2008/5/30
「朝起きたら.......」
朝起きたら、
太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、
感謝することだ。
どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、
それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。

原文
ショーニー族の首長、テクムセ(1768-1813)の言葉
「インディアンの言葉」より引用

預言者ワバシャも「感謝」という項目の中で、次のように述べている。
”死”への恐怖 - これが、あなたの心に住み込まないような生き方を心掛けなさい。
朝、目が覚めたら真っ先に太陽の光に感謝しなさい。そして、生命と力に感謝しなさい。
今日も食べものがあり、生きるよろこびを感じることができることに感謝しなさい。・・・・・
もしも何も感謝するものがないように思える時は、自分にどこか間違ったところがあるも
のと思い、反省するがよい。食事をいただくたびに大霊に感謝しなさい。その一口分を
火に投げ入れて、「大霊よ、どうぞいっしょにお召し上がりください」と祈りなさい。・・・・
「レッドマンのこころ」 より引用
テクムセの高貴な精神性を垣間見させてくれるエピソードと彼の言葉・生涯
1812年の米英戦争、俗に言う「1812年戦争」において、米英双方がそれ
ぞれの捕虜の虐待を行っていた。その時、プロクター将軍の率いる英国軍に味方
をしていた大酋長のテクムセが、無抵抗の弱者をいじめるのは臆病者のすること
だと言って、制止しようとした。プロクターはこれが戦争というものの慣行だと
言って続行しようとした。するとテクムセは、では私とあなたとで一騎討ちをし
て、勝った方の考えに従おうではないかと迫った。これにはプロクターもあっさ
り引き下がったという。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「レッドマンのこころ」 より引用
1776年、テカムシが八才の時、アメリカ合衆国は英国に対して独立戦争を
始めた。英国はインディアンに彼等の土地を奪うことはしないと約束したので、
大多数のインディアンは英国側について戦った。ショウニー族も同様でアメリカ
軍に対して戦った。1780年にはテカムシは戦争が古ピクワに及び、アメリカ兵
らが彼等の家からショウニー族をおいたてようとして、火を放ち炎の中に村が
消えるのを見た。1781年、テカムシは初陣に参加した。ここでテカムシは兄が
傷ついているのを見て、恐怖におののき戦場から逃げ出した。その夜彼は自分
を臆病者と呼び、二度と恐怖は現わしはしないと誓い、その日限りでテカムシは
戦場には最後まで残って戦う男になった。独立戦争の終結とともに新しい開拓
者の群れが西武のインディアンの土地へぞくぞくとやって来た。彼等の数は日増
しに増え、北部のインディアンの土地はどんどん取られてしまった。ショウニー
族は彼等の狩りをする土地を守って開拓者を入れない様にと戦った。テカムシ
がわずか十五の時だった。彼はオハイオに運ばれてくる、開拓者の乗っていた
底の平たいボートを攻撃するショウニー族の一団に仲間入りした。この様な開拓
者のボートを攻撃した後で、ショウニー族が生け捕った捕虜を火あぶりにするの
を、テカムシは恐怖に震えながら見ていた。彼は白人を心から憎んだ。白人が
彼の一族に与えたのは苦しみだけだった。しかし彼は情を知り、無慈悲に相手
を苦しめるやり方には非常に気分を悪くした。突然彼は、年齢もその部族での
身分も気にかけず、奮然と立ち上がって年上の男達に、彼等のやった事は決し
て勇気のある行為でもなければ男のやる事でもない、「動物しかそんなむごい
事を無力な者にしない、人間のすべき行為ではない」と泣き叫んだ。年長の男
らは十五才の少年のこの言葉に恥を知らされた。テカムシはこの時自分の思っ
た事を、自分の言葉で話すと言う事がどんなに力を現わすかを始めて知った
のだ。これは人間を動かし歴史の歩みをかえる力強い武器ともなるであろう。
「三人の偉大なインディアン」より引用
死の時を迎えながら胸の中に恐怖をいっぱい抱えこんでいる連中−−−−
そんな者の真似をしてはいけない。そいつらは往生際が悪く、めそめそ泣い
たり、違ったやり方で生きなおす時間が欲しいなどと祈ったりする。死出の
旅路の歌を歌いなさい。故郷に帰る英雄のように死ぬがいい。
「俺の心は大地とひとつだ」より引用
すべての人に敬う心を示しなさい。だからといって、ひれ伏してはいけない
「俺の心は大地とひとつだ」より引用
テカムセはショーニー族の首長パクシンワを父に、クリーク族のメソタスケを母に
生まれ、父をダンモア戦争で、二人の兄をそれぞれアメリカ独立戦争とフォール
ン・ティンバーズの戦いで失った。こうした経験でテカムセは、家族の運命と、先
住民全体の運命を重ね合わせ、単独部族の反攻では、白人に抗し得ないという
主張を唱え始めた。1805年、ショーニー族預言者として知られるようになる弟
のテンスクワタワとともに彼は、飲酒やキリスト教信仰をはじめとする白人文化
の放棄と、先住民の伝統的習慣への回帰を説いた。1808年、彼らはインディ
アナ領地にさまざまな部族の数千の先住民が集住できるティペカヌーという集
落を拓いた。テカムセとテンスクワタワの先住民文化擁護の主張は、白人植民
の開始以来の先住民----白人関係の根幹を鋭くえぐっている。白人は先ず、
先住民が免疫力を失っている天然痘・麻疹・百日咳・インフルエンザなどの伝
染病の流行によって膨大な数の先住民人口を削減した。植民地期のニューイ
ングランド地方では、伝染病流行により先住民人口の5分の4が失われ、白人
入植のための「清掃」が済んだのである。さらに、白人商人が通商に際して持ち
込んだアルコール飲料は、先住民社会にとって新種の秩序撹乱の原因となり、
白人が推進した毛皮交易は、近代ヨーロッパ社会には自明であった営利欲を
先住民社会に育み、自然との共存という先住民社会の大原則を侵潤して、先
住民社会に破壊的影響を及ぼした。また、キリスト教信仰は先住民内の伝統
的な信仰に基づく人的結合関係や白人観に大きな影響を与えた。「白人は毒
蛇のようなものだ。冷厳に対せば弱々しくて害もないのに、甘やかして調子に
のせると、われら恩人に毒牙をむけるのだ」と1811年にテカムセはオーセー
ジ族に述べた。我々は、先住民----白人関係を機械的に衝突として捉えがち
であるが、若き日、白人教師から聖書・英語・歴史を学ぶとともに、白人との
戦争で家族を失ったテカムセは、経験から先住民間の部族の障壁を乗り越
えた連帯こそが、白人に先住民が対等に対峙する唯一の道であると判断し
た。彼は5大湖地方からメキシコ湾岸にいたる広大な地域の先住民部族を
歴訪し、先住民の大同団結により、アメリカ・イギリス・メキシコ勢力の間に、
先住民の緩衝地帯的独立空間を設置することを構想した。1812年米英戦
争が勃発するとテカムセはイギリスと同盟、2000名を超える先住民軍を率
いてデトロイトを包囲してアメリカ軍を降伏させた。翌13年にもテカムセは
アメリカ軍に大打撃を与えるが、イギリス軍との協調の乱れからカナダへ退
却を余儀なくされ、同年10月、テムズ川の戦いで夢半ばにして戦死すること
になる。テカムセによる先住民の大同団結の夢は、先住民が先住民として生
きることを目指していた。部族間の障壁を打破し、部族の個別意識を越えた
連帯の行方に、彼が具体的にどんなビジョンを抱いていたかは不明な点も多
い。しかし、テカムセは20世紀に入って、民族自決運動を支えるシンボル的
存在となるのである。
「ネイティブ・アメリカンの文学」より引用
アメリカ軍に対して各部族の大同団結の結束を呼びかけた時の彼の演説の
模様を紹介するが、テクムセは47歳の若さで悲劇的な最後を遂げることになる。
尚、この演説は1810−11年頃のものである。
兄弟たちよ・・・・わたしたちはみな、ひとつの家族だ。わたしたちはみな、偉大なる
精霊の子だ。わたしたちはおなじ道を歩いている。おなじ泉の水で、渇きをいやし
ている。そしていま、このうえなく重要なことがらを話しあうため、協議の火を囲ん
で、ひとつパイプをふかしているのだ。兄弟たちよ・・・・わたしたちはみな、友だ。
わたしたちはたがいの荷を背負い、助け合わなければならない。これまで、白人
の強欲を満たすため、父たち、兄たちの多くの血が水のように大地に流されてき
た。わたしたち自身もまた、大いなる邪悪の脅威にさらされている。赤い人間が
絶滅しないかぎり、彼らは静まらぬ。兄弟たちよ・・・・白人が、われらが大地には
じめて足を踏みいれたとき、彼らは飢えていた。毛布を広げる場所も、火をたく
場所もなかった。彼らは弱々しかった。ひとりではなにもできなかった。われらが
先祖たちは、彼らの苦痛をあわれみ、偉大なる精霊が赤い子供たちにくださった
ものを、惜しみなく彼らに分け与えた。ひもじいときには食べ物を、病めるときに
は薬を与え、眠るときには毛布を敷き、狩りをし、トウモロコシを育てるための土
地まで与えた。兄弟たちよ・・・・白人は毒蛇に似ている。寒いときには弱々しく、
害もないが、温まると元気になり、恩人に噛みつき、死に追いやる・・・・。兄弟た
ちよ・・・・白人はインディアンの友ではない。彼らは最初、ウィグワムを建てるに
足るだけの土地を望んだ。ところがいまは、日の昇るところから沈むところまで、
わたしたちが狩りをする大地すべてを手にいれなければ満足できなくなっている。
兄弟たちよ・・・・わが部族は勇敢だ。数も多い。だが、わが部族だけで立ち向か
うには、白人はあまりに手ごわい。どうかわが部族とともに、トマホークを手にして
ほしい。わたしたちがひとつになれば、大河の流れを、彼らの血で赤く染めるこ
とができるだろう。兄弟たちよ・・・・わたしたちがひとつにならないかぎり、彼らは
まず、わが部族を滅ぼすだろう。そしてつぎには、あなたたちが、いともたやすく
餌食になる。彼らはいくつもの、赤い人間の部族を滅ぼしてきた。なぜなら、赤い
人間は団結していなかったからだ。友人同士でなかったからだ。兄弟たちよ・・・・
わたしたちは団結せねばならない。同じパイプをふかさねばならない。たがいの
戦いをおのれの戦いとせねばならない。そしてなによりも、偉大なる精霊を愛さ
ねばならない。精霊はわたしたちとともにある。精霊はわれらが敵を滅ぼし、赤
い子供たちを幸福にするだろう。
「ネイティヴ・アメリカン 写真で綴る北アメリカ先住民史」より引用
「今、ペクォート族はいずこにありや。ナラガンセット、モヒガン、ポカネット、その他の
強力な部族のかずかずは、今いずこにありや。白人の貪欲と抑圧の前に、あたかも
夏の日を受けた雪のごとく消えてしまった。われわれは、民族としてロクな努力もする
ことなく、こんどは自分たちの番だと、破壊させられるにまかせるというのか。偉大な
る精霊によって贈られたわれわれの家、われわれの山河を、闘うこともなしに放棄し
てもよいというのか。われわれの先祖のをはじめ、われわれにとって大切な聖なるもの
全てを放棄してよいというのか。諸君は私と共に叫ぶに違いない・・・いや、断じて、
断じて、そうはさせぬ!と。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「アメリカインディアン悲史」 より引用
今のアメリカ合衆国でインディアンに関連した州は以下の通りである。
ALABAMA 現地のアメリカインディアンの部族の名から
ARIZONA 現地のアメリカインディアン語で小さな泉の意
ARKANSAS 現地のアメリカインディアンの部族の名から
CONNECTICUT 現地のアメリカインディアン語で長い川の意
IDAHO 現地のアメリカインディアンの部族の名から
ILLINOIS 現地のアメリカインディアン語で人の意
IOWA 現地のアメリカインディアン部族の名から
INDIANA インディアンの土地の名
KANSAS 現地のアメリカインディアン部族の名から
KENTUCKY 現地のアメリカンインディアン語で平原の意
MASSACHUSETTS 現地のアメリカインディアン語で大きな丘の意
MICHIGAN 現地のアメリカインディアン語で大きな湖の意
MINNESOTA 現地のアメリカインディアン語で空色の川の意
MISSISSIPPI 現地のアメリカインディアン語で大きな川の意
MISSOURI 現地のアメリカインディアン語で大きなカヌーをもった人たちの意
NEBRASKA 現地のアメリカインディアン語で浅い川の意
OHIO 現地のアメリカインディアン語で素晴らしい川の意
OKLAHOMA 現地のアメリカインディアン語で赤い人々の意の部族の名から
OREGON 現地のアメリカインディアンの部族の名から
TENNESSEE 現地のアメリカインディアンの村の名から
TEXAS 現地のアメリカインディアン語でアパッチ族に対抗する名・同盟者
UTAH 現地のアメリカインディアン語で山の住民の意
全能の逆説(OMNIPOTENCE PARADOX)
イブン・ルシュド(1126〜98)全能の逆説・OMNIPOTENCE PARADOXに取り組んだ哲学者
全能の逆説(ぜんのうのぎゃくせつ)、全能のパラドックス は、全能である存在(以下全能者)に論理を適用する際にうまれる哲学上の逆説の一つである。
目次 [非表示]
1 逆説
2 全能性の定義
3 哲学者の回答
3.1 偶発的全能者
3.2 本質的全能者
3.3 論理的不可能
4 ポップカルチャーとユーモア
5 参照
6 References
[編集] 逆説
イブン=ルシュド (1126年–98), 全能の逆説に取り組んだ最初期の哲人のひとり基本的な問題は、
※全能者は自ら全能であることを制限し、全能でない存在になることができるか
である。(訳注: 自分を全能でなくすことが不可能なら、その全能者には不可能なことがあることになるので、全能とはいえない。一方自分を全能でなくすことが可能ならそれを行った時点で全能者は全能ではなくなってしまう。)
一部の哲学者らはこの論議をもって全能者が存在しない証左とした。別の哲学者らはこの逆説を<全能であること>という概念(以下全能性)についての誤解ないしは誤用からきているとしている。また、中には、<ある存在は全能であるか否かのどちらかでしかない>と仮定し、さまざまな段階の全能性があり得ることを無視したことからくる偽の逆説であるとする哲学者もいる (Haeckel)。
しばしば、この逆説はアブラハムの宗教に於ける神(英語でいう大文字のGod)の語をもって記述されるが、全能者をそれと限る必要はない。中世以降、哲学者らは様々な方法でこの逆説を書いてきた。古典的な例として、
※全能者は<重すぎて何ものにも持ち上げられない石>を作ることができるか
という表現も知られている(訳注: そのような石を作れないなら全能ではない、作れるならその石を持ち上げられないのでやはり全能ではないことになる)。この表現にはわずかながら不備があるが(#哲学者の回答にて後述)、有名でもあり、この逆説が分析されてきた様々な方法を描写するのに都合がよい。
全能の逆説を厳密に分析するためには、全能性の精密な定義が必要である。全能性の定義は文化や宗教によって異なり、哲学者同志でも異なる。通常の定義は「なんでもできる」 all-powerfull であるが、これでは力不足である。例えば、全能性を<いかなる論理の枠組にも束縛されずに動けること>と定義してしまえば、この逆説は成立させようがない。この問題に対する近現代の取り組みは、意味論の研究、即ち言語--従って哲学も--全能性そのものを有意味に記述することができるのだろうか、という点を含んでいる。
[編集] 全能性の定義
全能の逆説を論議する文脈での全能性には幾つかの意味がある。Hoffmanによると、それは「いかなる事態でももたらしうる」力である(Hoffman)。しかし、その「事態」が含むものについては議論の対象になる。デカルトを初めとする哲学者はこの定義を引き継ぎ、論理的に不可能な出来事をもたらす能力も含めた。例えば有限の宇宙の中で立方体が形を失ったり、通常の数体系で1が2と等しくなったりすることは論理的に不可能である。全能者が形のない立方体を作ろうとすれば、それは可能であることが証明されようし、そのような全能者は論理法則に束縛されないことも証明されよう。トマス・アクィナスのような哲学者は全能者が全能であるためには、論理的に不可能なことを行う必要はないと主張している (Hoffman)。この場合、全能者は論理的に可能な全てのことをする力を持つ。この二つの考え方では全能性の限界が異なるので、全能の逆説を解こうと思うなら、両者を区別することが重要である。
全能性を特定の存在に適用する場合、複数の異なった方法がある。本質的に全能 essentially omnipotent な存在であるのか、偶発的に全能 accidentally omnipotent な存在であるのかである。前者は常に全能であるのに対し、後者は一時的に全能になり、その後全能ではなくなる存在である。全能の逆説は両者の間で異なって適用される (Hoffman)。
[編集] 哲学者の回答
通例、全能の逆説の逆説は、「全能者は<自分が持ち上げることのできない石>を作ることができるか」という問いとして表現される。この問いは次のように分析できる:
ある存在は、<それ自身が持ち上げることのできない石>を作ることができるか、できないかどちらかである。
もし、その存在が<それ自身が持ち上げることのできない石>を作ることができるならば、その存在は全能ではない。
もし、その存在が<それ自身が持ち上げることのできない石>を作ることができないならば、その存在は全能ではない。
これはもう一つの古典的逆説・抗うことのできない力の逆説を反映している。その逆説は「抗うことのできない力と、不動のものが出会ったらどうなるか」というものである。それに対する一つの回答はこうなる。もしある力が抗うことのできないものであるなら、定義からして真に不動のものは存在しない。逆に、不動のものが存在するならば、真に抗うことのできない力というものは存在しない。この扱いは基本的には正しいのだが、全能性の定義問題には役立たない。そればかりでなく、全能の逆説はもう一つの似通った哲学的問いに関連している。それはおじいさんの逆説である。全能性についての日常的な定義のなかにはしばしば時間旅行の能力が含まれている。では次のように問うたらどうだろう。「全能者が時間を遡り、自分自身の祖父を殺すことはできるのか。」 しかしながら、これは全能の逆説に対する論理的に十分な分析とはいえない。というのも、これは全能者に人間的な属性を負わせようとしているが、全能者は人間的な姿をとっているとは限らないからである (Wierenga)。
次のような要請によって逆説を解消しようという立場もありうる。即ち、全能性は、常に全てのことができることを必ずしも要求しない、という要請である。そうすれば、次のように理屈をつけられる
その存在は、作った時点では持ち上げられない石を作ることができる。
しかし、その存在は全能であるから、その存在は後からいつでも、持ち上げられる程度に石を軽くすることができる。従って、その存在を全能であるというのは尚も合理的である。
これは本質的に、1960年の映画『風の遺産』en:Inherit the Wind の登場人物である Matthew Harrison Brady が信奉する観点と同じであり、Brady の観点は大雑把にいって en:William Jennings Bryan に則っている。クライマックスシーンで Brady は論ずる。「(引用部分なので略。神は自然法則を好き勝手に変えられる、という趣旨)」と。石の重量を変更するということは、少なくともその石にかかわる重力の効果を変更するのと論理的に同値である。このような説明に対しては、次のように反論できるだろう。全能者は<自分にも重さを変えられないくらい不変な石>を作ることができるか。さらに、このような状況 — 後で石の重さを変えること — が全能者の要件として要請されるならば、全能者の自由意志を制限することになるのではないか、と。
en:J.L. Mackie は1955年の哲学誌 Mind に論文を発表し、全能性に二つの段階を設けて区別することで、全能の逆説を解消しようとした。第一段階の全能性(何かをするための無限の能力 unlimited power to act)、第二段階の全能性(ものが何かをするために持つべき能力を決定するための無限の能力 unlimited power to determine what powers to act things shall have)である。ある時点で両方の全能性を持つ存在は、自分自身の能力を制限し、それより後は片方の意味で全能であることをやめることもできるのであろう。
抗うことのできない力の逆説についての古典的な記述法は、近代物理学の文脈で見ると欠陥を持つことになる。というのも、進路が全く変わらない砲弾も、全く破壊されない防壁も、同様に無限大の慣性を持つことになり、<両者ともに>不可能である。しかしながらこれは物理の話であって、論理には直接関係するものではない。単に我々がこのような描写に慣れているので哲学の問題の例として選んでいるだけである。同様に、全能の逆説についての古典的な記述法 — 重すぎて全能なる創造者に持ち上げられない石 — はアリストテレス時代の科学を基盤にしている。天動説と平らな地面を前提にしているのである — 石をその惑星の表面に対してのみ「持ち上げ」うるのか? 更に、惑星の公転を考慮に入れれば、軌道の中心にある太陽に対し「常に」石は持ち上がっていると見なすこともできる。つまり、石挙上に関する言説の選択は貧弱であると近代物理学は示唆するわけである。だが、だからといって一般的な全能の逆説が「基礎から」無効化されたわけではない。思慮深いスティーヴン・ホーキングによる創造主と自然法則との関係についての考察に従い、古典的記述法を次のように直すことができるだろう:
全能者がアリストテレスの物理学に従う宇宙を創造する。
その宇宙で、全能者は自分自身が持ち上げられないほど重い石を作ることができるであろうか。
科学ライターのen:James Gleickは自身のリチャード・P・ファインマン伝の中で、原子の実在性に関し議論していた科学者が、全能の逆説に行き着いた様を記述している: 全能者 — この場合はキリスト教の神としていいだろう — は、神自身が分割することのできない原子を創造することができたのだろうか、と。
[編集] 偶発的全能者
存在が偶発的に全能である場合は逆説は解消できる:
全能者は自分に持ち上げられない石(あるいは分割できない原子など)を作る。
全能者はその石を持ち上げられず、全能でない者になる。
本質的に全能である者と違い、偶発的に全能である者は全能でない者になることが可能である。しかし、ここで問題が生ずる。その全能者は本当に全能だったのか、それとも単に強大な能力を持っていただけだったのか (Hoffman)。
[編集] 本質的全能者
存在が本質的に全能である場合は逆説は解消できる:
その全能者は本質的に全能である、故に全能でない者になることはできない。
さらに、全能者は論理的に不可能なことをすることはできない。
全能者が持ち上げられない石を創造することは、上記の論理的不可能性にあたる。故に全能者がそのようなことを要求されることはない。
全能者はそのような石を創造することはできないが、それでも尚全能性を保つ。
三角形の内角の和は180度でなければならない。この考えでは、必然的に「全能者も論理法則を破ることはできない」という論点を受け入れることになり、確かにこの逆説全体がこのような論点を強力に正当化している。このため、哲学者イブン=ルシュド は全能の逆説をさらに進め、その考えはパリ司教であったエティエンヌ(ステファン)・タンピエ (en:Étienne Tempier) の激しい糾弾を浴びることになった(第一回、第二回断罪 (en:University of Paris (Condemnations) 参照)。石を用いた表現のかわりにイブン=ルシュドは次のように問うた。「神は内角の総和が180度ではない三角形を作ることができるのだろうか。」
注意して欲しいのだが、後の非ユークリッド幾何学の発見はこの逆説を解決するためには役立たない。次のようにも問うことができるからだ。「楕円幾何学の公準が成立するとして、そこで全能者は内角の総和が180度を超えない三角形を作ることができるか。」 いずれの場合も、本当の質問は、全能者は自分の創造した公理系において論理的に導かれる結果を破る能力を持つのか、という点である。
この考えが定式化された歴史的な文脈を概観するためには、James Burkeの en:The Day the Universe Changed を参照されたい。テレビシリーズの第二話またはガイドブックの第二章である。レコンキスタの後、アラビアの科学書や哲学書 — それらは古代ギリシア文献の翻訳であることが多かった — が今度はヨーロッパの言葉に翻訳されて欧州の文化人の間に知られるようになった。イブン=ルシュドの難問がパリに届くと、喧々囂々の論議が巻き起こり、そのためパリ大学の神学生は6年間のストライキに突入した。Burkeはこれを評して「この『神の限界』問題はダイナマイトだった」と言っている。
挙げ句、カトリック神学の主流派もレコンキスタによって得られるようになったギリシャ、アラビアの素材を利用するのに甘んじることになった。多くはトマス・アクィナスの御陰である。(管理人注:トーマス・アクイナスは新プラトン主義とキリスト教思想の統合を持ち込んだアウグスティヌスの血統である)アクィナスの『神学大全』は「神は論理を拒否し得ない」と断言している。この点で、12世紀のユダヤ人哲学者にして医師であったモーシェ・ベン=マイモーンは『当惑者への手引き』Guide for the Perplexedの中でアクィナスの思想と同じ主張を行っている。モーシェ・ベン=マイモーンは否定神学(神は<○○ではない>という否定を通してしか記述できないという論法)の信奉者であった。なにがしら神秘的な観点から、否定的なあるいは Apophatic (言葉にすることができない、程の意)な神学の根本には、神の真のエッセンスは語りうるものではなく、神についての肯定的な記述(訳註: 神は<××である>というような記述)はいかなるものであれ冒とく的であり、異端であるリスクを負うという考え方がある。
アメリカ独立戦争のゲリラであったイーサン・アレンは論文「理性: 人間の唯一の神託」 (Reason: The Only Oracle of Man) を書き、そのなかで原罪、弁神論他を古典的な啓蒙運動スタイルで論じた。第三章第四節でアレンは、変化し死ぬことは動物を定義する属性であり、「全能性そのもの」も動物を死すべき運命から救うことはできないと書いている。アレンは論ずる、「ものは他のものなしでは存在しえない。谷のない山がいくつあろうか。吾人が存在すると同時に存在せぬとか、あるいはなんであれ他の本質的に矛盾したものに神が影響を与えるなどということも同様である。」 ("the one cannot be without the other, any more than there could be a compact number of mountains without valleys, or that I could exist and not exist at the same time, or that God should effect any other contradiction in nature.") 友人に理神論者呼ばわりされながらもアレンは、「理性」を通してではあるが、神聖なる存在ですら論理に束縛されると論じたのである。
[編集] 論理的不可能
一部の哲学者は、全能性の定義にデカルトの観点を含めればこの逆説は解消するという姿勢を崩していない。その観点とは全能者は論理的に不可能なことをなし得るというものである:
全能者は論理的に不可能なことをすることができる。
全能者は自らが持ち上げられない石を作ることができる。
全能者は次いでその石を持ち上げる。
思うに、かのような存在は数学的に2足す2を5にすることもできるのであろうし、四角い円を作ることもできるのであろう。この場合その存在の全能性は、本来的に矛盾であるかくの如き記述を乗り越える能力を指す。en:Harry Fankfurtの言を用いれば、「もし全能者が論理的に不可能なことを為すことができるならば、彼は彼自身扱うことのできない状況を創造することができるばかりか、一貫性という限界を超えて、自ら扱うことのできない状況を扱うことができるのである。」
だが、この方法で逆説を解消することは問題を孕んでいる。定義それ自体が論理的な一貫性を無化してしまうという点である。逆説は解決できるかもしれない。だが、それには出費を伴う。そのような存在が論理を超越してしまうので、論理はガラクタになり、無用ないし無意味なものになってしまうのだ。アレンの「理性」は、論理を放棄することで逆説を解消する人々を風刺している。アレンは次のように書いている。「もし彼らが理由(あるいは理性)抜きで論議しているなら — 彼ら自身が一貫性を持つにはそうでなければならない — 、彼らは理性的な納得を得ることはできないし、理性的な論議にも値しない。」
[編集] ポップカルチャーとユーモア
全能の逆説は、大衆文化の中にも浸透している。様々なメディアの中で、全能の逆説や全能者の存在に関する議論が参照される。
ザ・シンプソンズのある回で、Homer が en:Ned Flanders にこう質問している。「イエスはブリートを自分で食べられない程熱くチンすることができるだろうか。」 この表現は前述のものと異なり物理学方面からの苦情がこないことに注目して欲しい。ブリートの定義には慣性や相対性などといった近代的な概念は関係してこないからである。
ネット上の話題「チャック・ノリスの真実」(en:Chuck Norris Fact) の中に「チャック・ノリスは自分でも持ち上げられない程重い石をつくることができる。そしてそれを持ち上げてしまうのだ。クソったれである証明に。」とある。
スティーヴン・ホーキングは「時間史概説」 en:A Brief History of Time において、自然法則に関連した創造主の役割を論じたより一般的な議論の中で、全能の逆説を紹介している。後の著作『ブラックホールとベビーユニバース』 Black Holes and Baby Universes の中で冗談めかして、これらの宗教的憶測をもりこんだ御陰で — 最後の行の「その時我らは神の御意を知るであろう。」 "for then we would know the mind of God" を含んで — 恐らく問題の本の売れ行きが二倍くらいになったと語っている。
SFテレビドラマ「新スタートレック」に、Qという名前で知られる全能者が登場する。Qに関係した幾つかの回の中で、主にユーモラスな筆致で逆説的結果が追求される。
SFテレビドラマ「バビロン5」で、二人の登場人物がこの逆説について語っている:(台詞の引用につき訳出せず)
en:George Carlin はナイトクラブに出演する際よく「重い石」の疑問に言及する。近所の悪ガキどもが教会で質問するらしい。[1]
en:Something Awful もこの疑問を投げかけた。「神様は、値段が高すぎて自分にも買えないゲーム機を創れるの?」 編集者の答えはこうだった。「お創りになれる。そのゲーム機というのはXbox 360だよ。」
田中芳樹は「銀河英雄伝説」の中で登場人物の一人に「全能の神は自分の言うことを聞かない女を作れるか」という表現でこの逆説に言及させている。
[編集] 参照
[編集] References
Where relevant, external links in the following were last verified 19 April 2006.
Allen, Ethan. Reason: The Only Oracle of Man. J.P. Mendum, Cornill; 1854. Originally published 1784, available online.
Burke, James. The Day the Universe Changed. Little, Brown; 1995 (paperback edition). ISBN 0-316-11704-8.
Gleick, James. Genius. Pantheon, 1992. ISBN 0-679-40836-3.
Haeckel, Ernst. The Riddle of the Universe. Harper and Brothers, 1900.
Hoffman, Joshua, Rosenkrantz, Gary. "Omnipotence" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2002 Edition). Edward N. Zalta (ed.) [2]
Mackie, J.L., "Evil and Omnipotence." Mind LXIV, No, 254 (April 1955).
Wierenga, Edward. "Omnipotence" The Nature of God: An Inquiry into Divine Attributes. Cornell University Press, 1989. [3]
Wittgenstein, Ludwig. Tractatus Logico-Philosophicus. Available online via Project Gutenberg.
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最後まで読まれた方はおつかれさんでした。
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