2008/6/20
「人称別の僕」
( 肉体の悪魔)
「厳密に言えば,アダムは何か新しいことを覚えるのではなく,自分の裸体を悟り善と悪の区別を意識するのだ。同様に歳をとってゆく人間は,知らない事を何か習うのではなく,新しい次元の中で,新しい照明のもとに悲しい真理を発見するのだ」
これはウラジミール・ジャンケレビッチのLa Mort「死」からの引用ですが,私とそれ,あれの三人称的な関係は客観的な事象として捉えられが,私とあなた(僕とマルク)という二人称的関係の場合,とくにあなた(マルク)の死の場合に答えを出すのは無理である。ハイデッカーの個別化の死とは異なるものであるが,と格好つけて言うと偉そうに見えるがそういう哲学論議は最も嫌いなのであえてしない。なぜなら「私」が死んだ経験など語れるものではないから。
Raymond Radiquet(レイモン・ラディゲ)の虚飾のない世界を,虚飾をつけて評論する日本の作家たちにはうんざりする。「肉体の悪魔」はラディゲ17歳の時の処女作であるが,文中に出てくる獣のような顔つきという言葉から,似たような内容の「獣の戯れ」を書いた三島由紀夫には辟易すると同時に,「悪徳の栄え」から「サド公爵夫人」も書いてしまった同じ作家には吐き気を覚える。ノーベル賞を受賞できなかったのは当然であろう。堀辰雄,大岡昇平,坂口安吾しかりである。悪徳の栄えとは。戯曲サド侯爵夫人とは。ダリとサドは。マルキ・ド・サド作品集は。
早熟で20歳で夭折した天才は早くから父の書斎から,マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」やラファイエット夫人の「クレーヴの奥方」を見つけだし弁証法の手法を覚え,フランス唯物論を身につけた。第一次世界大戦の混乱期に年上の既婚者マルク(マダム・ラコンブ)との愛欲を書いた「肉体の悪魔」はジェラール・フィリップ主演で映画にもなったが,このドン・ファンも36歳で夭折した。「ドルジェル伯の舞踏会」はラディゲが死んだため未完成に終わったが,その後ベルナール・グラッセ書店から出版された。
肉体の悪魔では愚かな母を皮肉を込めて描き,実際にはアンリ四世校を放校処分になったラディゲは気まずいのか,友だちのルネを退学処分にさせている。詩人のマックス・ジャコブはラディゲの才能に驚き,詩人ジャン・コクトウに詩集「燃ゆる頬」を見せるやコクトウは「一番賢明なのは詩がそれに価する時にだけ狂人になることだと」評価し「阿片」の助けをかりた。ラディゲがジャン・ケレビッチに影響を受けていたことは「死を冷静に受け止められるのは,一人でいるときに限る。二人で直面する死は,死とは言えない。たとえ神の存在を信じない者にとっても。心が痛むのは,命を断ち切ることではない。命に意義を与えているものと離れることだ」という文章からうかがい知ることが出来る。この本では最初から最後まで僕という一人称しか使っていない。
「望みをすべて叶えてしまうと(マルクとの愛欲),自分が不当な人間になっていくような気がした。.....人の心に理性にはない道理があるとすれば,それは理性が心ほど思慮深くないからだということを認めなければならない。.....ところが現実には,道徳にさえ背かずにつねに同じ型を追いかけていられるのは,愚かな者達ばかりだ」肉体の悪魔・松本百合子訳より

肉体の悪魔・映画のシーンより。ジェラール・フィリップの僕とマルク
神は生成の誤謬を理解し,なお自制心を失わない者を極端に嫌う傾向がある。それによって発狂した者には微笑みかける。しかし神も自制心を失いかける時もある。背教者ユリアヌスがミトラ教を愛したときのような場合だ。
ゲーテは文筆の業に従うということは不治の病であり,それに忍従するしかないと明言を残した。そういうことを告白できるゲーテはだから偉大なのです。小説とは迷っている人が書き,迷っている人が読むものであり,書くということは言語の悪用でもあるからです。
誰が誰の文体を真似たかは興味のあるところです。トルストイはルソーの文体を,村上春樹はレイモンド・カーヴァーの文体を,石原慎太郎の太陽の季節はへミングウエイの「日はまた昇る」を,三島由紀夫の獣の戯れはラディゲの肉体の悪魔をまた美徳のよろめきはサドの美徳の不運を。慎太郎さんの太陽の季節に至っては武田泰淳の「異型の者」の盗作でもあります。世の中いろいろです。慎太郎に芥川賞を与えるために「異型の者」を絶版にしてしまうのですからね。
「人があなたをほめるときは,あなたがたは災いだ」<ルカ6・26>という言葉を思い起こすとき人は不安の念に襲われるに違いない.........千年間の修道院制度という神の国(Civitas DEI)という落とし穴の歴史は,周知の事実であって,プロテスタントや反キリスト教の立場に立つ著述家の申し立てをことごとく信じる必要はない。人間は生まれつき,善と同様に悪をなす能力をもっている。たとえ,われわれの想像したような,単一の地上において戦う教会が成立したとしても,人間の原罪はなくならないであろう。現世は神の国の一地方なのです。<アーノルド・トインビー>
「トルストイ復活・59章」
世間に最も広く流布されている迷信の一つは,人間というものはそれぞれ固有の性質を持っているものだということである。すなわち、善人とか,悪人とか,愚者とか,精力的な者とか,無気力な者とかに分かれて存在しているという考え方である。
だが,人間とはそのようなものではない。ただわれわれはある個人について,あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか,馬鹿でいるときよりもかしこいときのほうが多いとか,無気力でいるときより精力的であるときのほうが多いとか,あるいはその逆のことがいえるだけである。
かりにわれわれがある個人について,あれは善人だとか利口だといい,別の個人のことを,あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば,それは誤りである。それなのに,われわれはいつもこんなふうに人間を区別しているが,これは公平を欠くことである。
人間というものは河のようなものであって,どんな河でも水には変りがなく,どこへ行っても同じだが,それぞれの河は狭かったり,流れが速かったり,広かったり,静かだったり,冷たかったり,濁っていたり,暖かだったりするのだ。
人間もそれと全く同じ事であり,各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが,あるときはその一部が,またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために,人々はしばしばまるっきり別人のように見えるけれども,実際には,相変わらず同一人なのである。
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