satosho先生から職場に郵便物が届きました。『
その人らしく生きる』というご著書とコミュニティーフレンドに関する資料が入っていました。
ご著書の中でも、成年後見でもなく、ヘルパーでもない、「対等な関係」での支援スタイルとしてのコミュニティーフレンドが紹介されていました。
以前にも紹介しましたが、コミュニティーフレンドとは、障害のある人の「友だち」として、「できない」ことを助けたり、アドバイスしたりする人です。
報酬が支払われるわけではありません、「友だち」ですから。都合が悪くなっても、代わりの人が対応するわけではありません、「友だち」ですから。お互い、会って楽しく過ごすことが目的です、「友だち」ですからね。
「友だち」として、「対等な関係」での支援、か…
従来にない、画期的な支援の形です。
常々思っていることなのですが、保育所や学校の先生は、どうしてあんなに、「子ども同士の助け合い」という言葉が好きなのでしょう。
そして、手をさしのべる子の「やさしさ」ばかりに目がいき、
さしのべられる側の子の複雑な気持ちには、なかなか気づかない…
今も忘れられないのは、保育所のお迎えのとき、机に置かれた日誌に、「今日は、公園で〇〇をして遊びました。なかなかできないNANAくんに、みんなが手を貸してあげました」風の記述を見つけた瞬間の、微妙な違和感。
違和感の正体は何なのか、「我が子の成長が他の子より遅れている」ことを示されての焦りか、人とは比べてはいけないと分かっているはずなのに…などと、当時の私はひそかに葛藤していたわけですが、いつだったか、「みんな、エラソーに言わはるねん。俺、やりたくないのに、やれ、やれ、がんばれ、言わはるねん。腕引っ張りはるねん」というNANAの言葉に、ハッとしたことがあります。
これが違和感の正体なのかもしれない、と。
学校に上がってからは、一層、クラスでの「助け合い」「教え合い」が重んじられます。
言葉の上では「合い」となっていますが、現実は双方向ではなく、助ける・教える側と助けられる・教えられる側は固定化しています。そうなると、どうしても助ける・教える側は、優位に立ちます。時に、相手を「できない子」として見下げたり、そうでなくても、「小さな親」「小さな先生」のように、相手の行動にあれこれ口出しします。
その行き着く先は…
先日、ダウン症児を育てている知り合いが「どうも最近、幼稚園で、いつもお世話してくれてる女の子たちに泣かされてるみたいなんだ」とこぼしていました。「『〇ちゃんダメでしょ、ここは来たらダメ』とか言って仲間に入れてくれない時があるみたい」。
やさしい支援者が、いつしか横暴な支配者になる…私が恐れるのは、そういう事態です。
こんなことを言えば、多分、「悲観的すぎる」と非難されるでしょう。「見方が偏っている。事例も極端なものばかり」と叱られそうです。
確かに、子どもによる支援が上手くいく場合もあります。けれど、私の経験上、子どもたちに「友情」がある場合です。「かわいそうだから、やさしくしてあげる」のでも、「先生や親が『あの子には親切にしてあげなさい』というから言い付けを守っている」でもなく、その子のことが好きだから、いいやつだって気にいっているから、手を貸す…それが自然な形なのだと思います。そして、昨日は自分が泣いているときに慰めてもらった、今日は相手が縄跳びに苦戦しているようだったからコツを教えてあげた、というように、ある程度、相互支援でなくては「対等」でなくなってしまいます。
それだけに、「子どもの、子どもに対する支援」には、もう少し慎重でなければなりません。たとえ子どもが「お世話係」に名乗り出たとしても、その後、対等な関係が維持されているかを見守らなければなりません。
理想は、「支援」のために友だちになる(ならせる)、のではなく、友だち関係が確立したうえでの「支援」です。でも、それは逆であっても構わない…あくまでも「対等な関係」でさえあれば。
さらに、「相互」性が理想だけれど、これは、必ずしも「同質の支援の交換」である必要はありません。一方が物理的に支援をし、片方が笑顔を見せ、それによって気持ちが癒される…そんなこともあるわけです。
クラスでも部活でも、周りから「助けられ」、あれこれ「助言される」ことの多いNANA。
「そりゃまぁ、みんな、いろいろ言うてくれますよ。中には正しいこともあるけどねぇ…」とため息、「ちょっと、うるさいし、エラソー…」。
そうだよね…
たとえ「しっかりしている」子どもでも、子どもはあくまでも子ども…大人の便宜のために、「先生もどき」「親もどき」にさせてはならないと思います。

5