2008/6/24
「ある日突然」
ある日の午後池袋サンシャインの水族館は親子連れでごったがえしていた。今ではこのビルが「巣鴨刑務所」の跡地であったことを知る人もめっきりすくなくなった。
ある日突然A級戦犯で拘束されていた「岸信介」「笹川良一」「児玉誉士夫」の三人が米国特務機関によって自由の身になった。岸は戦時中の内務大臣,児玉は中国大陸で制服の威力で阿片の取引によって財をなし松本清張「けものみち」のモデルとして知られる「右翼」のドン。
笹川は公認の博打(競艇)のドンとなり現在は日本財団として引き継がれている。裏話として児玉が金塊や現生でGHQと裏取引をしたとされる。日本で反政府運動が起きつつあり,社会主義運動ともかさなり 危機感を抱いた米国特務機関(G2-Dとして知られるドーマン機関)はCIAと調整し3人を釈放することで利害が一致した。
A級戦犯が13階段を上った1948年12月24日のクリスマスイブ,発狂した東条英機は天皇陛下万歳を繰り返していた。翌日男達は三名にタバコをすすめていた。「いいか,お前達,よく聞くがいい。13階段で死ぬ人間はあと三名残っている。これからお前達に言う役割を忠実に実行するならば明日釈放しよう,You son of the Bitches!と。三名はションベンをちびりながら「Yes,I do」と小さな脅えた声で返答した。男達が姿を消した瞬間三名は号泣した。アメリカに魂を売り,日本を売った瞬間である。東条英機の収監されていた横に居たのはB級戦犯細谷義男。岸の後輩で内務省の高級官僚であった。戦時中は司政官をしていたが4年前に狂死した。この男は母が再婚した相手である。
児玉の資金はCIAの資金とともに児玉機関をつくった。そしてありあまる資金で自由民主党は発足した
東西冷戦時代の1960年代後半に、自民党の岸信介(安倍晋三の祖父)や右翼の児玉誉士夫、笹川良一らの協力を得て、教団は反共主義の政治団体、「国際勝共連合」を韓国と日本で設立。共産主義を神と人類の敵として徹底的に批判し、それぞれの国の与党や保守勢力を支援し、関係を深めた。
岸信介は日米安全保障条約の締結 笹川良一は多様な役割 児玉誉士夫は天皇制護持の役割を与えられた。戦後の日本のドラマは米国の東アジア太平洋地域の極東戦略図の中に刻印を押されることになる。
それを間違いなくうらずける資料として面白い記述がある。ヘンリーキッシンジャー(ベトナム戦争当時の国務長官)が引退後書いたMY WHITE HOUSE YEARS があるが原書版333ぺージにこう書いている....Sato arrived at the White House on November 19,1969.He represented a country that had rested its entire security and foreign policy upon the United States.(佐藤は1969年11月19日ホワイトハウスに到着した。彼はその安全保障と外交政策を全て米国に依存している国を代表して来た。)
三人の釈放は東条英機などが絞首刑になった1948年12月24日の翌日である。岸はその後保守合同実現し,自由民主党が生まれ 55年体制と呼ばれる政治の暗黒時代が続く。いわゆる保守合同に名を借りた「米国傀儡政権」の誕生である。それは政治だけではなく 教育 文化 すべての分野において介入された。
戦前の駐日大使館付(ジョセフ・グルー大使)であった米国特務機関工作員ユージー・ドーマンを中心とする米国対日評議会(ACJ)はGHQの民生局(GS)にたいし圧力をかけ占領政策の主導権は治安情報局(G2)に移った。このG2が通称ドーマン機関人脈と呼ばれている。
1957年岸内閣成立 G2のD機関は同時に動き出した。その後長い年月が経過した。集団的自衛権を認めさせ, 北朝鮮攻撃をもくろんでいたD機関は しびれをきらし新進党をつくらせ 集団的自衛権の成立をせまった。
しかし一度は行使を認めるといった男は,急に自説を翻した。米国の北朝鮮爆撃は一歩も二歩も後退した。翻した男を米国は見限った。米国にとって真の意味での味方はいなくなった。あとは日本の政治家 大蔵省 日銀の弱体化を図るしかない。
CIA工作員の多数入り込んでいるY新聞は川崎市の助役をリクルート事件でスクープした。芋ずる式に実力政治家は失脚した。米国の許可を得ない外交をした政治家は次々罠にはまっていった。ある政治家は謎の死を 中国と勝手に国交回復した罪でロっキードでは手先のコーチャンの罠にかかり 北朝鮮にわたり金日成にあった金丸も脱税という罠をしかけられた。これで一応大物は始末できたが あとはだんだん知恵をつけてきた国民と共産主義勢力をどうするか。
反共対策の手先であるフジ産経グループのフジテレビに触手を伸ばし, 軽薄番組を夜の八時に全国放送することによって若者の白痴化をはかる。いわゆる軽チャー路線がはじまった 他のテレビ局も追随し 今では類を見ない軽薄番組が多数を占めている。教養的な番組は視聴率が全く伸びない これに輪をかけるように偏差値教育が取り入れられた。とにかく選挙の投票へ行かないでくれれば自民党安泰なのである.
森前総理が言っていた言葉を思い出してください(選挙当日寝ていてくれたらいいと口をすべらせた)。G2のD機関は今も虎ノ門にある巨大な米国大使館内にあり 日本のすべての報道 雑誌新聞などすべて監視下にある。
そんな中何も知らない天真爛漫な「ほりえもん」はフジテレビに仕掛けた。必然的にD機関は検察にも触手を伸ばした。堀江をやれ。見えない像 聞こえない声は 誰にも見えないし聞こえない。
佐藤栄作元総理はその後ノーベル平和賞を受賞した。受賞した理由は米国の望むままに沖縄を引き受けたからだ。核は残された。あるのにないという国会答弁は何百回聞いたことだろう。
1989年日本のバブルは絶頂期を迎えた。ついに米国ユダヤの逆鱗にふれるときが来た。三菱地所がユダヤの象徴ロックフェラーセンターを買収した。日本はいつの時代も最後は平衡感覚を失う。
国務省はジョウジソロスに税金免除と引き換えにヘッジファンドを手先に日本の株式市場つぶしにかかった。いわゆる確立微分方程式を駆使した「裁定取引」が始まった。日経平均は無残な下がり方を続けた。1993年クリントン政権下の財務長官ルービンはクリントンの全幅の信頼を受けある策謀を計画していた。
1995年になると米国の累積国債発行残高(赤字国債)は4兆9000億ドル 国債の支払い金利が6.5パーセンとして3185億ドル 円にして約41兆円(当時)これが当時の年間の利払いです。1995年9月の赤字はGDPの69パーセント。このまま行くと1997年には累積赤字がGDP比100パーセントになりドルの紙くず化は目前でした。ニュウヨークダウを限りなく上げ 分母であるGDPをあげないと米国は崩壊する。
ウオールストリート(元ゴールドマンサックスの会長)出身のルービンはその条件として長期金利を下げ株を上げるためには 猛烈な円高に持って行く。外国為替特別会計という特殊な法律を持つ日本の当局は徹底してドル売りに対してドルを買ってくる。 買ったドルが米国債に流れ込む仕組みは出来ていた。
日銀をあざ笑うかのように最後はノックアウトオプシオン80円(80円を瞬間的にでも割ればすべてを失うゲーム)を組み日本企業に売り込んだ。 ほとんどの企業が罠にはまった。一番悲惨だったのは当時の日産自動車であった。その後ゼロ金利となった円をシンガポールのユーロ市場で調達し タックスへブンを通して米国に還流した。そしてダウは1万ドルをこえた。
ゼロ金利政策で老人の預金はあぶりだされ株式の暴落で多くの老人は一文無しとなった。これが金利をあげられないからくりです。まさに人間の草刈場となることによって米国は生き返った。(と言っても一時的に)
ここは仏領ポリネシアのランギロアですが,ボラボラなどでは昔の日本軍の大砲の残骸などが見られる。
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