2008/6/8
「IMAGO DEI からCIVITAS DEIへ その2」
イルミナティによる世界最高の意思決定機関の儀式は年二回行なわれる。イルミナティ結成の1776年5月1日を記念して5月1日とハロウインの前日に開かれる。前日には13血流ファミリーから生贄が捧げられスープとしてふるまわれる。酵素たっぷりの血のワインとともにShape-Shifterとしての能力を持つレプティリアン達は久しぶりの人肉に貪りつく。Luciferに忠誠を誓うため富も名誉も権力もある超大富豪たちの避けられない儀式だ。オカルト・パワーで圧倒的に優位な13血流のうちのコリンズ家からはいつもグランドマザー(13位階)のコリンズは黒い衣装を身にまとい,黒壇と金で出来た月型の玉座にいる。玉座は足のペダルをふむと自動的に回転する。彼女の裏には13人ドルイドカウンセルの13人が坐っている。過去六ヶ月間に起こったこと,これから起こることが書き込まれた予定表が話し合われる。この予定表は漏れることはない。しかし,これから書くことは預言でも予言でもなくその予定表である........と古い記事で書いたがイルミナティの崇拝する神はLUCIFERである。
コリンズ家(ジョン・トッドはここの家系出身)にオカルトパワーで劣るロスチャイルド家はこうしてソロモンの鍵の召喚魔術を駆使してLuciferと食事を共にする。長年ロスチャイルド家に仕えた召使が描いた絵より。「ジョン・コールマン著:ロスチャイルドの密謀より」 元Mothers-of-Darkness(イルミナティ11位階)のCisco Wheelerさんはロスチャイルド家のアイドルでもあったのでこの話は嘘ではないことが確認された。
1月にポートランドで案内してくれたシスコさん(左)と元召使のシェリー
この9.11での悪魔(DEVIL)のイメージですが,今回英国で元CIA,KGBなど様々な人たちと会う事ができたがそのうちこのイメージに関しての結論はこうである。「CIAのPsy−Ops AgentのMark PhillipsがCGを駆使して撮り,8時59分にAP通信に伝送し,14分後,9時13分と刻印された。これは黙示録9:11にあるAngel of ABYSS(Destroyer)がイメージされている。つまり,Illuminati Ritual Fire Sacrificeである。しかし,その9:13分にも意味がある。同じ黙示録から<大きな河,ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ,四人の天使は,人間の三分の一を殺すために解き放たれた>、と。もう一つ化け猫があるがこれは米国政府のプロパガンダ以上わかっていない。。
Dalai Lama. On the Dalai Lama's immediate right is former Nazi SS Death Squad Leader, Heinrich Harrer. On the Dalai Lama's immediate left is friendAbove Photo - A 1994 photo from the Dalai Lama's own website. In the middle is The of the Dalai Lama, Nazi SS Death Squad Leader and convicted Nazi War Criminal, Dr. Bruno Beger who was convicted of mass murder at Auschwitz Nazi Death Camp in Poland during World War II. Compare with earlier pictures of the Dalai Lama (below) being embraced by mass murderer, Bruno Beger and appearing on the front cover of Bruno's book. DALAI LAMAこそCIAでDVD DACHAU/German Black Intelligenceの幹部なのです。無知は犯罪でもあることを心に銘じよ。
DVD=German Black intelligence=1000years German REICH。本部はミュンヘンのDachouとNew Yorkにある。
DVD(DEUTSCHE VERTEIGIGUNGS DIENST)とはIlluminatiを先導するGerman Black Intelligenceのことで本部は南西ドイツの北西16キロにある静かな中世都市DACHAUのかつての収容所に隣接したSSの建屋のBEREITSCHATSPOLIZEI(機動隊)の一部としてGSG9(略称G9)内部にある。対テロ特殊部隊であるが表向きは活動中止状態である。GSGとはGRENZSCHUTZGRUPPEの意味。米国のConcentration CAMPはDVDのWillie Bill HEFNERによって国家予算化され,ROBIN HAYESに引き継がれた。色々写真を載せたが囚人を護送する鉄道はCAMPからAMTRAKにつながっている。まさしくアウシュビッツが2500倍に拡大しX-DAYを静かに待っている。
ちょうどミュンヘンオリンピックの際に設立された。それは(日米欧)三極委員会やグローバル2000の時期であり日本が殺す側に立たされた瞬間でもある。あるいは明治以降の偽天皇家が望んだ姿である。フルベッキが生きていたら小躍りして喜ぶでしょうね。ロンドン郊外Kew GardenにあるNational Archives(公文書館)でのファイル・ナンバーFO368・369・370から学んだ事実である。
ミュンヘンDachauの静かな町並み。ここに世界を破滅に導く組織があるとは。
Portland Coffee CreekにあるConcentration CAMPに隣接する未使用の囚人護送鉄道。AMTRAK経由で大量に輸送する。2008年1月現地で撮影。
世界最高のイルミナティ意思決定機関のリーダーであった13人ドルイドカウンセルのジョン・トッドはその肉声で「イルミナティのリーダーはロックフェラーである」と明言している。ロックフェラーはヤコブ・シフ亡き後の米国での代理人をロスチャイルドによって指名された男である。その男と仲良く写真を撮ったりお門違いな陰謀論を展開している元.......支局長がいるが信義に反する行為であることを言っておく。ところでそのジョン・トッドがまだ生きている,あるいは昨年まで生きていたとの情報が入ってきた。調査中です。。
聖書をお持ちの方は「第二イザヤ書」をお読みください。弁証法で書かれています。それはキリスト教の開祖者がその達人だった理由です。米国歴代大統領が「イザヤ書」を引用するのはそのためです。いつまでもキリスト教がカイサル,ヤーウエ崇拝の呪いから開放されていないためです。それはヨシュア王のカナン(現パレスティナ)の侵略を正当化するものです。。
第二イザヤはトインビーによると「千年期・the Milleniumの間支配する王は,まだ神自身ではなく,単に別の代理者,すなわちメシアにすぎない。しかし,この世界が”別の世界”によって取って代わられるまでの間,”この世界”に出現する奇跡的な”至福千年期”=エデンの園(神の国ではなくて地上の楽園)の思想は,異なっているばかりでなく,結局において互いに相容れない二つの思想を妥協させようとする支持しがたい試みである。第一の思想,すなわち,第二イザヤ書の思想は,奇跡的に改善された未来主義的な現世王国の待望である。第二の思想は,”神の国=CIVITAS DEIは時間のうちに存在するものではなく,別な精神的次元に置かれているものであって,このように次元を異にしているからこそ,かえってわれわれの現世生活の中に浸透し,それを変貌させることが出来る,という思想である.......千年期の終末観思想が不可欠な思想的はしごの役目を果たしたかも知れないが,一度上に登ってしまえば,もうそのはしごはなくなっても差し支えない」(トインビー注;千年期が俗に未来の”黄金時代”の意味で用いられるのは,ここからきているのである)
キリストが王として統治する王国は,アカイメネス朝の王をユダヤ人の王に変え,おまけに未来に投影した,世界征服者としてのメシアによって打ち立てられるいかなる王国とも,同じ標準で計ることができない。ピラトに,「あなたの言うとおり,わたしは王である」と答えたのち,「私は真理についてあかしをするために生まれ,また,そのためにこの世にきたのである」<ヨハネ福音書,18・37>。この思いがけないことばは,あるいは無視することも出来よう。
このCIVITAS DEI(神の国)がいやしくも時間の次元に入ってくる限りにおいては,それは未来の夢としてではなくて,現在に浸透する精神的実在としてである。もしわれわれが,実際にどうして,神のみこころが天に行われているとおり,地にも行われるようになるか,ということを問うとすれば,その答えは,神学特有の表現を用いて言えば,神の遍在という概念の中には,超現世的平面における超越的存在だけでなしに,現世における,また,現世に生きるあらゆる人間の魂の中における内在が含まれる,ということになる。
キリスト教の神観では,神の超越的な面(あるいは”ペルソナ”(三位一体の神のおのおのの位格)は”父なる神”のうちに現れ,内面的な面は,”聖霊としての神”のうちに現れる。しかし,キリスト教の信仰の独特の,かつもっとも重要な特徴は,神が二元的存在でなくて三位一体であること,そして”子なる神”としての面において他の二つの面が統一され,この神秘によって,人間の頭では理解できないが,人間の胸ではっきりと感じることのできる一つのペルソナを形成していることである。”まことの神”であると同時に,”まことの人間”であるイエス・キリストのペルソナのうちに,神の社会と現世社会は,この世ではプロレタリアートの間に生まれ,罪人として死ぬが(注:バラバかイエスかという意味で),別の世界では”神の国”の王,神そのものであるところの王となる,共通の成員をもつ。一方は神的で他方は人間的な二つの性質がどうして単一の人格のうちに同居しうるのだろうか。この問いに対するいくつかの答えが,信条の形で,キリスト教父の手により,ヘレニック社会の哲学者の専門語を用いて作り上げられている。
どこまでも時間の流れの中にとどまる運動としての再生を考えるならば,それこそイエスがニコデモに説いている再生である。「だれでも新しく生まれなければ,神の国を見ることはできない」<ヨハネ福音書3・3> また,他の箇所で,かれが肉身をとって生まれてきた最大の目的と宣言しているところのものである。「わたしがきたのは,羊に命を得させ,豊かに得させるためである」<ヨハネ福音書10・10>
かつてヘレニック文明がはなやかに開化したときに,ムーサイ(ギリシャ神話の芸術を司る九人の女神)がアスクラの羊飼いヘシオドスに歌って聞かせた神誕歌のアンティフォ二が,解体期のヘレニック社会が動乱時代の断末魔の苦しみをし,世界国家の昏睡状態におちいりつつあったときに,天使たちがベツレヘムの羊飼いたちに歌って聞かせた別な神誕歌である。天使たちによって告げられた生誕は,ヘラスの再生でもなければ,ヘレニック社会と同種の社会の新生でもなかった。それは"神の国”の王の肉身による生誕であった。
エドワード・ギボンの「ローマ帝國衰亡史」を読むまでもなく,神を求めることによって自己の魂を救う努力をすることと,隣人に対する義務を果たす努力をすることとが対立することはない。<マタイ福音書,22章37〜39節>
しかし不可知論者に神を冒涜する機会が与えられた。勝利者となる宗教は通常,競争相手の主要な特徴のうちのあるものを引き継ぐことによって勝利を獲得するからである。勝利を得たキリスト教のパンテオンにおいて,マリアの,神の偉大なる母への変貌という形で,キュベレやイシス(ISIS)の姿が再現しているし,また戦うキリストのうちにミトラなどの面影が認められる..............なぜキリスト教は,ユダヤ教の,神は愛であるという洞察を承認し,宣言した後に,それと相容れない,ユダヤ教のねたむ神の概念をふたたび取り入れるようになったのか。それ以来絶えずキリスト教に大きな精神的損害を与えてきたこの逆行は,キリスト教がカイサル崇拝との生死にかかわる争いにおいて勝利を得るために支払った代価であった。教会の勝利によって平和が回復されたのちも,互いに相容れないヤーウエとキリストとの結びつきは解消するどころか,かえって一層強化された。勝利の瞬間に,キリスト教殉教者の非妥協的態度が,異教や異端を迫害するキリスト教会の不寛容に移行したのである。(注:特に13世紀のスペインで顕著であった)

今年1月ポートランド・シェリダン近くのカトリック修道院の中庭でみたISIS像とその子ホロス。カトリック教会では男女の性器をシンボル化したヘラシー思想がある。使用している聖書はDOUAY BIBLEでKing James版ではない。しかし近年の日本語共同訳ではカトリックとプロテスタントが仲良く翻訳している。
キリスト教の歴史のこの初期の一章は,20世紀の西欧化しつつある世界の精神的前途に対して不吉な前兆を示す。初期のキリスト教が決定的と思われた敗北を負わせた”レビタリアン”崇拝(レビタリアンは国家権力の象徴)が,近代西欧文明の組織と機械化の天才的能力を悪魔的な巧妙さで,過去のどんな邪悪な圧制者もなしえなかった程度に,肉体のみならず魂まで奴隷にする目的で利用した凶悪な全体主義的国家の出現によって再現されたからである。(注:これが現在でも存在するNAZI=German Black Intelligenceである)
したがって20世紀に生まれたキリスト教は,カイサル崇拝との再度の戦いによってキリスト教会が,まだ最初の逆行から立ち直らないさきに,ヤーウエ崇拝への二度目の逆行をするおそれがあるということを念頭に置く必要がある。しかしもしかれらに,受肉して苦しみを受けるキリストとなった”愛としての神の啓示”が,最後には,石のように固く冷たい心を温かい柔和な心に変えるに違いないと信じる強い信仰があるならば,キリスト教の啓示によってカイサル崇拝からも,またヤーウエ崇拝からも開放された,政治的に統一された世界のうちに宗教の前途を望見する勇気が湧いてくるであろう。
紀元4世紀の終わり頃,勝利を得た教会が教会に加入することを拒む者を迫害しはじめたさいに,異教徒のシンマクス(340〜402年頃,ローマの政治家,雄弁家)が抗議を提出しているが,その中に,「ただ一本の道を辿るだけで,そのように偉大な神秘の核心に到達しうるはずがない」という言葉がある。異教徒を迫害したキリスト教徒より,この文章を書いた異教徒の方がよほどキリストに近い。愛は洞察の母である。そして,人間性には,それが神の創造的な作品であることを証明する,みのり豊かな多様性という刻印が押されている以上,人間が"唯一まことの神”に近づく道が一つということはありえない。
以上はアーノルド・トインビー「歴史の研究」サマヴェル縮刷版翻訳からの要約・解説ですが,世界統一宗教は悪とする一般的な解釈に対して問題提起をしている。現在の教会がより真剣に人間精神の多様性にもとづいた宗教を考えない限り教会は癌とみなされるであろう。さらに掘り下げて今後考えてゆこう。(注:ローマ初代皇帝にアウグストウスがいるがカエサルが養父になっている)
レビタリアンはリヴァイアサンに置き換えられた。
原文
前200年頃『ヨブ記』第41章(日本聖書協会訳『聖書』より)
あなたはつり針でわにをつり出すことができるのか。糸でその舌を押さえることができるのか。
この部分の欽定英訳は「Canst thou draw out leviathan with an hook? or his tongue with a cord which thou lettest down?」で、この日本語訳では「わに」とされている部分が、「leviathan」にあたる。このあと、「leviathan」の詳細な描写が続き、それによると、口から火花を出したり、鼻から煙を出したり、心臓は石のように硬く、その身を動かす時は勇者も恐れをなし、剣も槍も矢も通用しない、誇り高ぶる者の王だという。かなり「ドラゴン」的な存在だ。
前200年頃『詩篇』第74章(日本聖書協会訳『聖書』より)
神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
そんなレビヤタンも、YHVHによってスレイされる。多くの研究家はこれを、バアルが龍ヤムを倒したドラゴンスレイヤー伝説を取り入れたものだろうと考えている。
前200年頃『イザヤ書』第27章(日本聖書協会訳『聖書』より)
その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲がりくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。
同じく、YHVHがレビヤタンをスレイした記事。ここでは、YHVHが剣を持っているところが興味深い。
1世紀頃『シリア語バルク黙示録』第29章(日本聖書学研究会編『聖書外典偽典5』より)
またベヘモートがその塒から姿を現わし、レビヤタンは海中からのぼってくるであろう。この二匹の巨獣は創造の五日目にわたしが創って、生き残る者たちの食料としてそのときまでとっておくのである。
これは主がバルクに語った言葉のひとつ。世の終末に生き残る人々の餌になるらしい。
1世紀頃『第四エズラ書』(関根正雄訳『旧約聖書外典』下巻/講談社文芸文庫)
そののち、あなたは二つの生きものを生かしておかれました。その一つはベヘモートと名づけ、他の一つをレビアタンと名づけられたのです。あなたはこの二つを別々のところにはなしておかれました。なぜなら水があつまったあの第七の区域は、これら二つの生きものをいっしょに入れておくことができなかったからです。あなたはベヘモートには第三日目に水の干あがった土地、つまり多くの山のある陸地を住みかとして与え、一方レビヤタンには第七の区域、水のある場所をお与えになりました。あなたはあなたのよしとされる人が、よしとされる時に食べるためにこれらの生き物を生かしておられたのです。
『シリア語バルク黙示録』では五日目だったのが、ここでは三日目になっている。同じように食料になるんだな。
8世紀頃『エチオピア語エノク書』第60章(日本聖書学研究会編『聖書外典偽典4』より)
その日、二匹の怪獣は分かれ、レヴィヤタンという名の雌の怪獣は海のどん底、水の源の上に住み、名をベヘモットという雄は胸で眼に見えない荒野をつかんでいる。
これはミカエルがエノクに語る言葉の中に出てくる話。レヴィヤタンとベヘモットが、アダムとイブのように対になって誕生しているのが興味深い。「この二匹の怪獣は神の大きさに従ってそなえられ、神の刑罰がむだにならないよう飼育されている」のだという。なお、この第60章は講談社文芸文庫の『旧約聖書外典』ではカットされている。
1486年シュプレンゲル&クラメル『Malleus Maleficarum』Question IV(JD訳)
同様に、高慢の悪魔はリヴァイアサンと呼ばれ、それは「付加」を意味している。なぜなら、ルシファーが私達の最初の両親を誘惑した時に、高慢によって、彼らに神性の付加を約束したからだ。彼について、主は言った、私はリヴァイアサン(その古の、とぐろを巻く蛇)と同時に現れるだろう。
これは日本では『魔女への鉄槌』と呼ばれる、魔女狩りテキスト。その中に悪魔に関する簡単な解説がある。ここではリヴァイアサン=ルシファー=エデンの蛇という扱いがされ、「高慢」にあてられている。
1667年ミルトン『失楽園』第1巻(平井正穂訳/岩波文庫)
或いは、大海原を遊泳するすべての生物のうちで神が最も巨大なものとして造り給うた海の怪物リヴァイアサン、などに優るとも劣らなかった。
ここではサタンの身体を表現する比喩として登場しているが、このあとノルウェーの船乗りが、リヴァイアサンを島と間違えて停泊したという寓話も紹介している。
1812年コラン・ド・プランシー『地獄の事典』レヴィヤタンの項(床鍋剛彦訳/講談社)
神ははじめに雄と雌の二匹のレヴィヤタンを創造したが、かれらが地球をめちゃくちゃにしたり、その身内たちで世界を埋めつくしてしまうのではないかと心配した神は、雌を殺し、来るべきメシアの食事とするために塩漬けにした。
と、ラビの伝説にはあるそうな。レヴィヤタンのアダムとイブがいるあたり、『エチオピア語エノク書』にも通じる。「その身内たちで世界を埋めつくしてしまう」というのは、もしかすると古代の恐竜の繁栄を語っているのかもしれない。
1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』第一之書第三章インドにおける魔術(鈴木啓司訳/人文書院)
ヴィシュヌは海の怪物レヴィヤタンとなり、また、巨大な猪となって鼻先で原初の大地を耕すのである。
なぜだか、インドの解説のとことで、ヴィシュヌの化身としてレヴィヤタンをあげている。クールマ(亀)やマツヤ(魚)のことだろうか?
ルシファー
注:いつまでもキリスト教はカイサル,ヤーウエ崇拝から抜け出せないためサタンに負けてしまっているのです。教会は本来”戦う教会”でなかったのか?
前200年頃『ヨブ記』第11章17(日本聖書協会訳『聖書』より)
そしてあなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる。
この節のラテン語訳は「et quasi meridianus fulgor consurget tibi ad vesperam et cum te consumptum putaveris orieris ut lucifer」である。最近になって知ったが、『旧約聖書』のラテン語版には、下に記す『イザヤ書』ともうひとつ、『ヨブ記』のこの部分にも、「lucifer」という言葉が使われていた。ただし、欽定英訳では「And thine age shall be clearer than the noonday: thou shalt shine forth, thou shalt be as the morning」となっており、『イザヤ書』と違い、完全にラテン語訳にしか使用されていない。でも、この節は「もしあなたが心を正しくするならば」、「あなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる」ということで、正義の行いをする者に対して、「lucifer」という言葉が使用されているのは面白い。
前200年頃『イザヤ書』第14章12(日本聖書協会訳『聖書』より)
黎明の子、明けの明星よ。あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたはさきに心のうちに言った。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。しかし、あなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。
現在では悪魔の頂点とされているルシファーだが、聖書ではここにしか登場しない。この一節は、ヤコブが「バビロンの王をののしって」言ったものであり、本来は悪魔の話ではない。しかも、もともとヘブライ語で書かれた『イザヤ書』のこの部分は、ヘブライ語ではHelel ben Shaharすなわち「輝く者」である。紀元前後のギリシア語訳(所謂『七十人訳ギリシア語聖書』)ではeosphorosとなり、これが405年に聖ヒエロニムスによってラテン語に訳された時(俗に『ウルガタ聖書』という)、「明けの明星」を表すluciferとなった。つまり、聖書だけを見るなら、ルシファーという悪魔は、存在しないに等しいのである。だが、次に上げていくキリスト教の神学者たちによって、ルシファーは悪魔化していく。
150年代頃『ペテロの第二の手紙』第16章(日本聖書協会訳『新約聖書』より)
こうして、預言の言葉は、わたしたちによりいっそう確実のものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
この部分のラテン語訳は「et habemus firmiorem propheticum sermonem cui bene facitis adtendentes quasi lucernae lucenti in caliginoso loco donec dies inlucescat et lucifer oriatur in cordibus vestris」で、ここでも「明けの 明星」に「lucifer」があてられている。ただし、欽定英訳では「We have also a more sure word of prophecy; whereunto ye do well that ye take heed, as unto a light that shineth in a dark place, until the day dawn, and the day star arise in your hearts」となり、やはりラテン語訳にしかでてきていない。この預言の言葉とは、キリストの言葉のことだ。キリストの預言に「lucifer」が当てられているのは面白い。これが『ヨハネの黙示録』第22章16「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」へと繋がっていく(ただし、この部分のラテン語訳は「ego Iesus misi angelum meum testificari vobis haec in ecclesiis ego sum radix et genus David stella splendida et matutina 」であり、「lucifer」は使われていない)。
230年オリゲネス『キリスト教原理について』(ニール・フォーサイス『古代悪魔学』より引用)
明らかに、この個所のことばによって、かつてはルキフェルと呼ばれ毎朝昇ることを常としていた者が天国から転落したことが示されている。かれが暗闇の存在だと言う人もいるが、もしそうならば、どうして以前かれは光をもたらす者と呼ばれていたのか。あるいは、もしその光の一端さえ持っていないのならば、どのようにしてかれは朝に昇ることができたのだろうか。
オリゲネス(185〜256)はギリシアの神学者であり、原著はギリシア語で書かれていたはずである。現存している『キリスト教原理について』は、ルフィヌス(345〜410)によってラテン語訳されたもので、おそらくはラテン語訳版で初めてルシフェルの名が記されたんじゃないだろうか。ここで、『イザヤ書』の記述が、バビロニアの王ではなく、悪魔に対してのものだという説が生まれる。この当時、グノーシス主義などの異端宗派が生まれ、オリゲネスら初期神学者たちは異端の信徒たちと議論を交わした。この一節も、二元論に対する、一元論的見解から悪魔について述べられたものだ。なお、この書は『諸原理について』というタイトルで、創文社から全訳がでているが、これを書いている時点で未見。読みしだい、修正します。
399年エウアグリオス・ポンティコス『修行論』序言(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成3』より)
そして、このような歌声は謙虚さを生み、高慢の根を断ちます。この高慢さこそ、古えよりの悪であり、「黎明に昇る明けの明星」を地に振り落とすものなのです。
これはエウアグリオス・ポンティコス(345〜399)の神学書からで、後に「七つの大罪」となる、貪欲、淫蕩、金銭欲、悲嘆、怒り、嫌気、虚栄心、傲慢の「八つの想念」について書かれている。これらは悪魔が源になっているが、まだ具体名は出てこず、上に記した傲慢が「明けの明星」に当てられているのみ。原典はギリシア語なので、この頃はまだ「ルシファー」ではないはず。このへん、オリゲネスの影響らしい。また、「罪」ではなく「想念」、仏教の「煩悩」に近いものとされている。ようするに、修行者は煩悩を捨てなくてはならないって内容。
426年アウグスティヌス『神の国』第11巻15章(岩波文庫)
ところが、かれらは、預言者の証言に、すなわち、イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的にあらわして、「ルチフェルよ、朝にのぼっていたあなたは、どうして天から落ちてしまったのか」といい、あるいはエゼキエルが「あなたは神の園の快楽のうちにあって、ありとあらゆる宝石にかざられていた」という証言にどう答えるのであるか。この証言においては、悪魔が罪なくあったときもあることが理解されるのである。
アウグスティヌス(354〜430)も、413年から426年にかけて書き記した『神の国』の中で『イザヤ書』のルシファーを悪魔とみなした。「エゼキエルが」とあるのは、『エゼキエル書』第28章のエピソードで、ここでも「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に見せ物とした」とあるが、これもイザヤ書同様にツロの王の事を指していて、悪魔を指しているわけではない。アウグスティヌスはもともとマニ教徒だったが、キリスト教に改宗した人物で、「ところが、かれらは、」というのは、マニ教徒たちを指しており、この文章は、マニ教の二元論に対する一元論的悪魔観を述べている文章である。マニ教の二元論が「悪」がもとから「悪」として創られたのに対し、アウグスティヌスの一元論では、もともとは「罪なくあった」ものとして創られたものが、「悪」になったと語っている。ということは、ルシファーという存在は、神学者がキリスト教における一元論神学を語るにあたり、「必要悪」として創られたんではないだろうか。
1130年コンシュのギヨーム『宇宙の哲学』第2巻12金星について(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成8』平凡社より)
さてこの星はルキフェル〔暁の明星〕ともヘスぺルス〔宵の明星〕とも呼ばれる。早朝、日の出の前に見られるときはルキフェルと、夕方、日没後に見られるときにはヘスペルスと呼ばれるのである。
コンシュのギヨーム(1090〜1154)はフランスのシャルトルの神学校を中心とした、所謂「シャルトル学派」のひとりとされている。この『中世思想原典集成8』はシャルトル学派の文献を集めたものだが、これを読む限り、ギリシア哲学・神話を取り込んだ、かなり独特の神学が語られていたようだ。この『宇宙の哲学(Philosophia mundi)』でも独特の宇宙論が語られていて、惑星についての解説のところに、ルキフェルが登場しており、ここでは完全に「暁の明星」として扱われ、堕天使ではない。ただ、この金星の説明部分は、「四番目は、プラトン学派に従えば、金星である。熱く湿った星である。そのために有益な星であり、一年で黄道を一周する。この星はしかし、火星と淫行を働くと言われている。というのも、自身の軌道よりも上方に出現するときに、火星への接近を果たしてその利益を減じるからである。また快楽の女神とも言われるが、それはこの星が熱さと湿気とをもたらし、それによって熱さと湿気を帯びた者たちのあいだで情欲が増すからである」と、やはりギリシア神話のヴィーナスと結びついて、快楽を司る存在となっている。あと、対となる存在として、「ヘスペルス」が登場している。
1151年ヒルデガルド『スキヴィアス』(種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社より)
私は正義であり、節を持ち、悪を欲しない。だが、おお人間よ、汝は悪を認識して以来、悪に手を出している。汝もルチフェルも、汝らはともに堕ちる。なぜなら汝らは――虚無から呼ばれるやたちまち――私に反逆するからだ。汝らは善から悪に向かって落下した。しかしながらルチフェルは悪をすっかり身内に入り込ませて、善を完全に投げ捨てた。彼は善を味わうことなく――死の手に落ちた。
ヒルデガルド(1098〜1190)は、ドイツの女性修道院長。天上のヴィジョンを幻視体験し、その記録として書き記したのが、この『スキヴィアス』である。これは三部に分かれており、ルシファーに関する記述は、1部と3部にある、らしい。翻訳は『中世思想原典集成15女性神秘家』にあるけれど、残念なことに第2部しか翻訳されてないので、私も種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルドの世界』の、簡単な解説でしか読んでない。美しい天使であったルチフェルが、神が天上で輝くように、自分も地上で輝きたいと欲したところ、神は「天に二つの神があってはならない」と言い、ルチフェルを地獄に落としたのだという。その後、楽園でイヴをそそのかし、禁断の実を食べさせた。これによって、善と悪が分かれたという。オリゲネスやアウグスティヌスは、神学の解説として『イザヤ書』のルシファーを紹介しただけだったが、ヒルデガルドは幻視により、ルシファーを神話化した。ルシファーの堕天神話はミルトンが描くよりも500年早く、ここになされていたのである。
1158年ヒルデガルド『石の書』(種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社より)
すなわち神は最初の天使を全身くまなく宝石で飾ったのである。この最初の天使ルチフェルは神性の鏡にこれらの宝石が輝いているのを見て、そこから彼の知識を受けとった。それらの宝石に、神が多くの奇蹟を巻き起こそうとされるのを見てとった。するとルチフェルの精神はおごり昂ぶった。我が身にまとうた石の光輝が神のうちに反射していたからである。彼は自分が神と同等であり、神以上のことをなしうると思った。それゆえに彼の光輝は消されてしまったのである。
も一冊、ヒルデガルドの著作から。この書は正確に言うと、『自然のさまざまの被造物の隠された諸性質の書』に含まれる文献である。この書には、さまざまな宝石について書かれているが、その序文に書かれた文章だ。ルチフェルが宝石で飾られているのは、『エゼキエル書』によってはいるが、とても女性らしい幻視である。
1184年アラヌス・アブ・インスリス『アンティクラウディアヌス』第4巻(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成8』平凡社より)
慎重に忍耐をもってついに急峻な小道を切り抜けると、彼女はウェヌスとスティルボンが堅く抱擁している場所に到達する。ここでは、太陽の使者であり一日の先駆けであるルキフェルが輝きを放っている。彼は地上に放つ光の祝福のうちに取次役をなし、彼自身が昇るとともに日の出のための舞台を設け、自らが昇る際に夜明けを告げる。
アラヌス・アブ・インスリス(1116〜1203)は、ギヨームと同じく「シャルトル学派」のひとりとされている。タイトルの「クラウディアヌス」は4〜5世紀の詩人で、彼を意識して、誌的に書かれたのが、この書だ。したがって、内容はかなり神話的であり、ギリシア神話の神々の他、独特の神名も出てくるので、マイナーな神話好きな方は要チェキ。この第四巻は天文学を擬人化した乙女が宇宙を駆ける話で、『宇宙の哲学』と同様、金星についての部分でルキフェルが出てくるが、御覧のように神話的に語られている。この後、「ルキフェルの圏は身動きが軽く、そのそよ風はより爽やかである」ともあり、竪琴の音色やセイレンの歌声に包まれた、美しい場所として描かれている。なお、スティルボンはメルクリウスのことで、こっちでは火星ではなく、水星と金星が結び付けられている。
1214年頃『ロンバルディア・カタリ異端論』(渡邊昌美『異端カタリ派の研究』岩波書店より)
ルキフェルこそ、天地を創り六日にて業をなしたと創世記に述べられてある神である。
カタリ派はキリスト教史において、異端の代名詞となっている、代表的な異端宗派である。ヨーロッパ各地に存在していたようだが、その中でもイタリアでまとめられたとされているのが、この書。現在はバーゼル大学図書館に所蔵されているらしい。カタリ派が異端とされたのは、この引用文を見ていただければ一目瞭然だろう。彼らにとっては、『創世記』のYHVHこそが、ルキフェルなのである。と言っても、カタリ派神話には始原の神が存在する。と同時に、始原の悪も存在する。もともとルキフェルは善たりし天使だったが、「四面、すなわち人、次に鳥、第三に魚、第四に獣の顔を有し、始原なき悪しき霊なるもの」に魅了され、堕天したのだ。地上において神となったルキフェルは「地の泥をもってアダムを形作り、力をもってかの善き天使を中に封じた。彼のためにエヴァを造り、これをもって罪を犯さしめた。禁ぜられたる樹を食せしとは姦淫の謂である」という。カタリ派神話では、ルキフェルこそが、人間の創造主であった。したがってカタリ派は、肉体的なもの、物質的なものを完全に否定している。人間とは、肉体という悪魔の作った牢獄に、善き天使の「霊魂(アニマ)」を持つ存在なのだという。
1260年ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』洗者聖ヨハネ(前田敬作・山口裕訳/人文書院)
つぎに、ヨハネは、智天使の役目をつとめた。ケルビムとは、〈知恵の充実〉ということである。だから、ヨハネは、またルキフェルともよばれる。この名前は、〈光をもたらす者〉という意味である。なぜなら、『ヨブ記』(38の2以下)の言葉を借りると、彼は、無知の夜を終わらせ、恩寵の光の始まりとなったからである。
聖ヨハネは、福音書において、イエス・キリストに洗礼を施した聖者である。ここでは文字通り、「光をもたらす者」という意味だろうが、ヨハネが「ルキフェル」だとされるのは面白い。なお、人文書院版『黄金伝説』は現在絶版だが、新泉社から抄訳の『黄金伝説抄』が出ている。
1273年頃トマス・アクィナス『離存的実体について(天使論)』第20章(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成14』)
さらに、オリゲネスは『諸原理について』第一巻で、アウグスティヌスは『神の国』第一一巻でこのことを聖書の権威によって確証する。その際、彼らは「イザヤ書」第一四章で悪魔についてバビロニアの王になぞらえて語られた「ルシフェルよ、暁にのぼったおまえが、いかにして堕ちたのか」という言葉を引証する。また、「エゼキエル書」第二八章では悪魔に対してティルス王の姿で「おまえは類似のしるしであり、知恵に満ち、神の楽園の宝石に包まれて完璧な美麗さであった」と言われ、その後の個所に「おまえの創出の日から、おまえの歩みは完全であったが、ついにおまえの内に不公正が見出された」と続けられている。
トマス・アクィナス(1224〜1274)は『神学大全』を記したローマの神学者。これはサブタイトル通り、天使について述べられた書だが、天使論というより、「デーモン」の語源となったギリシアの「ダイモーン」について講釈されている。「ダイモーン」には善きものと悪しきものとがいるが、その悪しき「ダイモーン」が悪魔のことだという。もちろん、それは二元的なものではなく、善きものとして創られた「ダイモーン」が、自由意志により、悪しきものへと転向したのだという。オリゲネス→アウグスティヌス→トマス・アクィナスと、キリスト教神学におけるルシファー像が受け継がれた。ルシファーが悪魔化したのは聖書ではなく、これらの神学書の系譜によるものなのである。
1307年ダンテ『神曲』地獄編第34曲(岩波文庫)
我はもとのまゝなるルチーフェロをみるならんとおもひて目を挙げ見たりしにその脛上にありき。
文学上にもルシファーが登場。ダンテのルシファーは地獄の最下層に氷浸けにされ、ユダなどの罪人を貪り食っている。
1387年チョーサー『カンタベリー物語』修道僧の物語(岩波文庫)
ルシファーから私は始めるとしましょう、彼は天使であって、人ではありませんが。というのは運命の女神は天使には何ら害を与えることはできないけれど、しかし高い地位から彼はその罪のゆえに地獄に落ち、今もなおそこにいるのですから。あらゆる天使の中でも最も輝けるルシファーよ、汝は今や悪魔(サタン)となり、転落したる悲惨な境涯から逃れ出ることはできないのだ。
チョーサーの小説の一節だが、この頃には完全にルシファー=サタンとなっていたことがわかる。
1486年シュプレンゲル&クラメル『Malleus Maleficarum』Question IV(JD訳)
同様に、高慢の悪魔はリヴァイアサンと呼ばれ、それは「付加」を意味している。なぜなら、ルシファーが私達の最初の両親を誘惑した時に、高慢によって、彼らに神性の付加を約束したからだ。彼について、主は言った、私はリヴァイアサン(その古の、とぐろを巻く蛇)と同時に現れるだろう。
これは日本では『魔女への鉄槌』と呼ばれる、魔女狩りテキスト。その中に悪魔に関する簡単な解説がある。ここではリヴァイアサン=ルシファー=エデンの蛇という扱いがされ、「高慢」にあてられている。
1587年『実伝ヨーハン・ファウスト博士』(松浦純訳『ドイツ民衆本の世界3 ファウスト博士』国書刊行会)
ご主君ルチフェル様、つまりこれは、天のまばゆい光から追われたためのお名前ですが、ルチフェル様は以前は神の天使、智天使で、天で神のわざや造られたものをみなご覧になっておられました。たいへんご立派なお姿で、きらびやかに飾られ、権威にあふれ、堂々とお住まいになって、神に造られたどのものより、金や銀よりずっときらめく、目の明るさや星々の光もかすむほどの輝きを神から受けておられたわけです。なにしろ神はルチフェル様を造るとすぐ、神の山の上において侯の位を授け、なにひとつ欠けるところのないようにしたものでした。それが、ルチフェル様が尊大に思い上がられて東の天にわが身を高めようとされたとたん、神に天の住まいから追われて、おられた座から、燃え尽きることのない火の岩へと突き落とされてしまわれたのです。つまり、ルチフェル様は天の光輝をひとつに集めた冠をいただいておられた。それが、わざわざ、むこうみずに神に逆らわれたばかりに、神にお裁きを愛けて、すぐに地獄に堕とされ、もう永久に逃れられない羽目になってしまわれたというわけです。
ちょっと長くなったが、これはメフィストが語った、ルチフェルの堕天神話である。天界にいたころのルチフェルは「立派な大天使のおひとりで、ラファエルと呼ばれておられた」んだそうだ(原文ママ)。地獄に落ちては、「鎖に繋がれ、流鼠の身で引き渡されて、審判の時までとめておかれているのだ」とされ、「東の地獄の王」となっている。ファウストの前に姿を現した時の姿は、「これはふつうの男くらいの背丈をして、毛むくじゃら。赤っぽいリスのような色で、ちょうどリスのようにしっぼを高くあげている」という。
1612年ヤコブ・ベーメ『アウロラ』(ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』より引用)
ミカエルが父なる神の姿とその美をもとに造られたように、ルシフェルも神の息子の姿と美をもとに造られた。‥‥ルシフェルがその美しさに気づいたとき、彼はすべての者の上に立とうと思った。
ベーメ(1575〜1624)はドイツのプロテスタントの神秘学者。ルシファーの堕天の原因が、その「美しさ」にあるあたり、女性ファンをうっとりさせる一節だ。
1612年セバスチャン・ミカエリス『驚嘆すべき物語』(ロッセル・ホープ・ロビンズ『悪魔学大全』より引用)
熾天使の軍団の中でも最上位にあった三名、すなわちルシファー、ベルゼブブ、レヴィヤタンはいずれも神に反逆して堕天した。‥‥キリストが冥府に降ったとき、ルシファーは鎖に繋がれたまま、万軍に指令を発していた。
ミカエリスは17世紀のエクソシストで、マドレーヌ修道女に憑依した悪魔バルベリトから教わったとして、悪魔の階級を書き記した。この階級は、今日でもいたるところで引用されている。
1629年『教皇ホノリウスの書』(ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』より引用)
ルシフェルよ、お前を呼びお前に願う、生ける真の神の名において、すべてを言葉によって創造した聖なる神、命ずれば行われる神のために。神の強力な名によってお前を召喚する。
この書は魔術実践本で、これは悪魔召喚の呪文から。
1667年ミルトン『失楽園』第7巻(岩波文庫)
だから、わたしはお前に話しておきたい――思えば、あれは天からルーシファが(そうだ、それが、星の中の星ともいうべきあの暁の明星以上に、かつては天使の群れの中でも最も輝ける天使であった彼の名だ)焔をあげて燃える仲間と共に、混沌の世界を真っ逆さまに己の行く場所へと転落し、御子が味方の天使たちを率いて凱旋されたときのことであった。
『失楽園』は現在の反逆天使としてのルシファー像を創り上げた、最高の悪魔文学だが、ミルトンは清教徒革命のクロムウェルの秘書を務めた、れっきとしたクリスチャンである。革命の挫折が、サタン=ルシファーに投影され、力強く美しい滅びの美学が描かれている。
1812年コラン・ド・プランシー『地獄の事典』ルシフェルの項(講談社)
ルシフェルはヨーロッパ人とアジア人を支配し、紅顔の美少年の姿で現れる。怒ると顔を真っ赤にするが、怪物じみたところはない。
プランシーの悪魔事典にも、当然ルシファーの項目はある。美少年顔の挿絵もついている。ルシファーを呼び出すのは月曜日で、お礼は「ハツカネズミ一匹でよい」とある‥‥なんだか安っぽいなあ。かなり俗っぽいイメージ化されている。
1818年『天地始之事』(中城忠・谷川健一『かくれキリシタンの聖画』より)
七人のあんじょ頭じゅすへる、百相の位、三十弐相の形。
『天地始之事』は長崎の隠れキリシタンに伝わった聖書で、その内容は正伝以外もとりいれられており、とても面白い。この中でルシファーは「じゅすへる」と呼ばれ、「七人のあんじょ頭」、七大天使の長となっている。「じゅすへる」は「ゑわ」と「あだん」に禁断の「まさん木の実」を食べさせたため、天帝から天を追放され、「雷の神」となった。
1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』序章(鈴木啓司訳/人文書院)
ルシファー! 光をもたらす者! 暗黒の精霊に与えられたなんと奇妙な名であろう。なんとしたことだ、光をもたらし弱い魂を盲にするのはこの者か。然り、間違いない。なぜならキリスト教の伝統は、このことを告げる神による啓示と霊感に満ち溢れている故。
エリファス・レヴィの『魔術の歴史』では、引用したこの序文と、「第三之書キリスト教の啓示による魔術の結合と聖なる実現 第三章悪魔について」にルシファーに関する言及がある。秘儀参入者的なルシファー観は、「彼らによれぱ、光を伝達しあらゆる形を集積することからいみじくも《ルシファー》と呼ばれている大いなる魔術的媒介物が、創造物全体にあまねく行き渡っている中間力なのである。このカは創造と破壊両方に働く。アダムの失墜はエロチックな陶酔であり、彼から生まれてくる者たちをこの致命的な光の奴隷にした。感覚を占拠する情愛はどれも、死の淵にわれわれを引ぎずり込もうとするこの光の渦なのである。狂気、幻覚、幻視、恍惚は、この内部の発光体の極めて危険な昂揚状態に起因する。要するに、この光は火の性質を有しており、これを賢く使えば熱と活力を得るが、逆に便いすぎると焼かれ落かされて無に帰さしめられるのである」という。エリファス・レヴィは「星気体」という魂の発する光(あるいは魂そのもの)の存在を説いており、ルシファーというのは、この星気体に光をもたらす、魔術的媒体であるという。それは強力な力を持った光だが、強力ゆえに、狂気や幻覚などの副作用を起こすこともある。また、「秘儀参入者にとって、悪魔は一箇の人格ではない。それは善のために創られながら悪に奉仕することもできる力である。自由のための道具である。彼らは生殖を支配するこのカを、角を生やしたパンの神話で表現した。エデンの蛇の兄弟であるサバトの雄山羊が出てきたのである。それば光をもたらす者あるいは《光を発する者》であり、詩人により伝説上の偽ルシファーに仕立てられたのであった」とも言い、これはエロスの力、フロイトの言う「リビドー」的な解釈ではないだろうか。
1883年スタニスラス・ド・ガイタ『呪われし男の言葉』詩集『黒い女神』(幻想出版局『幻想文学36』より引用)
魔王ルシフェルよ、汝は天界より隕し星、はた地獄の闇になげられし好智ある華、さては瞋恚の炎を燃しつづけて、胸一杯に、叛逆の雄叫あげる天使。
スタニスラス・ド・ガイタはフランスの〈薔薇十字カバラ会〉の総帥だった人物。日本では、詩人としてより、作家ユイスマンスらと呪術戦を行ったオカルティストとして紹介されることが多い。
PS:注:上にエノク書とありますが,これは少数のパリサイ敬虔派の書でエノク書の他,ソロモン詩篇,モーセ被昇天(以上いずれも旧約外典)などがある。
第一エノク書,第二エノク書以外の聖典類はほとんどダヴィデ崇拝で占められている。
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