「IMAGO DEI からCIVITAS DEI へ その1」
God's Law or Chaos
God's Law or Tyranny(1)
God's Law or God's Judgment
Millions of Christians, sadly, have not recognized the continuing authority of God's law or its many applications to modern society. They have thereby reaped (2)the whirlwind(3): cultural and intellectual impotence. They have surrendered this world to the devil. They have implicitly denied the power of the death and resurrection(4) of Christ. They have served as footstools of the enemies of God. But humanism's free ride(5) is coming to an end.
(1)専制政治(2)因果応酬,報い(3)つむじ風のような慌しさ(4)復活(5)ただ乗り
原文はここですがもっともっと深く過去から現在まで掘り下げて考察してみましょう。そうしないと現在のCHAOS(混沌)が見えてこないしHeraclitusの弁証法の真の意味も理解できない。IMAGO DEI(神の似姿)からCIVITAS DEI(神の国)の記事は連載となります。私が42年前に神田の古本屋で無謀にもアーノルド・トインビーの<歴史の研究>全12巻を買い42年間理解出来なかったのがここにきてほぼ完璧に頭に入ってきた。
ギルガメシュ叙事詩(BC2600年)は19世紀になってアッシリアで発見されたシュメール文字(楔文字)で書かれた粘土版であるが,ノアの方舟のくだりはウトナビシュテムの洪水神話に基づくことはよく知られている。BC700年になってヘシオドスの神統記が現れるがその後のヘラクレイトス(後にプラトン派につながる)は何らかの形で聖書の原型を作ったとしか考えられない因果関係が判明してきた。これは恐ろしいことである。キエルケゴールによるとヘーゲルやヘラクレイトスにとって「アブラハムとは奴隷精神」を代表すると言うがまさにそうである。(
しかしキエルケゴールはk・ポパーによると<彼の手回しオルガンで全事象を演奏している>と批判されている)。
まずはじめにアブラハムが神から受けた啓示について考えてみよう。そういう意味において純粋理性批判をしたカントは可謬,不可謬にかかわらずキエルケゴールよりはるかにまともなのであります。(下の原文はここをクリック)
「カントは何よりも自律的な理性を重んじたが、その宗教観も、迷信や非道徳的な要素を批判し、「単なる理性の限界内での宗教」に関心の目をむけている。キェルケゴールが信仰の騎士として讃えるアブラハムについても、カントは、アブラハムが息子イサクを燔祭として捧げようとした行為に対して、非道徳的な要素を認め、冷静な批判の目をむけている。例えば、カントは『学部の争い』において、以下のようなことを論じている(1)。「もしも神が人間に現実に語りかけることがあるとしても、人間は自分に語りかけたものが神であることを決して知ることができない。人間が自分の感官を通して、無限者を理解し、これを感官的存在者と区別し、何かに即して識別することは絶対不可能である。――しかし自分がその声を聞いたと信じているものが神ではありえないことについて、人間は若干の場合にはよく確信しうるのである、けだし、もしその声によって彼に命ぜられるものが道徳法則に反しているならば、たとえその声の現象が彼にとってどんなに威厳に満ち、全自然を踏み越えているように思われようとも、彼はその現象を錯誤と思わざるをえない」というのである。
以上のように考えれば、アブラハムが聞いたという啓示も、果たしてそれが本当に神の声であったかどうかはわからないのである。後にみるルターにしたところで、イサクを捧げよという命令(注:創世記22章)は、神ではなく悪魔によるものだったかもしれないという疑惑が指摘され、その一方で、別の箇所で夜の静かな時に神の声を聞いたのであろうと推測され、啓示そのものの信憑性は疑われていない。しかし、カントにおいては、こういう啓示が、本当にあったとしても、それが本当であると識別することは人間にとって絶対不可能であるというのである。そして、如何に信憑性があろうと、その命ずるものが道徳法則に反しているならば、錯覚であると思わざるをえないというのである。
カントはこれについて次のように注記している。「アブラハムが神の命令によって彼のひとり子を屠殺し燔祭に捧げることによって、――(その哀れな子は何も知らずにたき木を背負って行った)―― 実行しようとした犠牲の神話が役立つかもしれない。アブラハムはおそらくこの自称の神の声に次のように答えざるをえなかったであろう。『私が私の善良な息子を殺すべきではないことは全く確かでありますが、私にいま現象している貴殿が神であることについては私は確かではなく、またこれからも確かになりえないでしょう』と、たとえその声が(目に見える)天の上の方から響いてきたとしても、彼はこう答えざるをえなかったであろう。」というのである(2)。啓示が確かかどうか判らなくても、自分の無実の息子を殺してはいけないことは確かなのである。カントはアブラハムが背理な力によって神がイサクを復活させるであろうと信じていたことは問題としない。カントは、息子を捧げよという神の啓示そのものを不確かなものとして斥けるのである。さらに、捧げた息子が復活する可能性ともなれば、ますます不確かなものであり、そんな不確かな奇蹟を信じるよりも、無実の息子を殺すべきでないことの方が、より重要であり、守るべきことなのである。
次に、カントは『宗教論』でも、信仰における良心についての言及の中で、アブラハムに触れている箇所を見つけることができる。そこでは、殉教をも辞さいないある宗教審判官が、不信仰の件で訴えられたいわゆる異端者に死刑の判決を下す事例が示されている。その宗教審判官は、超自然的に啓示された神的意志がそのことを許すという確固とした信仰をおそらく持っていたのだろうが、こうした啓示された教えとその意味とを、そのためにあえて一人の人間を殺す必要があるとするほど実際に強く確信していたのであろうか、とカントは問う。そして、「自分の宗教信仰のために一人の人間の生命を奪うのが不正であることは、特別の仕方で彼に知られた神的意志がとくにそのように命じた(極端な場合を認めるとして)のではないとすれば、確実である。だが、神がこの恐るべき意志をかつて表明したということは、歴史的文書に基づくものであり、決して確然的に確実なのではない」というのである。ここでは、ある宗教審判官が、異端者を処刑する例が考えられているが、果たして異端者を処刑することが、本当に神の命であったかどうかは不確かであり、自分の宗教的な信念のために、一人の人間の生命を奪うという行為が不正であることの方が確実であるというのである。
そして、カントはこれに続けて、アブラハムについて言及している。「啓示は所詮はただ人間を介してのみ彼に到達し、また人間によって解釈されるので、たとえ啓示が神自身から彼に到達するように思われたとしても(汝自身の子を羊の如くに屠れという、アブラハムに発せられた命令のように)、そこになおある誤謬が支配しているかもしれないということは少なくとも可能である。そうだとすれば、彼はきわめて不正であるかもしれない事柄をなす危険をあえて冒すことになるであろうし、その点で彼の行為はまさしく無良心的なのである。――ところで、歴史信仰や現象信仰のすべてについて、事情は同様である。つまりそのうちに誤謬が見出される可能性は常に残っているのであり、したがってその信仰が要求したり許容したりする事柄が不正であるかもしれない可能性がある場合にそれに従うのは、つまりそれ自身確実な人間の義務を毀損する危険を冒してもそれに従うのは、無良心的なのである。」(4)という。つまり、アブラハムにとっても、イサクを燔祭にせよという神の啓示よりも、息子を殺すなという義務の方がより確実であり、守るべきでものなのである。
キェルケゴールは、生涯を通じて、真のキリスト教徒たらんとして、真の信仰を追求し、世俗化したデンマーク国教会に対する晩年の激しい攻撃でも知られるが、『畏れとおののき』においても、当時のデンマーク国教会や牧師らへの批判を展開している箇所を見つけることは容易である。その批判の視点は、信仰をあたかも自分のことではないかのように語る点に向けられ、その偽善を戒めているのである。
例えば、アブラハムの物語に関する牧師の一般的な説教の例が語られるている。それは、牧師の説教に限らず、普通の人々も含めて、「アブラハムが最善のものを捧げようとしたほど、神を愛したことは偉大であった」というように、一般的な表現を用いて、アブラハムを信仰の父として、讃えているのである。つまり、神の命によって息子を捧げようとした彼の行為は、倫理的に見れば息子を殺す行為と見なされるにもかかわらず、まるで気楽な他人事のように語られているのである。
もしそこに、その牧師の言葉を真に受け、真の信仰者たらんとして、自分の子どもを神に捧げようとする男が出てきたらどうなるかと、キェルケゴールは疑問を投げかける。おそらく牧師は、日曜日の説教でアブラハムを讃えていたことを忘れて、「自分の息子を殺そうとするなんて、何という悪魔に取りつかれたのだ」と言って、その男を制止するだろうというのである。アブラハムは、背理な力によって、息子を取り戻したのであるが、それはあくまでも聖書の世界の出来事、説教の世界の出来事であって、実際の世界ではそれが不可能であるというかのごとくである。「世の中のことは牧師が説教したようには進まない」という諺を牧師自身が一番よく知っていて、その男に教えているかのようである。アブラハムを偉大だと讃える牧師には、アブラハムは偉大な人ということになっているから、彼のすることなら何でも偉大であるというような安易さがあるのである。信仰が、わが子を殺そうとすることを神聖な行為となすことができるのでなければ、他のすべての人間に下されるのと同じ審判がアブラハムにも下されるべきであり、アブラハムは人殺しであったと主張する勇気が、必要なのである。アブラハムは、倫理的に表現すればイサクを殺そうとしたのであり、宗教的に表現すればイサクを捧げようとしたのである。ここで注意しなければならないのは、ただこのように分類して一般的な表現を与えることに意味があるのではなく、「この矛盾の中に、人を眠れなくする不安がある」ことに意味があるのである。信仰がアブラハムのまねをすることを困難にしているのであり、アブラハムの物語で見落としてはいけないのはまさに不安なのである。
19世紀の神学者は、哲学者や歴史家よりもルターから遠いところにいたと言われ(1)、キェルケゴール自身がルターを読み始めるのは、1847年以降のことである(2)。キェルケゴールの生きたデンマークでは、ルター派プロテスタント教会を国教会としていたがゆえに、キェルケゴールにも何らかのルターの影響があったことは確実であり、その影響を無視する訳にはいかない。
そこでまず、ルターの『ガラテア書講義』を見れば、アブラハムによるイサク供犠の物語についてのごく簡単な言及が見られる。それによれば、アブラハムがその子イサクを犠牲として捧げるよう命じられたのは、律法であり、アブラハムの行いは神を喜ばせ、他の儀式上の行ないと同様に神を喜ばせたというのである。そして、アブラハムはこの行いによって、義とされたのではなく、信仰によって義とされたとして、『ローマ書』第4章3節の「アブラハムは神を信じ、それが神の義と認められた」が引用されている。つまり、ルターは、信仰と行ないを区別して、アブラハムの行ないではなく、信仰に重きを置いているのである。この点は、信仰と行為の一致を考えるキェルケゴールと対称をなしている。(注:ルターの唱えるキリスト教の予定説は多くの人間を奈落の底へと追いやった。
また、ルターは、『創世記講義』において、『創世記』の一文一文に詳細で膨大な注釈を施し、語源的な探求や行為の解釈、登場人物の心的状況の推測など、多岐にわたって追求している。そしてルターは、人々が『創世記』に対して抱くであろう疑問を想定し、それへの反論を試みて、人々を信仰に導こうと企てている。そこで想定される疑問は、人間が理性的に考えれば不可解と思える神の行為についてや、アブラハムの行為についての言及が多数見られる。これを見ると、『畏れとおののき』に先行して、人々がアブラハムの行為をどのように捉え、どのように解釈していたか、これに対するルターの批判や解釈を伺い知ることができるのである。
例えば、ルターは、神はアブラハムにイサクを約束の子として授けながら、どうして今度は燔祭として捧げよと命じたのだろうかという我々が通常思いつくような疑問を想定している。そこにおいてルターは、神は自分の約束を後悔したからイサクを燔祭として捧げよと命じたのか、それとも、アブラハムが神を怒らせるような罪を犯してしまったのかなどという理由が考えられている。また、なぜアブラハムが神を怒らせてしまったのかというアブラハムの側に立った考察もなされ、イサクを授けられることを誇りに思い過ぎて、神への感謝が足りず、それによって神が後悔してしまったのだろうかと、アブラハムの心情が想像されている」。(注:これが現代の日和見主義的なプロテスタントを生み出した背景であろう。つまり信仰と行為の一致がないのである)
もうすでに何度も前ブログで記事にしてきましたが,例えば旧約聖書「出エジプト記」14章葦の海の奇跡に書かれているシーンは,当時のサントリング島の大噴火による大地震によるもので,当時のナイルデルタの端にあるエルバラ湖がそうである。この「出エジプト記」の記述はほとんどがシュメール神話に基づいておりますが,これからの記事は個々の話は出来るだけ避けようと思っています。アレクサンダー大王は世界統一の先駆者といわれておりますが,H・Gウエルズ,A・トインビー,k・ポパーなどを理解するにつれ日和見主義的なプロテスタントたちは完全な敗北であると言えるでしょう。
OMNIOPOTENCE PARADOXにおいて全能の逆説に取り組んだイブン・ルシュド(1126〜1198)もそうであるが,神学者k・バルト(KARL BARTH)は「歴史における神の啓示という新プロテスタントの学説」や「キリストの王者の如き使命」を「許し難いもの」としている。バルトはその著書「信条」で「われわれが<神>と言う時に知っていると信じている一切は,神に触れてもいず,神を捉えてもいないのであり......いつでも,われわれが,自ら考え出した偶像,たとえ精神であれ自然であれ,運命であれ理念であるにせよ......という文章はヘーゲル主義的源泉である。
「歴史における神の啓示という教説」への攻撃に対して,おそらく次のように言い返されるでしょう。すなわち,地上におけるキリストの失敗した生が,究極的には,人間に対しての最大の精神的勝利として啓示されることになったのは,成功,すなわち彼の死後の成功を通じてである。すなわち,キリストの生を証したて正当化し,<最後の者が最初の者であろうし,最初の者が最後の者であろう」という預言を真ならしめたのは成功,彼の説教の果てであった,と。換言すれば,神の意思が顕示されたのは,キリスト教会の歴史上での成功を通じてであった,と。..........キリスト教の説教の成功史が神の意思を啓示すると主張する人々は,次のように自問すべきである。すなわち,この成功は本当にキリスト教精神の成功であったのか,,そして,この精神は,教会が勝ち誇っていた時代よりは,教会が迫害されていた時代に勝利したのではなかったか,と。殉教者の教会と,異端審問の勝利に満ちた教会とでは,どちらがこの精神を純粋に体現したのか。
J・マクマレイはその著書「歴史への導きの糸」のなかで,キリスト教の教えの本質を歴史預言に見出しており,キリスト教の開祖に「人間本能」の弁証法的法則の発見者を見ている。この「弁証法的法則」によれば,政治史は不可避的に<世界の社会主義的共同体を実現せざるを得ない。人間本性の基本的法則を破断することはできない......柔和なるものが者こそが地を相続するであろう,と。.......すなわち,何であれわれわれが為すことことは同一の結果を招来する。ファシズムでさえ結局のところはその共同体を導かざるをえない,それゆえ,最終結果は我々の道徳的決定には依拠しない,われわれの責任について悩む必要などないのだ,と。科学的根拠からわれわれは「最後の者が最初の者であろうし,最初の者が最後の者であろう」と確信できるのだと告げられるならば,これは,良心の歴史預言による代替にほかならずして何であろうか。
この理論は(確かにその著者の意図に反して)危険なことに,次のような勧告に近づくのではないだろうか。「賢くあれ,そしてキリスト教の開祖が汝に告げることを心にとめよ,彼は人間本性の偉大な心理学者であり,偉大な歴史預言者であったのだから。間に合ううちに柔和なる者の楽隊車に乗れ,人間本性の不可避な科学的法則によれば,これが先頭に立つ最も確実な方法なのだから」このような歴史への導きの糸は成功崇拝を含意している。すなわち,柔和なる者は勝利者の側に立つであろうから正当化されるだろう,ということを含意しているのである。それは,マルクス主義,そして特に私(ポッパー)がマルクスの歴史信仰的道徳論と記したものを,人間本性の心理学と宗教的預言との言語に翻訳しているのである。

それは暗黙のうちに(IMPLICITLY),キリスト教の開祖者がヘーゲルのー明らかに卓越したー先駆者であったという事実のうちに,キリスト教の最大の業績を見る解釈なのである。<以上:k・ポッパー著「歴史は何か意味を持っているか」25章<開かれた社会とその敵>より一部要約・解説。
マルクスとフォイエルバッハとの関係なども興味を持たれる方も多いと思いますのでいずれ。
一言だけ申し上げたい。神の名の正義の御手を待ち望んだり,神の名のもとの正義を無邪気に主張している牧師や宣教師は全くもって神を冒涜していることを識るべきである。キリストの千年王国とはアウシュビッツの2500倍の規模の米国でのConcentration CAMPを見れば分かるようにNAZIの千年王国のことである。(1000years German Nazi REICH)。多くの宣教師や牧師をHP上で知っているがイルミナティなどはサタンであり,サタンに打ち勝てるのはキリストしかなく,文句の一つも言わず,ギロチンに架けられてもイエスとともに再臨し千年の間統治する....もし盲目的に信じている人たちがいるとするならば,精神病院が幾つあってもこれでは足りない。
全世界の牧師のカリスマ的存在であるデヴィッド・メイヤーによれば何が起きようとも聖書に忠実に神に祈りイエスの再臨を願いなさい,つまり何もしては駄目だ,何もイエス以外は出来ない,と。ヨハネの黙示録には色々書かれているが,実際のX-DAYでは処刑されることはありえないであろう。それが聖書の弁証法の極意である。世界統一に向けて暗黙のうちに協力しているのだから。
驚くべきことに黙示録9:11(あの時と同じ日付だ)には「They had as King over them the Angel of ABYSS,whose name in Hebrew is Abaddon,and in Greek,Apollyon」They の意味はいなごとされているが実はPOPEのことである。つまりPOPEの上にはABYSS(Destroyer=破壊する者)がいる,つまりロヨラの時代とは時間差があるがイエズス会がいるという意味であろうか。一言で神聖詐欺と言えば簡単だが,本ブログではもっと掘り下げて行く。
1923年ドイツ型ハイパーインフレに備えよ!
君はこの記事を読んでどう思うか?書いた人間はとっくに殺されている。それでも神の正義の御手は永遠に現れない。