には、ひとくちに「キリストの信徒」と言っても、その思想は百花繚乱の状態にあったのである。
発見された資料群をすべて鵜呑みにすることはできないが、これらの資料によって新約聖書に編纂された4福音書に記載されているイエスの言葉が本物であることが裏づけられたり、イエスの兄弟であり後継者でもあるヤコブの考えを扱った資料で正当性が立証されていれば安心して受け入れることができる、といいった新たな局面が生まれた。たとえば、イエスの言葉の中で「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10・5〜6)は、発見された資料群の内容と完全に一致しているので、イエスの実際の言葉そのままと信じることができる。それに対し、同じ『マタイ福音書』に記載されているイエスの別の言葉、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ28・19)は、完全な創作である可能性が高い。異教徒に伝道せよという指示は、イエスの考えにも、発見された資料群の内容にも反するし、「父と子と聖霊の名によって」という言葉は、長い年月を経た後にキリスト教の神学理論が確立してから使われるようになったものだからである。
そして、これらの資料群の発見によって裏付けられた、もう一つの有力な事実は、イエスの真の後継者についてである。
イエスの十字架と復活の後、弟子たちの指導者としてイエスの跡を継いだのは誰だったのか。新約聖書にもその手がかりはあるが、初期のキリスト教の教父の著作や外典福音書にその手がかりを裏付ける決め手となる証拠がある。
『トマス福音書』や『クレメンス文書』には、イエスがヤコブを後継者に指名したことが言及されている。また、キリスト教初期の教父で、著名な歴史家でもあったエピファネスによれば、ヤコブは「地上の王座を主からゆだねられた最初の人物」である。また、アレクサンドリアのクレメンス(150年〜215年頃)は、使徒たちによってヤコブが選出されたとしている。
福音書には、イエスが弟子たちに、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ね、ペトロがイエスに「あなたはメシアです」と答える場面がある。『マタイ福音書』では、そのときイエスがペトロに対して「あなたはペトロ(岩の意)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16・18〜19)と語ったとされる。しかし、『マルコ福音書』や『ルカ福音書』には、イエスがそのようなことを語ったとは全く記されていない。
教会は、ペトロが殉教したローマの墓所の上に建てられ、これがローマ・カトリックの聖地バチカンとして、イエスの正当な後継を任じてきた。しかし、新約聖書ではイエスの信仰の中心も、イエス後の信仰の中心も、エルサレムの神殿であり、エルサレムにいた弟子たちと信徒の指導者はヤコブであったことが記されている。
教会は、『マタイ福音書』に挿入された創作によって、キリスト教の拠点をローマに変更してその正当性を確立し、ヤコブを「小ヤコブ」と呼んで軽んじた。また、イエスの母マリアは「永遠の処女」であり、イエスの他に子供はいないというのが教会の主張だが、新約聖書にも、イエスにはヤコブ、ヨセ、シモン、ユダ・トマスと、さらに何人か名前の分からない姉妹がいたことを記している。
そして、新約聖書の『ヤコブの手紙』を読むと、当時のイエスの直弟子たちやその信徒らの信仰が、ことごとくパウロや教会が展開するキリスト教信仰とは相反するものであったことが分かる。
イエスの12使徒ではないパウロは、『ローマの信徒への手紙』の中で、自らを「わたしは異邦人のための使徒」(11・13)と称し、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる」(2・13)としながらも「律法を実行するすることによっては、だれ一人神の前で義とされない」(3・20)とし、「ただキリスト・イエスの贖いの業(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(3・24〜25)と記して、律法を行うことではなくイエスの犠牲を信じることによって救われるという新しい信仰を打ち出した。
パウロはまた、この自論の正しさを証明するためアブラハムを引き合いに出し、アブラハムは行いによるのではなく信仰によって義とされたとし、「実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(4・15〜16)、「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」(5・13)、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(同5・20)、「律法がなければ罪は死んでいるのです」(7・8)と言い切った。しかし、律法には行うのが難しいことは書かれていない。人間として当たり前のことが書かれているだけである。
一方、ヤコブは、「離散している12部族の人たちに」宛てた手紙(『ヤコブの手紙』)で、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」(1・25)と記し、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。信仰はそれだけでは死んだものです。」(2・14〜17)とし、アブラハムの信仰に触れて「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。(中略)人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(2・21〜24)と、パウロの信仰の誤りを正している。
しかし、のちに「キリスト教の父」と呼ばれるようになったのは、ナザレのイエスではなく、イエスの兄弟ヤコブでもなく、ペトロでもなく、タルソスのサウロ(パウロ)であった。
律法の完成者たれと教えた生前のイエスの教えを無視して十字架の人身御供として仰ぎ、異教徒に迎合したパウロ創設の「キリスト教」は、異教徒であるローマ人を喜ばせ、教会をそれまでの迫害から「地の王」に転じさせた。この新たな「教会」が、西洋の道徳、良識、芸術、建築の根幹となり、ローマ帝国崩壊後、新たに興った西洋文化の中心的存在を担っていくことになった。しかし、キリスト教を迫害した大ローマ帝国が遂にキリスト教に屈し、教会が地上の支配者になったという信仰の物語は、実際には、迫害に屈した教会が真の信仰と行いを捨て、異教徒に迎合した結果なのかも知れない。
生前のイエスに会ったこともなく、復活して弟子たちに現れたイエスにさえ会ったこともなく、12使徒でもないのに、「キリスト教の父」として知られるようになったタルソスのサウロは、ファリサイ派であり、ローマ市民であり、自身が「アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく」(ローマ人への手紙16・10〜11。アリストブロはヘロデ=アグリッパ1世の兄弟であるカルキスのヘロデの息子)と書いているようにヘロデ王家の一員であったため、積極的にイエスの信奉者を迫害し、殉教者ステファノの殺害に加担し、さらにイエスの弟子たちを殺そうとしていた。
しかし、サウロの親友であるルカによれば、ダマスコへの途上、突然、天からの光がサウロの周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」とのイエスの声を聞いて、回心したという。サウル(サウロ)というのはパウロの本名で、かつてダビデに嫉妬して殺害しようとした、2枚舌で有名な悪名高いイスラエルの初代王の名である。サウルのこの体験が事実だとすれば、復活したイエスは弟子や信徒たちには肉体を持った姿で現れたが、パウロにはそうではなかったということになるが、彼は回心したとし、名をパウロと改めたのだった。
その後3年間におよぶアラビアでのパウロの行動は不明だが、その後にエルサレムでヤコブとその信奉者に加わったらしい。その後、パウロは「ギリシャ語を話すユダヤ人」と議論したことにより、彼らから命を狙われ、タルソスへ逃れたという。その頃、ペトロは方々を巡り歩き、病人を癒したり、死者を生き返らせたりしていた。また、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされていた信徒たちが、フェニキア、キプロス、アンティオキアでイエスの「良い知らせ」(=神の国は近い)を伝え、多くの人々が信徒になっていたので、エルサレムからバルナバが派遣されて彼らを指導していた。やがてバルナバは、逃れていたパウロを探しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアへ連れ帰った。このアンティオキアで、彼らが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったという。
しかし、バルナバによってアンティオキアへ連れ戻されたパウロは、全く新しい教えを説き始める。その教えは、ヤコブとイエスの直弟子たちの教えとは根本的に違っていた。そのことは新約聖書その他の資料により明らかである。パウロは、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされていた人々が開拓した地に、異なる教えを持ち込み、やがてバルナバやマルコと意見が激しく対立して、別行動をとる。実際にはパウロは追放され、ヤコブの信任状をもつ伝道師の布教活動に徐々に押されていったようで、パウロは『コリントの信徒への手紙2』(13.1)で、この信任状について憎々しく記している。
ところが、エルサレムでヘロデ王がヤコブを殺害し、ペトロを投獄したことにより、状況が一変する。パウロはギリシャ人ユダヤ教徒のテモテを通じてギリシャ人ユダヤ教徒たちと親交を持つようになり、ヘロデ大王の娘ドルシラ(ローマ市民であった)を自らの信徒とし、ルカの『使徒言行録』によれば「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられていた」ので、マケドニアに出発した。その後、エルサレムに戻り、神殿にいたときにパウロは逮捕され、カイサリアのローマ総督フェリクスのもとに護送され、2年間の快適な「牢獄生活」を送った。フェリクスがドルシアの夫だったからである。パウロがイエス本来の教えとはかけ離れた教えを説き、律法を否定し、反イスラエルを説き、自ら「異邦人への使徒」と宣言し、「合法的な」ローマ支配に従え、と説いたのも、こうした背景によることが分かる。このようなパウロの教えが、イエスの直弟子らとぶつかるのは当然のなりゆきであった。
パウロの手紙には、自分が嘘つき呼ばわりされ、使徒ではないと非難されたことに対する憤慨が満ち溢れている。イエスの直弟子たちによる文書『ペトロスの宣教』には、パウロを「律法の背教者」、「邪悪と嘘の熱弁者」、「イエスの真理の教えをゆがめる者」と記され、パウロのダマスコ途上での回心を「悪魔が見せた夢や幻」としている。これに対しパウロは、「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(ガラテヤの信徒への手紙5・4)と書いている。
しかし、イエスが律法のうち、「第1の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第2の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この2つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12・29〜31、マタイ22・37〜40)と教え、ファリサイ派の人々と律法学者に対して、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。」(マルコ7・8〜9)と叱っていることに照らすならば、パウロこそがイエスと縁もゆかりもない者ということになる。
イエスはまた、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で最も大いなる者と呼ばれる。」(マタイ5・17〜19)、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(ルカ16・17)とも教えており、どの福音書からも、イエスが律法をないがしろにしていないことは明らかである。
イエスはむしろ、当時のユダヤ人たちが誤った律法の解釈や言い伝えによって律法をないがしろにしていることを、とがめたのである。そのことは、安息日についての議論にも顕著にあらわれている。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3・1〜6)。
イエスと弟子たちは、律法に定められている通りに十戒を遵守し、律法に定められている通りに祝祭の度に神殿に参詣したばかりでなく、毎日のように神殿で礼拝していたことが、新約聖書に記されている。
パウロはその後、ローマに向かったと、ルカは『使徒言行録』に記している。教会はパウロはローマで迫害を受け66年頃に斬首されたと主張するが、新約聖書のどこにもそのような記述はないし、その他の証拠資料もないため、その証拠はない。ローマによるエルサレム陥落を生き残り、『ユダヤ戦記』(7巻)、『ユダヤ古代誌』(20巻)などを著した著名な歴史家フラウィウス・ヨセフスは、ユダヤのゼロテ派の軍が66年にエルサレムを占領したときのことをこう書いている。
「有力者たちは、騒ぎが激化し、手に負えなくなっている(中略)と悟ると、自分たちが助かるため、使者を送った。1組は(中略)フロロス(ローマの代官)へ、(中略)もう1組はアグリッパへ。そのなかには著名な王族出身者、すなわちサウロや、アンティパス、コストバロスも含まれていた」
ヨセフスが「ケスティオスは自分たちの要望で、サウロとその仲間をアカイア滞在中のネロのもとに送り、自分たちの苦境を説明させた」と言及しているように、サウロは代表団の一員として、当時アカイアよ呼ばれていたコリントの皇帝ネロのもとに派遣された。『フィリピ人への手紙』の中でパウロは、ローマ皇帝ネロの相談役であるエパフロディトも回心させたと書いているので、パウロはこの上ない適役であり、ヨセフスの記述は信頼できる。
この会見の後、ローマ皇帝ネロはウェスパシアヌスを派遣し、4年におよぶ戦いの末、エルサレムは包囲され、ローマ軍の手によって陥落し、前代未聞の大虐殺が行われ、神殿も徹底的に破壊された。イエスの直弟子と信徒らにとって、すべては帰らぬものとなり、パウロの信者がローマやギリシャに地盤を築き、イエスの真の教えを証しする者たちは各地に散らばってしまった。 イエスラエルとエルサレムは壊滅し、ペトロとヤコブは殉教し、パウロは姿を消してしまった。後に残された各地の小集団は、それぞれが伝え聞いた「良い知らせ」を守っていた。初期の教会は、「神の教え」と呼ばれる教義書『ディダケー』を共同体の規範として用いており、その文章が共同体の手紙にしばしば引用されているが、『ディダケー』の内容は死海文書の中に見つかったエッセネ派の『共同体規則』に酷似している。また、エルサレムの初代「共同体」はエッセネ派と同じく、「柱」と呼ばれる3人の長老が導いた。3本の「柱」とは、イエスの兄弟ヤコブ、ペトロ、ヨハネである。
しかし、70年〜80年の歳月を経て、大ローマ帝国の首都ローマの異邦人キリスト教共同体が徐々に優位を築いていき、聖職者を中心とする組織をもつ支配的な「教会」が徐々に現れた。200年以上たつと、ローマの共同体は全キリスト教徒の最高位に立つと主張するために、「ペトロが教会の礎である」という伝説を用い、そのペトロがローマで殉教したことを理由に、ペトロの墓の上に教会を建て、ペトロが最初のローマ司教だとした。これが現在のバチカンのサン・ピエトロ(聖ペトロ)寺院である。 ローマ帝国に迎合した新しいキリスト教を奉じるローマ教会と、キリスト教の勢力を利用して皇帝の地位を確保しようとしたコンスタンティヌスが手を組み、コンスタンティヌスが即位すると、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となる。そして、325年のニカイア公会議においてローマ「教会」の聖職者の権力が強化されると、他のキリスト教は異端として禁止された。ローマ教会は、ローマ皇帝から授かった地上の権力を行使し、ヨーロッパ全土で大量のイエス信徒を殺戮し、イエスの直弟子たちが開拓したエフェソ、スミルナ、ティアティラといった東方の諸教会を追放し、壊滅させていったのである。
ちなみに『ヨハネ黙示録』はエフェソ、スミルナ、ティアティラといった「アジア州にある7つの教会」に向けて書かれたものである。
さて、イエスの後継者は誰か、という問題の正しい答えは、イエスの後継者はいない、というものである。

イエスがペテロについて語ったとされる「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という言葉は、マタイ福音書が書かれたギリシャ語では、「つなぐ」と「解く」の意味が明確でない。 ヘブライ語では、「つなぐ」とは「縛る」「捕らえる」「禁ずる」という意味であり、「解く」とはその逆の意味、つまり「解く」「解放する」「許す」という意味なのである。そしてこれは、律法の解釈について使われる言葉で、例えば、ある人が行った行為について、その行為が律法に反しているか、反していないかを、祭司が律法の解釈によって判断を下す権威を持っていた。祭司による律法の解釈によって、禁じられることを「つなぐ」(つまり罪を犯したので捕縛すること)と言い、許されることを「解く」(つまり解放されること)と言ったのである。
つまり、イエスがペテロに与えた権威は、後継者としての権威ではなく、「天の国」すなわちイエス集団における祭司の権威なのである。 イエス集団を政治的に率いる役割は、イエスと同じくユダの血統を継ぐヤコブが引き継いだ。イエスは、王であり、預言者であり、大祭司でもあるので、その一部分をそれぞれペテロとヤコブが継いだわけである。では、イエスの預言者としての役割を継いだのは誰か。ヨハネである。
つまり、イエスが十字架についた後は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人が一体となって指導し、3人を中心とする12使徒がイエス集団(天の国)を率いたのである。このことを理解して福音書を読むとき、イエスの言葉や弟子たちの言葉が新たな息吹をもって響いてくる。イエスが十字架についた後のペテロの行動は、まさしく天の国の祭司としての行動であったし、ヤコブの行動は王としてのイエスの後継行動であり、ヨハネは預言者としての役割を果たしている。
ところが、王でもなく、祭司でもなく、預言者でもない、パウロがその後のキリスト教の礎となってしまった。それにより、キリスト教は、イエスの正統を継いでおらず、パウロを継いでしまった。そのため「天の国」におけるキリスト教は、比較的正しい道を歩んでいる者さえ、天の国の神殿の「異邦人の庭」に入って祈ることを許されるにとどまり、「主の民」ではないことになる。
ただ、後にパウロ派(ローマ・カトリックとプロテスタント)によって編纂された『新約聖書』には記されていない、ペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人の後継者たちは存在した。そして、その後継は神とイエスによって脈々と引き継がれている。
以下は重要ですからもう一度。
1886年、フランスの考古学者たちがエジプトの上ナイルのアフミムという町に近い古代墳墓から『ペテロ福音書』を発見した。調べてみると紀元130年頃に羊皮紙に書かれたものだと分かった。そして『ペテロ福音書』には、4福音書と異なった記載が29ケ所もあった。一例をあげると、イエスを処刑に追いやったのはユダヤ人でも総督ピラトでもなく、ヘロデだという。そして100名の兵士を指揮してイエスを十字架にかけた隊長の名を、ペトロニウスと記している。 さらに1945年12月、エジプト南部のナグ・ハマディという小さな村の近郊の洞窟から、素焼きの壺に封入された4世紀のものと思われる52編にも上るパピルス文書が発見された。発見したのは村の近くで肥料用の腐植土を掘っていた農夫たちである。壺の中には、キリスト教史から抹殺された『ペテロ福音書』『トマス福音書』などの福音書の現物をはじめとする数多くのキリスト教文書が入っていた。
これが20世紀最大の発見と呼ばれる『ナグ・ハマディ文書』である。
起源375年ヒッポ公会議にてアウグスティヌスは「ヨハネの黙示録」を正典に加えた。ルシファーという存在は,神学者がキリスト教における一元論神学を語るにあたり,必要悪として作られた。キリスト教の開祖者がヘラクレイトスであれば正反合の弁証法を駆使するのは当然だ。オリゲネス〜アウグスティヌスは「イザヤ書」のルシファーを紹介しただけであったが,ヒルデガルドは幻視によりルシファーを神話化した。ルシファーが悪魔化したのは聖書ではなくこれら神学者の系譜による。それはカルタゴの時代から存在する国際金融資本家の思う壷であった。
前200年頃『ヨブ記』第11章17(日本聖書協会訳『聖書』より)
そしてあなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる。
この節のラテン語訳は「et quasi meridianus fulgor consurget tibi ad vesperam et cum te consumptum putaveris orieris ut lucifer」である。最近になって知ったが、『旧約聖書』のラテン語版には、下に記す『イザヤ書』ともうひとつ、『ヨブ記』のこの部分にも、「lucifer」という言葉が使われていた。ただし、欽定英訳では「And thine age shall be clearer than the noonday: thou shalt shine forth, thou shalt be as the morning」となっており、『イザヤ書』と違い、完全にラテン語訳にしか使用されていない。でも、この節は「もしあなたが心を正しくするならば」、「あなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる」ということで、正義の行いをする者に対して、「lucifer」という言葉が使用されているのは面白い。
前200年頃『イザヤ書』第14章12(日本聖書協会訳『聖書』より)
黎明の子、明けの明星よ。あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたはさきに心のうちに言った。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。しかし、あなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。
現在では悪魔の頂点とされているルシファーだが、聖書ではここにしか登場しない。この一節は、ヤコブが「バビロンの王をののしって」言ったものであり、本来は悪魔の話ではない。しかも、もともとヘブライ語で書かれた『イザヤ書』のこの部分は、ヘブライ語ではHelel ben Shaharすなわち「輝く者」である。紀元前後のギリシア語訳(所謂『七十人訳ギリシア語聖書』)ではeosphorosとなり、これが405年に聖ヒエロニムスによってラテン語に訳された時(俗に『ウルガタ聖書』という)、「明けの明星」を表すluciferとなった。つまり、聖書だけを見るなら、ルシファーという悪魔は、存在しないに等しいのである。だが、次に上げていくキリスト教の神学者たちによって、ルシファーは悪魔化していく。
150年代頃『ペテロの第二の手紙』第16章(日本聖書協会訳『新約聖書』より)
こうして、預言の言葉は、わたしたちによりいっそう確実のものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
この部分のラテン語訳は「et habemus firmiorem propheticum sermonem cui bene facitis adtendentes quasi lucernae lucenti in caliginoso loco donec dies inlucescat et lucifer oriatur in cordibus vestris」で、ここでも「明けの 明星」に「lucifer」があてられている。ただし、欽定英訳では「We have also a more sure word of prophecy; whereunto ye do well that ye take heed, as unto a light that shineth in a dark place, until the day dawn, and the day star arise in your hearts」となり、やはりラテン語訳にしかでてきていない。この預言の言葉とは、キリストの言葉のことだ。キリストの預言に「lucifer」が当てられているのは面白い。これが『ヨハネの黙示録』第22章16「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」へと繋がっていく(ただし、この部分のラテン語訳は「ego Iesus misi angelum meum testificari vobis haec in ecclesiis ego sum radix et genus David stella splendida et matutina 」であり、「lucifer」は使われていない)。
230年オリゲネス『キリスト教原理について』(ニール・フォーサイス『古代悪魔学』より引用)
明らかに、この個所のことばによって、かつてはルキフェルと呼ばれ毎朝昇ることを常としていた者が天国から転落したことが示されている。かれが暗闇の存在だと言う人もいるが、もしそうならば、どうして以前かれは光をもたらす者と呼ばれていたのか。あるいは、もしその光の一端さえ持っていないのならば、どのようにしてかれは朝に昇ることができたのだろうか。
オリゲネス(185〜256)はギリシアの神学者であり、原著はギリシア語で書かれていたはずである。現存している『キリスト教原理について』は、ルフィヌス(345〜410)によってラテン語訳されたもので、おそらくはラテン語訳版で初めてルシフェルの名が記されたんじゃないだろうか。ここで、『イザヤ書』の記述が、バビロニアの王ではなく、悪魔に対してのものだという説が生まれる。この当時、グノーシス主義などの異端宗派が生まれ、オリゲネスら初期神学者たちは異端の信徒たちと議論を交わした。この一節も、二元論に対する、一元論的見解から悪魔について述べられたものだ。なお、この書は『諸原理について』というタイトルで、創文社から全訳がでているが、これを書いている時点で未見。読みしだい、修正します。<ルシファー研究室より>
第一エノク書,第二エノク書が偽典になって以来ダヴィデ崇拝に変わった。しかしエノク書はエノク魔術などと捻じ曲げられた。
イエスかバラバかどちらを無罪にするかとピラト提督の問いに「バラバ」と答えたのがユダヤ人ではなくイエスを殺害したのがヘロデだとするならば「聖書」はすべて書き変えなければならないが,黙示録22:18でちゃんと釘を刺している。「この書物の預言の言葉を聞く全ての者に,わたしは証しする。これに付け加える者があれば,神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる..........」と。
そして「然り,わたしはすぐに来る。」アーメン,主イエスよ,来てください。」で聖書は終わるが七つの時を考えれば1914年にはイエスは再臨(臨在)している,していないとするものみの塔の理論の方が正しい気がする。ヴァチカンはファティマ第三の秘密で終末論を展開しているがなんのことはない「マヤ暦」の終焉の日を語っているにすぎない。
ダヴィンチ・コード同様,本を売るのが目的の類。読まないほうがいいでしょう。
ファティマの奇跡を訪ねるポルトガルへの旅
ヘロデの命でイエスを殺した隊長ペトロ二ウスはペトロか,と考える人はかなりするどい。ヘロデ王がなぜヤコブを殺害しペトロを投獄したのか説明できると一歩近づく。
ペトロニウス(Gaius Petronius Arbiter、27年 - 66年)は1世紀の帝政ローマ時代の文人。『サテュリコン (Satyricōn)』の著者とされる。皇帝ネロの寵愛をうけて宮廷に仕え、また60年から61年までビテュニアの属州総督を務め62年に補欠執政官となる。後に親衛隊長官のティゲリヌスに中傷されて66年に自殺を命じられた。
歴史家タキトゥスが『年代記』16巻18 - 19節にわたってペトロニウスについて記述している。
ガイウス・ペトロニウスについては、生前までさかのぼってもう少し眺めてみたい。なにしろ昼日なか眠って、夜を仕事と享楽に生きた人であるから。他の者なら、さしずめ精励恰勤によるところを、この人は無精でもって有名となった。資産を食いつぶした人によく見かけるような、大食漢とか放蕩者としてではなく、贅沢の通人として世に聞えていた。彼の言うことおこなうことは、世間ばなれしていて、どことなく無頓着に見える場合が多かっただけに、いっそう快く、天真爛漫な態度として受けとられた。それにもかかわらず、ビテュニアの知事として、ついで執政官として彼は精力家であり、そしてそのような任務によく耐えうる人物であることを証明した。それから後、ふたたび悪徳の生活にもどり、というよりも背徳者をよそおって、ネロのもっとも親しい仲間にはいり、「趣味の権威者」(elegantiae arbiter)となる。こうしてあらゆる歓楽に飽きたネロは、ペトロニウスがすすめるもの以外は何も、心を引くものとも粋なものとも考えなくなる。これがティゲリヌスの嫉妬を刺激した。ペトロニウスを競争者と、いや快楽の知識にかけては優越者と見てとった。それで彼は、その前にはあらゆる情熱も膝を屈するもの、すなわち元首の残忍性に訴えた。「ペトロニウスはピソ(ネロの暗殺をくわだてた犯人)の共謀者スカエウィヌスの友人でした」と非難し、証人として、ペトロニウスの奴隷を一人買収する。その他の奴隷はみな牢獄に閉じこめ、主人を弁護する手段を奪った。もうこうなってからは、ぐずぐずと不安や希望をのばすことに我慢できなかった。もっとも、一気に生命をやっかいばらいしたのではない。血管を切ってから、気の向くままに流れ口を閉じたり開いたりして、そのあいだ、ずっとペトロニウスは友人と閑談する。それは真面目な話題ではなかったし、そうした話をして沈着冷静の名声を求めようともしなかった。彼が耳を傾けたのは、霊魂の不滅とか哲学の教義などを説教する人にではなく、ばかばかしい歌やふざけた詩句を興ずる人に対してであった。奴隷のある者には惜しみなく物をほどこし、ある者には鞭を与えた。饗宴の席につくと、眠気をもよおすままにまどろんだ。強制されたとはいえ、できるだけ自然な往生をとげたように見せたかったのである。遺言付属書の中にも、死に臨んだ人がたいてい陥るような、ネロとかティゲリヌスとか、そのほかの権力者に対するあの妄言を記さなかった。それどころか、ネロの破廉恥な行為を、彼に汚された少年や女の名とともにあげ、一つ一つの愚行の新奇な趣向を詳しく述べ、それを封印してネロに送った。それから彼の死後に犠牲者をつくるため使用されないように、自分の指輪(認印にもなった)を壊した。
—タキトゥス『年代記』16巻18 - 19節
この剛毅な死に方はシェンキェヴィチの小説『クオ・ヴァディス』のなかで再現されている。
[編集] 『サテュリコン』
ルーベンス作『サテュロスたちの饗宴』ペトロニウスの作品『サテュリコン』は散文を主とし、ところどころに韻文を交え、エンコルピウスなる人物がアスキュウルトゥスとギトンという下層階級の人物を同伴して、主に南イタリアに遊び、さまざまの事件に遭うという筋で、「トルマルキオンの饗宴」の場面で代表されるように当時のローマ社会の淫蕩ぶりをも描いている。
『サテュリコン』の著者はティトゥス・ペトロニウスと伝えられており、上述のペトロニウスとは個人名が異なる。それにも拘わらずサテュリコンの著者とタキトゥスが伝えるペトロニウス・アルビテルが同一人物であることは確実とされている。これはサテュリコンの作者として想定される豊かな教養・ネロの寵愛・高位の貴族といった人物像と、『年代記』に記されたペトロニウス・アルビテルの人物像がよく一致し、このような人物がネロの宮廷に複数いたことを想定する方が不自然だからである。
イギリスの作家D・H・ロレンスが残した書簡には、『サテュリコン』の読後感を「ペトロニウスは公明正大だ。彼は何をしても彼の中の純粋な精神を堕落させ汚させはしない」と記されている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9" より作成
参考:トマス福音書におけるイエスの言葉〜キリスト教外典
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